Monday, July 31, 2017

シラケた言葉

山をやる、とは、リスクも含めた山のありのままの姿と対峙していく、ということである。

どんな山、たとえハイキングの山でもリスクフリーの山なんてない。

そのことを理解するのがいかに難しいか?と最近つくづく思い知らされた。

夫は、「楽しく一緒に山に登りたかった」んだそうである。

これを聞いて私が喜んだか?んなわけないでしょ。白々とシラケた。

どれだけ私の努力を全くをもって分かっていないのか、この言葉に表れている。夫ほど身近にいて、私が努力する様子を見ているのにも、かかわらずである。

山のリスクを理解するといことがいかに難しいか?…とつくづく思い知らされた

これだけ私と一緒にいて、山のリスクを全然分かっていない。夫と私が ”一緒に楽しく登る” なんて不可能なのである。彼に成長する気がないから。

成長する気というのは、
(道迷いを防ぐために)読図をマスターし、
(雪上歩行を習得するために)雪上講習に出て、
(滑落に備えるため)滑落停止訓練をし、
(山では岩場もでてくるので)岩講習に出て、
(滑落に備えるため)ビレイをマスターし、ロープを買ってノットとロープの扱いを覚え、
(そもそも滑落しないため)クライミングジムに行って、登攀の練習をし、
(登っている間に技術不足でビバークする羽目にならないように)易しい岩場に行って、1日で何ピッチ、ピッチ数が稼げるか数え、
(それでも滑落してしまった場合に備えて)レスキューの講習に出て、宙吊り脱出と自己脱出くらいし、
(自分たちで最低限のレスキューはできるように)ザック搬送を互いに学び、
(それでも瀕死の事態になったとしても救急救命程度はできるように)日赤に救急救命法を受講して、

そして、やっと、私が行く山に行けるのである。

彼はこれをするのに、少なくとも3年かかるだろう。真面目にフルタイムでやって3年かかるのだから、片手間にやっていたら、6年かかる。

だから、夫と楽しく一緒に、なんて、ない。

夫が楽しく登れる山に合わせていたら、ただのハイキングになり、そんなの、私が何もタノシクナイ。

例えば、まったく同じタイトルの映画を見るのでも、大人と行けば自分も楽しむだけで良いが、子供と行けば、相手を保護しないといけなくなり、自分の楽しみは後回しになるでしょう。同じことです。

夫はそもそも、ハイキング山行で、相手を楽しませるだけの、何の素養も持っていない。むしろ、教えてもらう側であり、彼の安全を見守ってもらう側だ。

だから、ハイキングに行っても、私のガイド山行になってしまう。

しかし、これは、夫だけでなく、山岳会にいたおばちゃんたちもみな、同じだった。山岳会に20代のときからいて、60代になったおばちゃんも同じだった。

他の人のガイド山行にフリーライドしていて、「一緒に行ってやっている」とまでは言わないまでも、「”一緒に”楽しく登っている」気持ちなのである。

それで、そこを分かってもらうため、私がリーダーの山行の時(読図山行)、

 地図を持ってこない人が一人でもいた時点で、たとえそこが駐車場でも敗退にします

とした。読図山行で地図をもってこなかったら、何しにきてんのって話だ。

すると、陰のリーダーの先輩が慌てふためいて、なんとその女性の先輩の家に地図を届けに行っていた(笑)。つまり、その人が地図をもってこないことは確実なこと、だったのだ。

このリーダーの行動は良くないことだ、と思う。

自分の準備不足のせいで、山行が不成立になる、ということを経験させるべきだったのだ。

運命共同体ということの、本当の意味はそういうことだからだ。

だから下辺の人は努力して上がってきてもらいたいし、上の人はその人を引きあげようと言う動機になるのだ。

そうでなかったら?悪魔に魂を売っていることになる。安全が犠牲になるからだ。

連れて行ってあげる&連れて行ってもらうという、一見、平和的解決だが、少しでも問題が起これば、一気に共倒れになる。

一人前の山ヤだったら、誰もいなくても、下山できないといけない。人の指示がなくても、ちゃんと低体温症から身を守れ、雨具くらい指示なくても着ないといけない。東西南北くらいは分かっているべきだ。

そんなのは、おやつを大量に持ってくる前にしておかなくてはいけないのに、みんなの意識は、大量におやつ持って行く私=貢献、なのである。

じゃないよ。

山やは、最低限、地図くらい、ちゃんと持って行ってよ。

あなた地図持って行く人、私おやつ持って行く人、なわけないでしょ。

人生も同じである。あなた食べる人、私作る人、なわけないでしょ。

どっちも、ちゃんとできた後の役割分担でしょ。そもそも、できないんじゃ、タダの依存。

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