Thursday, June 23, 2016

ジム嫌いの師匠の想い出

■ ジム嫌いの師匠

最初に私を見出してくれたのは、個性的な会の代表を務めているベテランだった。雑誌の岳人などにも書いていた往年の山ヤだった。

私は、と言えば、アルパイン0年生で、事情が分からないことだらけだった。

一般縦走登山は、一通り、縦走も雪も自分で終わり、山へ行くのに地図を持ってこないような状態は抜け出している状態ではあった。でもアルパインへは進まない予定だった。

私は当時、進められて、ジムへ通っており、気の合うパートナーを得た。

一方、師匠の方は、私が人工壁通いを始めたことを苦々しく思っていたようだ・・・。

当時、私は、山の事情や、旧来的な育て方と、新しい育て方があるのも全く知らないので、師匠の抵抗は、ぜんぜん意味不明。(今では事情が少し理解できるようになったつもりだ。)

師匠がなぜ、弟子の私がクライミングジムに行くのに、難色を示すのか分からなかった。

普通はヤル気があるねって喜んでくれるんじゃないの?

■ 初心の頃は、守りの技術を教わるべし

かと言って、師匠は岩には練習になるほどは、連れ出してはくれなかった。

師匠とのクライミングは、三つ峠と十二ヶ岳の岩場の2度のみで、フリーの岩場には行ったことがない。あとはアイスのルート。アイスのゲレンデ。

今思えば、ランニング支点の取り方やビレイポイント(アンカー)構築の方法などを師匠は伝授したかったのだろう。しかも、リアリティのある現場で。

ただ、初心者は、それを教える前段階に、ゲレンデ通いが、3年程度必要なのかもしれない。

教わる側が以下のような段階だったからだ・・・。つまりドがつく初心者から、ドがつかない初心者に
なるのに3年かかるのかもしれない。

■ ドがつく初心者とドが付かない初心者

初めての三つ峠では、私のパートナー候補者として来てくれたNさんは、師匠を引っ張り落としそうなビレイをして、師匠は顔面蒼白。 

彼女は、私がハンギングビレイしていると、「すごいですね!怖くないんですか?」と、かなりトンチンカンな感想を漏らすほどの初心者で、師匠と私が懸垂準備をしていても、右往左往するだけで、次に何が起こるのか、分かっていない様子だった。

アンカーやロープドラッグを起こさないランニングの取り方などを教えるには、まだ単純な確保理論に対する理解が足りていない。

つまり、ドがつく初心者だ。このような段階の人に、アンカー構築を教えても、耳に入らないだろう。

■ ベテランの安全監視が必要な段階

それほどあぶなっかしい初心者の二人であれば、二人で岩に行く、というのはない。

ので、当時私は岩に行きたくて仕方がなかったのだが、私を引っ張り落とすビレイヤーの彼女をさすがに外岩に誘う訳にもいかない・・・。

私としては、できることはジム通いくらいなものなのであった・・・。

こういう状態の時は、いくらパートナーでも、安全管理上、ベテランの同行が必要だ。

■ おメガネ・・・

師匠は大ベテランだったので、ジムで会った新しい相方(男性)と一緒に岩に連れ出して欲しかったが、懸念があった。

 1)師匠が得るものがない

 2)若い男性は、おそらく”師匠のおメガネに叶わない”・・・(汗)。

師匠としては、得るものがない上、連れて行ってもらう方も、「俺、一人でも、これくらいのぼれらぁ」と思っているので・・・双方互いが必要だと思っていない(汗)。

安全管理してもらう側は、管理してもらうと思っていないし、してあげないといけない立場になる側は、感謝されない行為をしなくてはならなくなる・・・

という訳なので、どうしても、しわ寄せは私に来ることになるのは、見えていた。

ので、相方の分まで私が肩代わりして連れて行ってもらう恩を着ないといけないことになり、私としては、荷が重かったのだ。

師匠に引き合わせても、相方もありがたいとは思わないだろうし、師匠の側のおメガネにも叶うとは思えなかった。

■ 目が高い師匠

そもそも、師匠は、目が高そうだった。14サミッターでも師匠の目にはかなっていなかった。

初心者だから実績が必要になるわけではないが、山の好み、山への姿勢、そういうものが真摯でない昨今の若い人は、なかなか師匠に紹介できそうなクライマーがいなかった、ということだ。

師匠の気に入るクライマーの、ストライクゾーンは、とっても狭そうだったのだ・・・。

フリー寄りの人とアルパイン寄りの人は、あまり相性が良くない。

■ ジムの弊害

師匠とは、去年の今頃から、連絡が途絶えて、もうまる一年近くになる。

相方と登っていた頃は、師匠は自分の会の新人君の話をして、私を羨ましがらせるばかりだった。

師匠の会の新人君は、ベテランに連れられて日和田などの初級の岩場に連日何度も何度も通っていた。私は、レベルに合っている易しい岩場へは、相手がおらず、なかなか行けなかった。

師匠がジム通いに否定的だったのは、今思えば、以下の点が懸念されるからだろう・・・

≪懸念事項≫

 1)ボルダリングの価値観を身につけてしまう つまりグレードだけを追求するようになる

 2)外の岩の危険について、無頓着になる

 3)登れるルートをグレードだけで判断するようになる

 4)ルートコレクターと課す

 5)そのような安全管理不在の人たちとルートに行き、危険な目に遭う

実際、私は数々の危険な目に遭ったような気がする。

あるとき、岩に誘われて行ったら、ビレイヤーが経験者ではなく、完全初心者のビレイだった。それで、私は生まれて初めての5.8を初リードする羽目になった・・・(汗)。

このような場合、いつも問題になるのが、

 危険を作り出している人がいい人で、なおかつ、無知であるがゆえに故意でないこと

である。故意でなければ罪は問えないが、そのつもりがなく殺人して、知りませんでしたごめんなさいで通れば、法はイラナイ。

現在クライミングは無法地帯であり、

 クライマーの側がビレイヤーを選ばなくてはならない

が、初心者のクライマーの場合、自分に選択の責任があるとは知らされていない

初リード時も、私はこの人のビレイで登る羽目になった、というのが正直なところであり、ベテランがビレイしてくれるものと思って、同行していたのだった。

ビレイヤーはいい人ではあったが、終了点で「どうしたらいいの?」と何をしていいのか分からなくなり、またセカンドのビレイも、アンカー構築も私のほうが教える側だった。

このようなケースは、多くみられると思うが、非常に危険だ。何が危険なのか、分かっていない状態だからだ。

■ 初心者同志はリスク満点

相方との関係もそうで、私自身がまだ自分自身も初心者で、自分がどこのなんというルートに行って良いのか理解できるようになる前から、自分自身の安全管理をしなくてはいけない立場だった。

私自身のルート選択は、それほど突拍子もない難易度のところは、出さない。例えば、今年は奥穂南稜くらいがレベルかな~と思っていたら、それは合っていそうだった。

しかし、一般的に、クライミングを始めたばかりの男性たちは、行きたいルートが行けるルートとは、かなりかけ離れている。

ただし、「頭を冷やせ!行けるスキルがあるかきちんと見極めろ!」というのは、誰もが通る道だ。

それを知っているから、ベテランの男性クライマーは、私を心配してくれるのだろう。

一方で男性初心者で女性とつるみたい人は、そのような度を超したルート設定の我を押し通したいからだろう。

■ ブレーキこそが先輩の役目

そこで、初期の頃の先輩の役目は、ブレーキ役というものだ。

ところが、このブレーキ役は嫌われ役なため、それを果たしてくれる人は少ない。

そうしてくれるかどうか?は、その後輩にどれだけ責任感を感じてくれているか?による。

どうでもいいクライマーだと思われたら、誰も止めてくれない。勝手に行って、勝手に落ちてください、と言わんばかりだ。

極論したら、死んでもこっちのせいではない、と思っていたら、誰も口を出さないだろう。

■ 弱いほうの立場

そう言う場合の、私(女性初心者)の立場は?というと・・・、かなり危険だ。

一緒にいる相手は、私を死の危険に陥れているとはつゆ知らず、そうしているわけだからだ。

例えば、相手が墜落したとしよう。私はトップをレスキューできるだろう。守りの技術は教わっているからだ。

では、私が登れなくなったら・・・?セカンドなら、プルージック登攀で切り抜けられよう。

しかし、アンカーがしっかりしていなかったら?その可能性はある。アンカーが崩壊して落ちたら、トップのクライマーは、私をレスキューできるか?できない可能性があった。

レスキューを共有はしていなかったからだ。何を知っているべきか?というようなことだ。

一緒に行く相手が十分スキルがあるかどうか?も師匠からはコントロール外となり、コントロール外のリスクには責任が持てない。

■ 守りの技術

私は、クライミングは、守りの技術から教わっていた。

一番目は懸垂下降、カラビナだけでも懸垂できる技術。

それからプルージック登攀。

笑い話だが、初めての小川山のクラックでもフリーで登れない場合はプルージックで上がった。後でユマールも買った。

ビレイヤーの自己脱出。

トップが落ちた場合のリーダーレスキュー。

相方は逆だった。まずクライミング。そしてビレイ。その後に支点。その後の懸垂や、レスキューは今からだった。

師匠は、レスキューを共有していない相手と私がクライミングへ行くのは嫌だったのかもしれない。

■ 間違えながら学ぶ道

彼とだと、二人とも実力以上のルートに取り付き、取り付いた後で実力以上だったと理解する、という流れになりそうだった。

もちろん、こういう流れで理解してもいい。・・・のだが、その場合は、敗退が確実である必要がある。

登れないところを登り、ルートファインディングのミスなどで、行き詰まる・・・というのは良い経験だ。私も沢でしている。

けれども、その場合、ミスを拾ってもらえること・・・たとえば、行き詰まったら、上からロープを投げてもらえるなど・・・、すでに私も2回も投げてもらっているが・・・が必要になる。

二人だと、それは期待できないわけだし、一度のルーファイのミスがあれば・・・そして、そういうことは初心者には必ずあるものだが・・・、支点が見つからなければ、落ちるかクライムダウンしかなく、そうなれば、下のビレイヤーは、トップをレスキューすることになるのかもしれなかった。

ということを理解していたのは、私だけだったのかもしれない。

ルートファインディングが難しくて登れない、ということは、体験していないとなかなか理解がしづらいのだ。

初心者はよく支点があるほうではなく、易しいほうに引きづりこまれて、ランナウトしてしまう。

支点がないのが怖くなり、登れば登るほどリスクが高まる。沢の高巻きでも同じだ。

■ 初期の人工壁のメリットは支点の強固さ

そういうリスクを容認しつつ登っている私を師匠は見ていて、いらだっていたのかもしれない。

私自身も、相方が暴走するリスクは知っていたし、相方とは話が通じると思い、リスクコントロール可能な相手だと思っていたから、一緒に登っていたのだった。

私の考えでは、初心者の時期は、人工壁が必要だ。

 1) 人工壁では支点は強固で、落ちることが日常なのでビレイ経験が積める

 2) ビレイが分かるだけでなく、落ちてはいけないところ(1P目)も学べる

 3) 手繰り落ちしてはいけないことも理解できる

 4) 回収のテクも学べる 

例えば、被った壁での支点回収は、最後のピンを外して、2ピン目に戻る。

そういう細かな点が、いきなり外岩で始めると学ぶことができない。ビレイの習得は最大のもので、ビレイヤーの立ち位置など、人工壁で学べる。

しかし、現代の人工壁のビレイヤーは恐ろしく間違ったビレイをしていることが多い。

そういう人をお手本にしてしまうことを師匠はおそらく懸念したのかもしれない。

■ 師匠の視点

師匠は60代だったので、人工壁はなしで育った時代の人だということだった。これは後で知ったことだ。

今の時代のクライマーは、人工壁から入り、外壁へ進む人が多い。師匠の時代には、外岩や外壁という言葉もなかったそうで、岩は山にあるのが当然なのだそうだった。たしかに。

私の考えでは、今の時代の人は、山から入っても人工壁は必要だと思う。私の結論は、必要、というものだ。

仮に私のあとに来た人に私が教える立場になった場合、人工壁をすっ飛ばすと、私は、その後輩のビレイが、私の墜落を止めてくれるかどうか不安なまま、登り続けなくてはならない。それはできない相談だ。(そのできない相談をやっている会も多く、すごいな~と思う)

実際、師匠のリードクライミングの墜落を私は止めたことがない。

おそらく、師匠の側からすると、落ちるはずの無い楽勝なところしか登っていないから、私のビレイが安心できるかどうかは、あまり問題ではなかったのだろう。

弟子のほうがクライミング力で劣るので、弟子を成長させるために、登る程度のところでは、師匠は落ちない、ということだが、一方の弟子の方は落ちるので、師匠の側のビレイが確実であることは必須である。

どちらのビレイも確実でないなら、どちらの側も、落ちる難易度には取り付けない。

■ 下手くそ組

師匠は、ときどき、私に意味不明のことを言った。

「登れない組なんですよ」 「クライミングは下手くそなんですよ」

私が登れる以上のところを登る人に下手くそだと言われても、「?」となってしまうだけだったのが、あとで、他の人に事情を説明してもらった理解できた。

ようするに、3点支持で何とかなるクライミングと、2点支持のクライミングに決定的差があるのだそうだった。

 3点支持 = 主に歩きの延長、アルパインで使う
 2点支持 = 主にスポーツクライミングでは、この登り方

というわけで、フリークライミングが登山にとりいれられてからは、2点支持のマスターで、登山道の歩き方もスピードアップしたのだそうだ。

それについては、甲斐駒の小屋で、他会のリーダーからレクチャーを受けた。

スピードアップする以前の登り方でも、ルートは登れる。登れるが、スピードが違うと両方経験している現在の師匠が言っている。

■ 上手組

アイスで知り合ったベテランは、以前の師匠と3歳しか年齢も変わらないが、2点支持のスポーツクライミングの登り方を中高年と言われる50代でマスターしたのだそうだ。

師匠と違い、彼は、私には人工壁が手っ取り早いと言っている。

その点だけを見ると、全く違う意見だが、二人が見ている山は似ているのではないかと思う。

先日、旗立岩に行ってくれたベテランも、同年代だが、フリーもこなす。

思うに、今の60代の人たちにとっては、フリーを山に取り入れるか、取り入れないか、は、大きな分岐点だったのだろう。

■ フリーは基礎=必修

ところがそれ以降の人にとってはフリーは選択肢ではない。もちろん、今、アルパインクライミングを始める人には、選択肢ではない。

必修項目だ。

フリークライミングは、基礎力とされており、フリーを回避して、山をする、ということは、誰であっても、何歳で初めても、選択肢にはないだろう。

今アルパインをするなら、60代で山を始めてもフリーは必修項目だ。(60代でアルパインはツラいと思うが)

何としてもフリーの基礎力なしで、山を続けたい場合は、沢のほうへ流れて行ってしまうようだ。

その沢も、あまり難しいところへはいけない。現代の沢も、記録になるようなところは、高難度の登攀を前提にするからだ。

一方初級の登攀力のクライマーにとっては、沢は易しい登攀練習の場になる。丹沢の沢を全部終わってから谷川へ、ということと似ている。

記録だけが登山ではないので、記録を残すような山をしたい、と思わなくてもよいが、そうであっても、フリークライミングをしないというのは、山ヤには逃げにしかならないだろう。

一般的な”山”で求められるフリーの力は、そこまで高度なものが要求されるものではないからだ。 

最低限と言うことで言えば、5.10Aが過不足なく登れれば、大抵の5.9は危なげなく、登れるわけで、日本中のルートが、かつて、Ⅳ級A0と言われたことを考えれば、クラシックルートに行く限りは、ルートファインディングを誤らず、Aゼロする気でいれば、技術的には困難であるはずはない。

この状態のことを私は、5級マスターと呼んでいる。つまり5級ならどこでも登れるという意味だ。

クラシックルートは山の弱点を突いたものなので、どんなに頑張って探しても、5.13Aは出てこないのだ。

■ 若い山ヤ

しかし、一方で、さらなる高みを目指す若い山ヤが、5.13や14へ続くフリークライミングのマルチピッチルートを、取りかかる前からあきらめてもいい、ということにもならないだろう、と思う。

最終的に、高難度マルチはやらない可能性があるにしても、それを鼻から選択肢から外すということも、20代の若い男性には早すぎる。まだ可能性をあきらめる段階にはない。

もちろん、私のように40代で山を始めた女性や、相方のように50代で始めた男性には、高難度マルチピッチは、常識から考えると、成長の伸びしろから見て、射程範囲には最初からあまり入ることはないだろう。

 20代の伸びしろ → 大 → 高難度マルチの可能性もあり
 30代の伸びしろ → 中 → 高難度マルチは、本人の努力と機会次第
 40代の伸びしろ → 小 → 高難度マルチの可能性は限りなく小さい
 50代の伸びしろ → さらに小 → 高難度マルチどころか、ロープワークマスターの可能性も小

それでも、基礎となるフリークライミングの登攀技術・・・2点支持・・・をマスターする方向で努力すべきであるというのは、現代の山ヤとしては、最低限のラインと思える。

何歳であってもだ。

一般的に、5.11を登るのには、才能は関係ないのだそうで、誰でも地道に努力をしていれば、イレブンは、登れるグレードだと言われている。

実際に、クライミング人口を見ても、5.10代を登っている人が人口の半分以上で、11以上を触る人、リードする人は、熟達者となり、5.12以上を登れる人は外の岩場ではガクッと減る。

■ 高難度だけを目指すという弊害

ボルダ―などでは、より困難なグレードを登る若い人はたくさんいる。

が、ボルダ―は、山で必要な技術とかけ離れすぎており、突破力が付くが、長いルートを登らないかぎり、持久力やタクティックスが付くわけではないので、一瞬のグレードでは、同じグレードの長いルートへは対応できなかったりするのである。

例えば、3年かけて難しい一つの課題へ取り組んで登れるようになることはできるが、私がもしそのような道を選んだら、師匠はガッカリして、山ではなく、グレードが欲しいのだろう、と悲しむだろう。

そういうタイプの逸脱というのは、若い時にこそ、避けなくてはならない。

そして、このタイプの逸脱への誘惑が多いのは・・・これがまた、クライミングジムというわけなのだなぁ。

つまり、上半身裸の若い男性が、雄たけびをあげて地ジャンしていたりするのである。

見た目に分かりやすいが、山で上裸だと虫に刺されるし、日焼けは心配だし、なにより小さな傷がいっぱいついてしまうし、ワイドクラックなんて出てきたら登れない(笑)。

それに、上裸を見て褒めてくれるギャラリーも山にはいないのだ。山でかっこいいのは、上裸の肉体より、目ざといセルフビレイ。私なんて、相手の支点が微妙と思ったら、それとなく自分のセルフをもう一個別にとるのだ。

師匠は、もしかすると、有望だった岳人をボルダラーにされてしまうということが過去に事例としてあったのかもしれない。

そこは、私が山を忘れて、クライミングだけにハマってしまうのでは?と懸念していたのかもしれないが・・・

残念なことに(笑)、師匠の弟子は師匠が見込んだだけあり、元々ジム嫌いなのであった(笑)。

あまり好きではないけれど、必要がある、ということは、悩ましいものである。







Wednesday, June 15, 2016

読了 『外道クライマー』

■ 読了 『外道クライマー』

宮城さんの外道クライマーを読み終わった。

面白かった。

■ やんちゃだった弟

このところ、なぜか2歳下だった弟(既に他界)のことをよく思い出す。男の子はやんちゃだ。

弟は小さいころから、生傷が絶えなかった。

まずは、定番で赤ちゃんの頃、縁側から落ちて怪我をした。ロッキングチェアーに攀じ登って、当然だがチェアが倒れて、あごを怪我し3針。蜂の巣に手を突っ込んで蜂にされる。転んで頭を打って三針ぬったこともあった。救急車には弟は3回乗った。私は一回も乗ったことがない。

姉の私は、というと、小さな蜂の巣をつつこうとしている弟を「大丈夫なのかしら」と思いながらも、容認して、やっぱり刺されてダメな様子を見ては「だめなんだ~」と納得。観察結果だけはもらった。

この外道クライマーという本は、そういう感じの本だった。

「ええ~大丈夫なの~?」と思いながらも、やりたいことをやりたいのだから仕方ないねぇ…と容認し、「やっぱり言わんこっちゃない…」、でも、「とりあえず生きて帰れたから良しとしましょう」、という感じだ。

それが、”外道”クライマーなのかどうか??? それって”王道”クライマーなのかもしれないんだが・・・(笑)。

宮城さんは、ちゃんと生きて帰ってきているので、「言わんこっちゃない」ではなく、「もう好きにやっちゃってください」なのだ(笑)。

■ 共犯者

考えてみると、山岳会による山行管理も、そのようなものかもしれない。

無茶だということは、分かっている。46日間のタイ遡行なんて、往年の沢ヤからさえも、「その山行って何が面白いの?」なんて感想を受け取っていた。(私は去年の仙人集会で報告を聞いている。その場でそういう質問があった)。

ただただ不快感との戦いのようにしか感じられない沢山行だ。

この感想は本を読むと変わったが、一般的な沢登りの喜びとは、全く違う内容の山行だということは言える。

でも、行きたいんだからねぇ…仕方ない。

そう言う場合、山岳会の仲間として(山岳会ではなくても)、すべきことは、その気持ちを共有し、プロセスに参加し、帰ってこれる場を確保しておいてやる、という事だけなのだろう。

つまり、理解者でいること。

この外道クライマーを読むことで、理解者は必ず増える。

だから、外道クライマーを出版したことで宮城さんは多少生きやすくなっただろうと思う。

(私に関して言えば、こんな細い腕でクライミングに立ち向かっているのだから、夫にもその心理を理解しておいて欲しいノダが、夫はまったくそのような共感者になってくれそうな見込みはなく、現在のところ、孤独に戦っている。)

■ 那智の滝

那智の滝については、「あらまー」という感想しか持っていなかった。

私は、この事件当時普通の登山しか知らないので、御神体に属している滝などを登攀対象にしたいと思う思考回路そのものが理解の範疇外で、3人が受けた処分もまぁそんなところだろうなぁとしか感じなかった。

顛末がこの本には詳述されているが、”こっそり隠れて登ろう”と思っていたところを、「日本一の滝に登るのだから、白昼どうどうと登らなくては滝に失礼だ」と意識が転換するところなど、山ヤらしくて笑ってしまう。

あー、分かる分かる~ こういう人いるよね~。

気持ちは分かるけど、滝への礼儀を心配するより、自分の身を案じた方が良いシチュエーションだ(笑)。

案の定、つかまっているんだが、警察の方は、あまりお咎めの雰囲気ではなかったらしい。まぁ凶悪事件のような、意図的に悪意を持って成した罪ではないのだから、咎め立てというより、「君たちも大人になりなさい」的な対応であるのは、当然だろう。

子供の頃、母親が大事にしていた石膏像、カッパヴィーナスに、ブラックのペンで目ん玉を書き入れてしまって、怒られたことを思い出す・・・。

子供の頃は、特定のモノ、物体に、特別な意味を与える人間が滑稽に見えていた。

カッパヴィーナスはただの石膏像で、しかも子供の手で撫でるので、もはや陰影がわからないくらい汚れていた。母にとっては、輝かしい青春時代の、自分が輝いていたと思える時代を思い起こさせる大事なものだったのに、3人の子供たちにとっては娘時代の母など、想像もつかないから、母の宝物と分かっていても、どうしてもそのヴィーナス像で遊んでしまうのだった。

那智の滝の、顔を真っ赤にして、かんかんに怒っていた宮司は、きっとカッパヴィーナスを台無しにされた母と同じ心境なのだろう。

そうした機微が理解できるには、成熟が必要だ。

■ フリーと沢ヤ

私は沢登りが好きなのだが、それは基本的に穏やかな川の流れが好きで、この本で紹介されているような、悪絶と形容されるようなゴルジュや、登攀的に難しい悪い滝が好きなわけではない。

薄暗く陰気な沢はあまり好きではなく、明るく、さわやかな清流の沢が好きだ。ほら貝のゴルジュはとっても楽しかった。

そういう場所ではない称名の滝が、沢ヤの男性たちには、挑戦の対象として、とても人気が高いのは、一体なぜなのだろうと思っていたが、とりあえず理解はできた。命がけだからなのだ。

それにしても、大西さんの評価が非常に高いのには驚いた。

去年、仙人集会でお逢いした大西さんは、軽い雰囲気の、どこにでもいる、あんちゃんという風情だった。他の大御所和田さんとか、成瀬さんの迫力はない感じだった。

それに、もともとフリークライミング出身で沢ヤというのが驚いた。

フリークライミングの人は、悪いのを嫌がることが多いからだ…。濡れている岩なんて…という言い方をする人も多い。だから、フリーの人と沢の人は別人種だと割り切って、こちらもフリーの人を沢にさそったりしない。

沢では難しい滝でなくても、濡れて滑ったり、こけていたり、ホールドが欠けたりして悪いので、沢ヤの方には、もっとフリークライミングの力をあげた方がいいよ、と言ってあげたくなるが(私自身、大したクライミング力はないが)、沢やさんは岩では精彩に欠ける人が多い。

沢ヤはフリーの岩場では、まったく魅力に欠けるというか、そんな確保だとだれも一緒に登ってくれませんよというような、いい加減な確保をしていたり、ウエアもダサくて、なんとなく、ギアもクタびれていて、大丈夫なのかなぁ・・・と不安を抱かせるような人が多い。一言で言えば古臭い。

たぶん、沢ヤは沢では落ちられないから、落ちることを想定していない確保しかしていないのだ。しかも、登攀でも、ちょっとしたことですぐAゼロする。

私もAゼロするので、よく叱られるが、握力18kgの私がAゼロするのと、沢歴8年がAゼロするのでは違うでしょう!と自分を棚に上げて、なんでもありで解決している沢ヤにあきれたりする。フリーで登りましょうよ、フリーで・・・などと思ってしまうのだ。一度など、沢ヤをクラックに連れて行ったら、1本目でパンプして腕アウトだそうだった(汗)。

そういう下界の事情を多少解明しつつあった身からすると、大西さんは恐ろしく山のすべてにオープンなクライマーだということになり、その受け入れ幅の大きさに驚いた。

フリーも一流、沢も一流なんて、すごい!しかも、”ドーダ俺”風が出ていなかった(少なくても去年お会いした時は。)

■ 研ぎ澄まされた感覚の向かう、二つの方向

勉強になったのは、安全係数。ギリギリであるほど、研ぎ澄まされた、という表現を使っている。

私は安全マージンを大きく取り、10の山に登るために12の力をつける。ので、私にとってはギリギリは、研ぎ澄まされた感覚というより、感覚がマヒした、と言う方が近い。

以前厳冬期八ヶ岳に行った。その日は午後から寒気が入り、翌日はー35度の寒気。仲間はジャージにゴム手という、その辺の里山にいってんじゃないよという軽装。そういう軽装ではなくても、私からすると、午後に稜線しかも、ワンピッチとはいえロープが出る山にいるということはありえない。一緒にたまたまいた老舗山岳会の人も同じ意見。11時敗退。

ところが仲間はもっと行けると判断していた。この判断はギリギリに近づく判断ではあるが、私なら研ぎ澄まされたとは表現しない。考えの浅い判断と表現する。しかも、素手でピッケルを握っていたりするのを見て、その私の考えは確証を得たと感じられたくらいだ。

私にとって、研ぎ澄まされた感覚とは、自分の身に降りかかりそうな災難を避ける感性を言う。嗅覚と言うもの。

例えば、前にショートローピングで1人に3人が数珠つなぎになった時は決死の覚悟だった。当時はショートローピングなんか知らない頃だから、完全に自分で感知した危険だ。だから、登攀が終わったらホッとしたし、その並び順が弱い順ではなかったので、リーダーには文句を言った。

小指の太さほどの立木を支点として使う・・・つまり、ギリギリへ向かう・・・ことも、研ぎ澄まされたと表現できるんだなぁ・・・。

たしかに、安全係数が少ない山のほうが、多い山より評価できると思う。

でも、ジャージで翌日ー35度の寒気が入る山に、午後になっても森林限界上にいるのは、良い登山と言えないと思う。

■ 山ヤの評価

評価されるべき山行が評価される世の中であってほしいと思う。

大西さんがなしたことが分かる人が少なくなっているのは確かだ。

だが、称名の廊下の悪絶さというのはやっぱり普通の人には絶対に分からないし、アルパインをやっている人でも、そうとう深くまで足を突っ込まないと、分からないのではないだろうか?

行ったことがないから、本人しか様子が分からないのだし、しかも山ヤさんっていうものは、だいたい誇大表現が多いので、客観的な難しさの基準をもつ、というのが難しい。

しかも山は自己満足、という、極めて主観的な価値観が登山の成否を決める活動だ。

だから、当人にとって、すごいことが周りのあらゆる人にとって、すごいかどうかというのは、きわめて判定が難しい。

でも、やっぱりどこかに共通するラインと言うのがあり、大西さんを宮城さんがすごいといい、偉業だというのなら、それは本当にそうだと思う。

大体、宮城さん自体が一般人の考えるスゴイを越えたところの山をしているからだ。すごさの基準がどうであれ。

これだけはいえるということがあるとするなら、エベレストをガイド登山で登っている人よりも、少なくともスゴイ。

エベレストは未知でもないし、ガイド登山では自分でルーフファイするわけでも、進退の判断をするわけでもないからだ。しかも自分の荷さえ担がないかもしれない。

■ 山ヤらしい山行だった

去年は、たまたまご縁があって、仙人集会に参加した。

その時にも、タイの山行が報告されたが、一言でまとめると”不快感との戦い”がもっとも印象に残った山行だった。

素晴らしい景色が見れたとか、すごい冒険だったという事よりも、毎日毎日ジャングルの河を遡行する、不快な気温や虫やヘビ、不衛生な環境や空腹に耐える、ということだったからだ。

ので、冒険と言うよりは、どこか強制収容所から命からがら脱出してきた難民のような雰囲気が漂う山行で、わざわざお金を貯めて、この旅をしたいとか、この山行を再びしたいというような楽しみ…ご褒美がある山ではなさそうだった。脱出行、という感じ。

だが、この本を読んで印象はがらりと変わった。

話に聞いただけでは、理解ができなかった悪条件での山行で、登山者が何を学び、何を経験したのか?が分かり面白かった。文章も良く、読ませる文章だった。

正直言って、宮城さんの山行は、ゲテモノ系だ。ところが、心はまっとうな山ヤではないか(笑)~と思ってしまった。

山の世界では、全くの新参者の私が言うのもなんだが…。山の師匠からは、色々なことを教えてもらったが主に山ヤの価値観と言うものを教えてもらったと思う。

未知・未踏へのリスペクト
ピークへのリスペクト
GPSを使うことへの躊躇
外部の助力を得ることへの躊躇
野生の生命への尊厳

面白いのは、そんなものが丸でない人とパートナーを組んでいることだ。

そのおかげで、より山ヤ的価値観が鮮明になっている。

パートナーに宮城さんがウンザリするたび、私も同行者にウンザリさせられた経験を思い出した。

たとえば、テント泊で朝起きたら、シュラフにくるまったままでお化粧大会が始まってウンザリした。普通は朝起きたら一番にシュラフを畳むものだと思っていた。私はシュラフを畳んですっかり朝食の準備をしようと皆を待っているのに…。

山ヤが山ヤではない同行者を持つと苦労するのだが、苦労は一緒だったのね、というような感じ。

え~このシーンでは、こうするのが山ヤの常識だろ~というような、フラストレーション。

もし一宿一飯の恩を受けていなかったら、もっと良き山になるのに、という小さいが、後を引く”自分に負けちゃった感”とそれを共有してもらえない、空振り感…。

私はウンザリしたら、もうその人とは行かないタイプだが、それでも、まぁドタバタ喜劇のような事をウンザリさせられながらも、繰り返しながら、山に行きつづけるのも大事なことなのかもしれない。

宮城さんほどの人でも、そうしなければ山に行けないんだからなぁ…

統制のとれた行動というのは、どんなレベルの登山者にとっても、絵に描いた餅で、今の時代では一番得難いことなのかもしれない…

外道クライマー

Thursday, June 9, 2016

パートナーは”重要な”クライミングギアです

■ パートナーは”重要な”ギアです

パートナーは、クライミングギアです

というのは、ホントに学校に掲げてある

 一日一善

とか、工場に掲げてある

 安全第一

とか、そういうのと同じように、標語にしてクライミング業界に広めたらいいんじゃないですかね?

■ パートナーはギアです!

私は一度、人工壁でリードしていて引っ張り落とされそうになり、隣のパーティの人が気の毒そうに「ビレイを変わりましょうか?」と申し出てくれました。

人工壁では、墜落を止めるビレイは当然です。今日初めて来ました!みたいな人にも、もちろん監督つきですが、ビレイさせます。

トップロープのビレイをさせてみて、制動手が下だったら、ちゃんとしているので、そろそろいいかな~くらいな感じで、リードのビレイをさせます。

いい加減なビレイだと、限界グレードに挑めず困るので、

 ちゃんとビレイができること

がクライミングパートナーになる最低限の条件です。

 A) 13登れるけど、ビレイがいい加減な人

   vs

 B) 5.9しか登れないけど、ビレイが確実な人

どっちがいいですか? B)です!

■ アルパインでもビレイは確実に

アルパインの人もビレイは確実になってくれないと困ります。 簡単なところでも、落ちるときは落ちますし、アルパインのロープの出し方は

・リードフォローにしたり
・確保器でのビレイを辞めて、ムンターでの確保を選んだり
・支点につかう立木をどれにするか選んだり
・そもそも立木ではなく、岩角をつかったり
・フィックスにしたり
・お助け紐でいいやと判断したり

などなど、判断が色々必要です。

■ オツムのほうが重要なんです・・・

例えば、オツムがないと、体力や登攀力があっても、こういうことになります。

 Aさんがとある沢でリードして、私を確保してくれた。
 
  → ぐらぐらの木で根元でないところでビレー。

  「あの~、ほかにも木があるんですが・・・」

ぐらぐらの木でビレイ・・・(汗)

これを本気で危なくないと思ってやっているのが、登山にはクライミング力と体力しかいらないと思っている、初心者クライマーです。

そして、クライマーの人種の約9割が男性です。

あ~オソロシイ・・・。

というか、アルパインは落ちれないを地で行きますね(笑)

冗談言っている場合ではないですが、私が怖いのはこういうのです。というか、もうハッキリ言って、何度も落ちれないビレイを受け入れて登っていますしねー。

もうやめよ~命がいくつあっても足りませんね~

こういう人たちの言い分は・・・、落ちなければ支点は関係ないでしょ、です。

じゃあ、じゃあ一人で行ったほうがましです・・・。何しろ相手のレスキューをしなくて済みます。

この行為の意味するところは、

 僕の超危ないビレイにあなたの命を掛けてください、

です。ああ~オソロシイ・・・

というわけで、

 ・ビレイをマスターしようとせず、
 ・ついでに言うと支点の取り方やセカンドの確保の方法を学ぼうとせず

つまり、

 ・互いに互いの命を預かりあっているんだ、

と分かっていない人とは行かないということにしています。

パートナーはクライミング・ギアです。


Wednesday, June 8, 2016

反省の多い沢山行

これはかつての会山行記録だが、必要がでてきたので、再録。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■反省の多い沢 ヒヤリハットが武勇伝になっていないか?

この沢はヒルの巣窟で有名だ。北面の沢でゴルジュ。昼でも暗く、雨の日は寒い。遡行してみると、直登が多い沢で初心者も大満足、というガイドブックのふれこみは、なるほど、と言う感じだった。易しい滝の直登が続く。シャワークライミングだ。ずぶぬれで楽しい。雨のち曇りで寒い日だったので、薄着のKさんとI川さんは寒そうだった。

この沢の核心部は、ゴルジュF9から先だ。計画担当者がよこしてきたガイドブックにそう書いてあった。F9、25mほどのトイ状滝でスタート。ここは樋で、水流の中は段々になっていたが、上部ではステミングが必要だった。「初心者同行の場合はロープを出せ」とそのガイドブックには書いてあった。つまり、この滝では安全管理のためにロープを出す。そうでなければ、15mの人工壁は、5.7ならロープはイラナイことになってしまう。"初心者同行の場合は"と書いてあるケースは、大抵の場合、不意のスリップに備えろ、という意味だ。初心者は良く落ちる。それは登攀力の問題ではなく、沢靴のフリクションをまだ完全に分かっていないからだ。今回は沢の完全初心者は2名だった。ちなみに私自身も、まだ初心者の域を出ない。講習会を合わせ、沢山行は10回を越えた程度だ。

しかし、その易しいF9で、問題発生。沢初心者のトップがフリーソロして、ザイルをザックに入れて上がってしまったのだ。ザイルを出すか?出さないか?の判断をするタイミングは滝下だということを、まだ理解していない初心者であることが露呈した格好だ。

行ってしまった後で「しまったなあ…」と思ったが、もう遅かった。ザイルの要・不要を判断するのが、滝を登る前だということや、後続の確保について、まだ理解していない人だということは、前に一緒に行った別の山行で、薄々分かっていたのに、うっかり行かせてしまった。そこで、リーダーのKさんにセカンドで登るよう依頼した(私がセカンドだったが怖くて登れない)。

トップは、F9を上り詰めて、ザイルを投げようとしていたが、25mトイは寝ている。つまり、距離がある。つまり、投げても届かない。そんなことは、下から見ればすぐわかることだ。

このような場合、普通は登ってから投げるということはない。そのやり方で良く出すのは、お助け紐。一歩とか二歩の悪場を後続が効率よく切り抜けるのに出す、という話だ。

F9は登攀は易しいが高く、そういう場所ではない。セカンドで登ったベテラン、Kさんによると、ハーケンの中間支点が途中にあったそうだ。リードされているということだ。

そういうわけでザックに入れて行ってしまったトップは、上からザイルを投げているが、一向に届かない。「ロープが来ないんだけど~」とセカンドのKさんもが業を煮やし、フリーソロで登ってしまった。何やってんだ!という訳だ。なかなかロープは滝下まで降りてこない。

結果的に、私は3番だったのだが、「仕方ないな~」と思い、ロープ末端を引っ張って滝下に降ろそう、そう思って、4、5m登った。ロープに手が届くところが、4~5m上だったので、その程度の高さなら…と思ったからだ。ところが、ロープを引いて降ろそうとすると、引っ張る!何をやっているんだ?!「ひっぱるなー!」と叫ぶが、トップはニコニコしていて、何も分かっていないようだ。「もう一体何やってんの!」と腹が立つが、Kさんが登り切って、その状態を解消してくれたようだ。ロープは引かれなくなった。が、それでも、ロープは十分滝下までは降りていなかった。

ザイルが十分な長さ降りてこなかったので、その場から降りることもできない。仕方ないので、その場所でタイブロックをセットした。後続のI川さんも同じ。その間にも、下にラストはアンザイレンするように叫ぶ。が、滝の音で声が届かない。I川さんと私は、タイブロックで登ることになっており、下で登攀方法を確認した。その様子や会話を聞けば、登攀の方式は、自動的にアセンダー方式であると理解できるが、今回はラストは初心者(3年目)だった。

ロープが降りてきてから、教えればよいと思っていたが、ロープ末端を求めて、上に来てしまい、しかも、もう下りれない。これもしまったな…と思った。私がラストで行っておけば、問題がなかったが、時すでに遅し・・・。ただ順序的には、アセンダー方式の登攀では、ラストがもっとも安全なポジションになる。だから順序は間違っていない。ただそれは普通にアンザイレンしてくれている状態での話。

セットしながら、「ラストはエイトノットでアンザイレンして~」と何度か叫んだが、滝の中にいる状態なので、声がかき消され、聞こえないらしい。声が届かないというのは、沢では普通のことだ。だから意思疎通は、声が聞こえる場所で、つまり滝の下で済ませておくことが大事だ。

ラストは、3年目の人だが、まだクライミングシステムを分かっていないので、アンザイレンして、3、4番が登りきったところで、やっと自分の登る番が来る、ということが分かっていないだろう…だが、クライムダウンして教えるには、ザイルが十分な長さ降りていない。今降りるとロープ無しのクライムダウンになる。そこはロープ無で降りるには、危険が大きすぎるところだった。仕方がない。

セカンドでKさんに行ってもらって良かった。トップは多人数での登攀方法を分かっていないのではないか…という予想は、的中していた。25mのF9トイの2段目は内面登攀で、少しいやらしいところがあった。後で読んだ記録によると、25歳の若い男性が、ここでどうしてよいか分からなくなり、フリーズしている。そのパーティの後続の40歳の男性は、どういうわけか、手だけで足ブラになってしまったそうだ。沢でフリーみたいに、手で登る登攀なんてありえない。非常に危険だ。

もちろん、こうした記録は後で知ったことで、この時は、私は初見だから、何も知らない。ただこの滝で自分とパーティが好ましくない状況に陥っているということは分かっていた。私はタイブロックを使ってプルージック登攀しているのに、末端のザイルが適度に引かれていないせいで、両手を開けてロープを張り、タイブロックを移動させなければならなかった。そのため、不必要に登攀の難易度を高くしてしまっていた。

2段目は立っていて、ずぶぬれ。スタンスは見えない。後続のI川さんも同じ目に遭っていた。フリーソロするより、大変になっている(汗)。I川さんは御年71歳の今でも、5.10Aをオンサイトする能力がある。私より登攀力は上だ。私は、最近小川山で半身が入る程度のクラックやってきた…その時は、大変すぎて、びっくりしたのだが、今、謎が解けた。神様はこのような登攀に備えさせようとしたに違いない。登攀は難しくないとはいえ、両手を空けないといけなかったからだ。

しかも、上がってみたら、立木に支点を取ってあるだけで、バックアップなし。まぁ、しっかりした立木だったし、Kさんは、すでに登り始めている後続のために、焦って急いで支点を作ったと思うので、仕方がない。が、上に二人もいるのだから、手が空いているほうが気を効かせ、スリングでバックアップを取るくらい出来たはずだ。

つまり、この登攀は、安全管理不在。後続への思いやり不在。実際フリーソロより、フォローの登攀が大変になっている。

ラストは、心配した通り、アンザイレンしないで登ってきた。それもI川さんにツメツメで。上が墜ちたら、自分も巻き込まれて、墜ちてしまうことを分かっているのだろうか?しかも、上の人はスリップしても、ロープでつながっているから、墜ちても大した距離は落ちれないが、アンザイレンしていないと、25m下の滝下まで落ちれてしまう。とはいっても、その場では、もう時すでに遅く、フリーソロするのが両手が使えて一番安全、という状況だった。両手があけれるということは、これはアンザイレンしてくれても同じだ。

このF9の登攀は完全に失態だ。単純に誰にもスリップが起らなかったことがラッキーだったに過ぎない。3人はフリーソロしたから、スリップしたら大怪我を免れない。私とI川さんは登攀グレード、ワンランクアップだった。

次のF10は立っている滝だった。すると、トップがまたしても同じことを繰り返す。前のF9の経験から何も学んでいないらしい。またしても、ザイルなしで取り付いて、しかも2手目くらいで墜ちている。

さすがに今回は、いつも柔和なKさんも異議申し立てをしていた。もっとしっかり叱ってやってほしい。本人のためにならないだけでなく、周りにも迷惑だ。こんな一か八か登山は、遭難がほとんどないことを誇る、当会にはふさわしくない。

この山行では、判断そのものを欠いていた。こんな行き当たりばったりの、危なっかしいクライミングには、付き合っていられない。F10は立っているので、一目見て、さっさと巻くことに私は自分で決定した。男性たちは登りたいらしい。が、どう見ても水量が多く、短いが、立っていてホールドが見えない。トップロープだろう。リードはないなと、一目でわかる滝だった。だから、I川さんが上がってくるときに、「ロープを持って行ってほしかったら、持って行ってあげるよ」と、下に声を掛けてもらった。しかし、下では意見を交換中らしく、聞く耳もたず。待っていられず、私とI川さんは上がってしまった。男性同士で決めればよい。しかし、パーティ行動は、最も弱い者に合わせるという基本原則はどうなったんだ?

Kさんがリードすることになったように見えた。しかし、下の二人のビレイでは、大丈夫だろうか?との不安がぬぐえない。この不安は根拠のない不安ではない。人工壁だが、リードでビレイしてもらった時に、ロープの繰り出しが遅く、私はひっぱり落とされそうになったことがあった。その後、もう一度、彼のビレイでリードしようとしたら、固辞されたため、彼のビレイで再度リードクライミングしたことはない。あれ以降、ビレイ経験を積んだのかどうか?の確認は取れていない。もう一人は、まだクライミング経験が浅く、外岩でのリードの墜落を止めた経験があるか不明だ。一般常識として、そのような不確実なビレイの元では、クライマーは、普通に登れるところも登れなくなるだろう。

少しでもリードクライマーの助けにするため、I川さんと滝上に上がってから、二人分のスリングを全部合わせてフィックスを作った。滝の落ち口は大変なことが多いからだ。

帰ってから調べて分かったことだが、ここの落ち口では、30代の男性がセミになっていた。つまり、動けなくなり(登れなくなり)、上からザイルを投げてもらっていた。また、ネットに事故例が上がっていた。頭骨、腰椎突起の骨折と、右足靭帯の損傷で全治二か月。年に1、2回、遭難騒ぎを起こしている滝だった。ガイドブックには、”ゴルジュ上部を塞ぐ美滝。直登は少し難しい。不安なら左側から小さく巻ける”としか書かれていない。実際は”少し難しい”どころではない。遭難事故まで起っているのだ。慣れない人は、落ち口でホールドが見つけられないようだ。少なくとも、初心者がフリーソロで行くところではない。そんなことは事故情報を知らなくても見れば分かる。

結局、しばらくたって男性たちも巻いてきた。懸命な判断だと思う。その後は、垂直に立った滝F11が出てきたが、問答無用で巻き決定。この滝はガイドブックにも、落ち口がきわめて難しいと書いてある。ただトップロープにすれば、岩は段々になっていて、足で登れそうだった。

今回の沢は、失敗の記録だ。沢は、尾根や岩のゲレンデより危険が大きい。遭難した場合、岩場のゲレンデは安全圏に近く、救急車が来れる。北アの尾根なら、即ヘリでピックアップされる可能性が高い。しかし、沢にはそうした救助は、期待しづらい。まず尾根より圧倒的に携帯電話がつながらない。また、携帯が入るところまで尾根を登って救助を呼んだとしても、事故者が沢の中では、ヘリでピックアップできない。尾根まで担ぎ上げなければならないが、それができるのか?体が大きい人は、自分が事故を起こしたとき、周囲の人への負担が大きいことを自覚しておいてほしい。75kg以上の人はクライミング山行はお断りと、あの山田哲哉ガイドさえ、HPに明記しているくらいだ。その理由はレスキューできないためだ。軽い人より、重い人のほうが、レスキューになった場合、より困難なのは、道理でしかない。たとえ軽くて、担ぎ上げられる体重の人であっても、人間一人を尾根まで担いで上がるのは大変だ。日本では夜間救援は行われない。そのため、一旦遭難となると、ビバークになってしまうことが沢では多い。事故記録では実際そうなっていた。

当会は、今のとこKさん、Nさん、KWさんを除いて全員が初心者だ。ロープを出す練習は、登攀が易しいところからスタートするほかない。易しい箇所で出せないロープが、より難しい箇所で出せるはずないからだ。

登攀方式は、沢には、大体3つある。1)普通のリードフォローの確保をしては、ロープを投げるを繰り返す。2)ピストン方式。3)アセンダー方式。どの方式で登るか、あらかじめ、滝下で相談してから、登り始める。これが大事な点だ。メンバーは、複数いるのだから、きちんと全員が理解していないといけない。1)は2名ならいいが人数が多い場合、時間がかかり、傾斜が寝ている滝では、投げても当然、引っかかる。垂直にのみ有効。2)は1)を改善したもので、ロープが2本必要。今回はロープは一本しか持ってきていない。3)は落ちて降られたときに、水流に停滞すると窒息死の危険がある。水流の中の登攀には向かない。今回のF9は登攀は易しく、テンションの必要はないので、3)で良かった。(出典:『沢登り 入門&ガイド』トマの風)

今回のようなヒヤリハットを決して武勇伝にしてはいけない。安全管理とクライミング能力は別個の能力であり、安全管理不在のクライミングは無謀でしかないことを肝に銘じるべきだ。

山岳会は、無料の登山学校ではない。会員一人一人自らが主体的に学ぶという姿勢がなく、”教えてくれない”では、話にならない。主体的な学びとは失敗から学ぶことだ。つまり、今回の事例をきっちり自分の反省として取り込んでいくことが山岳会による教育の実態だ。沢登りの本を一冊読んでいるくらいは仲間を危険に陥れないための、一人一人の最低限のマナーであり、まして自分が計画担当の場合は特にそうだ。山は危険である、というところからスタートし、自分の命にも相手の命にも責任感を強く持ってほしい。

余談かもしれないが、今回は計画段階で、”ザイル不要”という情報が流れた。それは別のガイドブックの記載であり、計画担当者の提示したルートガイドでは、30mザイルの携帯は”基本装備”に含まれていた。沢の講習会など正式な教育的山行を受講していない人に対しては、計画段階から先輩のきっちりした監視の目を入れてほしい。メンバーシップを発揮したくないと言っているのではなく、入会2年目の私のような新人よりも、ベテランの方がよりそうしたチェックの目が的確で合って当然だと思うからだ。しかもどちらが言うほうが信頼性があるだろうか?

最後になったが、この失敗を教訓とし、今後のさらなる向上に生かしてほしいというのが、この文章の目的だ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

参考サイト
http://www.asahi-net.or.jp/~bq9t-tkhm/sawanoboriki_reply.html
http://www.asahi-net.or.jp/~bq9t-tkhm/sawanoboriki.html

Tuesday, June 7, 2016

どうも核心は休みらしいという話

■ 黒戸尾根8時間 + 5.12

登山史に残るような登山をするという場合に、必要となる能力ですが・・・

黒戸尾根を8時間で登って降りてこれるような体力

 +

最低限 5.12はないとセカンドでもツライ

ということが分かるようになりました。・・・というか、教えてもらいました。


それで、そういう人は実は、一杯いそうなんですね。

先日、ロゲイニングの大会に出たら・・・優勝者の6時間の移動距離は、累積標高3300m、移動距離60km。

登山では考えれないですね~。だって、3300m÷6時間=550m/h ですからね。

でも、標高差2200mの黒戸尾根は、2200÷550=4時間で登れちゃう計算になりますよね。

下りは半分しかかからないし。

クライミングに関しては、最近の人なら、一年で5.12が登れる人もいるのだそうです。

■ 成長

登山は、だいたい皆、大学くらいでスタートするようです。人間なら誰でも20代で体力のピークになりますが、登山に必要な筋力など体力面は、巧緻性などもあるので、その後も実用面上、伸び続け、みなの話によると、50代まで伸びるのだそうです。

ピークの高さは個人差があれど、50代までは登山者として成長局面にあるらしいです。

重い荷物を背負うなどと登攀の安全性、そして、危険認知力のトータルバランスがいいの、40代後半~50代後半だそうです。

実際、統計上も、男性クライマーは20代は死亡率が高く、50代が一番少なく、そして定年後に跳ね上がります。女性で一番遭難が少ないのは40代です。

■ いっぱいいそうなんですけどね

ロゲイニングの大会では、強い人一杯いそうでしたし・・・

ジムにいけば、5.12代の人はいっぱいいますし・・・

じゃなんでアルパイン人口はいなんですかね~?!ってことになるんですが・・・

基本的に山に行く休みが取れない ってのが、根本にあるようです。

一か月の連続した休みが取れない。

あるいは、休んでもいいのだが、そうすると首になり、再就職先がない。

とまぁこういう具合。

核心は、職業の選択って話でした。そう、そもそも、山に行く時間がないと山に行けないのです。

時間さえあれば、もしかして、黒戸尾根8時間で、5.12を登れる人には限りない地平線がひろがっているのかもしれません。(ちょんぼして死ななければ)

読了 『オオカミがいないとなぜうさぎが滅びるのか?』

■ 生態系の本

『オオカミがいないとなぜうさぎが滅びるのか?』と題される本を読んだ。


面白かったという感想を聞いたからだ。

■ 驚いた!

読んでみると、生態系についての、あるいは人類の帰し方行く末についての、バランスのとれた意見が書いてある本だった。

ただ、この本、どうしてオオカミがいないとなぜうさぎが滅びるのか?については、なんど見返しても書いていない・・・(汗)

私は週に10冊くらい本を読む。読み方はこうだ。

 1)タイトルを頭に入れる タイトルはつまり、本の究極の要約であることが定石だからだ。

 2)目次を読む 目次から大体の内容を推測する

 3)推測と異なる箇所を読む

まず1冊の本の全体像を入れてから、読むのがコツで、最初から最後まで順繰りに読む、という読み方は、小説を読むときなどには向いているが、例えば卒論を書くには向かない。

それで、ともかく、「答えがかいてないな」ということで、アマゾンの書評を見たわけだ。

すると・・・この本の酷評がズラリ(笑)。 驚いた。

■ イエローストーンの成功

基本的にオオカミ導入論は根強い。イエローストーンでの成功例が後押ししているようだ。

でも、イエローストーンでの1成功例をもって、他にも適用できると考えるのは、人間の短視眼でしかないだろう。

まぁ、この本、実際、オオカミ導入論については、

「日本中の鹿を押さえようと思ったら、何頭オオカミが必要だと思うんだ!」

という単純な言葉で一括却下している・・・。まぁ、私自身はオオカミ導入論には反対だから、いいのだけれど。(反対の理由は違う。)

なんとも大雑把だなという感じが否めないし、この本はむしろ生態系概論的な、生物多様性の講座でも大学で取っている人が副読書で読んだらいいような内容だった。

■ 自然にとっては人間は必要ではない

山に行くと、人間のちっぽけさを感じる。感じない人はいないだろう・・・。

人間がどうこうして、自然をコントロールしようなどと、そう思うこと自体が、傲慢なのだ・・・そう思わない人はいないのではないだろうか?

・・・結局、人間には自然が必要だが、自然には人間は必要ない。

人間は自然に依存しており、自立していない。自然は人間から完全に自立している。

■ 自然は常に正しく、人間は常に間違いを多く含む

ので、自然が起こしていることは、すべて正しい。起こるべくして起こることしか起らない。

一方、人間の側は、自分がした行い(例:オオカミ根絶)が、どういう結果になるのか?の因果関係について、まったく乏しい知見しかもたない。

人間は、原子力廃棄物を貯め続けることはできるが、それらが自分たちにどういう結果を与えるのか、全体像を理解できない。

人間は、巨大ダムの影響を完全には理解できない。

人間は、治水の影響を完全には理解できない。

ので、結局、やってしまった後で(原因)、こまったね~どうしようかね~と言うことになっている。

でも、前提は変わらない。自然は正しいことしか起こさず、人間の方が間違う。

■ 人間には理解できない

まぁその自然が起こした正しいこと、が人間の都合に悪い、ってのが基本的問題なんだが(笑)。

じゃ、原因と結果の因果関係が分かっていないことは、やらなければいいのでは?

と誰だって思う。(でしょう?)

思うんだが、人類の歴史は基本的に、

”原因と結果の因果関係が分かってないんだけど、作っちゃった”、という、基本、”できちゃった婚”みたいな路線で成り立っている。

やってみて、”えーい、ままよ”と行い、”あれ~どうする~?”というのが基本だ。

まぁ、そうでなくては、世界地図も作られなかったし、飛行機は飛ばなかったし、月へも行っていない。

そうでなくては、いまだに人類は、地球の周りを星が回っていると考えていたかもしれない。

■ いらんことしたね

でもまぁ、オオカミに関しては、いらんことしたね~というのは明らかだろう。

でも、もう日本にはオオカミはいない。だから、元の状態には戻せない。

ついでに言えば、元に戻さないのであれば、結果がどうなるかは、またまた人間の理解の範疇外である。

ブラックバスが日本の魚を駆逐したみたいになるのか?それも分からない。

ワカラナイのであれば、やらない方がいいのでは?というのが、私の意見だ。

でも、一方で、やりたい人がやりたければ、やればいいのでは?とも思う。

そんなことに時間を使って口角に泡を飛ばしている時間の方が無駄だ。

どっちに転んでも、自然は自然であり、偉大である。

■ 分からないことを巡って争う

自然に関しては、人間には分からないことが多い。

昔の山の本を読むと、うさぎがたくさんいて、迷惑がられている。昔の山は、禿げ山で、野原が多かったから、うさぎが多かった。今は森になってしまって、家がなく、うさぎは減った。森林蓄積は戦後最大だ。

社会的にみると、うさぎについて文句を言うか、鹿について文句をいうか、どちらも大差ないかもしれない。

森林蓄積については戦後最大だ。自然保護活動家は木を植えろと言う・・・。もう戦後最大なんですけど?




■ 結局、私欲?

というわけで、この分野は、結構、水掛け論が多い。ので、あんまりどうすべきか?を議論しても仕方がない。

鹿が増えて何が困るのか? 

高山植物が食い荒らされて困るなら、高山植物のほうを保護すればよい。

原因である鹿をたたいていたら、因果関係が分からないので、他に被害が出るのだから。

実際、何が損失なのか?と考え、損失を最小化するほうが、原因をたたいて、新たな問題を作り出すより良い。

なにより、これは自然界のやり方に似ている。殺虫剤がまかれれば、耐性を付ける。対症療法だ。

■ 根本的解決は人類がいなくなることなんですが・・・

そもそも、なぜ人類は、自然と対峙した時だけ、根本的解決を求めるのだろう?

もしかして、根本的に改めなくてはいけないのは、人類自体の存在かもしれないのに?

■ ヨガの教え

というわけで、環境問題やエコロジー、生物多様性については、徒労感が否めない。

んだが、ヨガではそれでも、アルジェナに戦えと言っている。

何が正しいかとか、誰が正しいかとか、やりあうのは一種の戦いだ。

というので、やりあったらいいのだけど、議論の土台がみなマチマチだから、まるで違う言語をしゃべっているように議論はまとまらない。

ということは、こうしたことを考えることが他の余計なこと・・・たとえば、”浮気したい”とか・・・を考えないで済むように議題が提供されている、と言う程度のことなのかもしれない。

考えてみれば、浮気したい、浮気したいと頭でグルグルしている人が、実際に踏み切ってしまって起こす人生への影響と、オオカミを導入すべきだと言って隣の人と喧嘩でもしている人の人生への影響は比較にならないはずだからだ。

最後はシニカルな締めになりましたね~ すみません。

まぁオオカミ議論を吹っかけてくるおじさんのほうがましと言う話です。

Sunday, June 5, 2016

登山のリスク判断について易しく解説できるかチャレンジしてみました

■ 遭難をなくすには?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 一度経験した山での事象から、次に起こり得ることを予測すること。

 さらに対応する手段を想像すること。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これはどういうことでしょうか?

この言葉は、大変難しく、抽象化されています。

一般原則として、言葉にまとめると、抽象化せざるをえません。

これを理解して、自分の山に適用するのは、現代の人にはむずかしいのかもしれません。

■ 具体例で考えましょう その①

例えば、Aさんと一度山を歩いたとき、

 標高差750mを一日8時間では歩けなかった

という ”事象” があるとしましょう。

 ”Aさんは、標準コースタイムで歩ける足がない” と結論できるでしょうか?証拠が不十分です。

しかし、X山も、Y山も、Z山も、Aさんが標準コースタイムで歩けていないとすれば?

 ”Aさんは、標準コースタイムで歩ける足がない” 

というのは予想できる事実です。これには、帰納法を使っています。

■ 〇△□山のリスクを判断するには?

では、標高差1500mの〇△□山をAさんは、日暮前に歩けるでしょうか?

それは厳しいということが分かります。

これには、演繹法を使います。

Aさんは、X山も、Y山も、Z山も標準コースタイムで歩けない、しかるに、〇△□山も歩けない。

■ 対策を考える

では、Aさんが、〇△□山を安全に歩くにはどうしたらよいでしょうか?

  1泊二日なおかつ早立ち もしくは 2泊3日

が必要です。2泊にすると、荷物が増えて重くなるので歩くのはさらに遅くなります。

一方、1泊二日にすると、早立ちができないと時間内に歩きとおせません。

とすると、標高差1500mの〇△□山ではなく、標高差1200mの△△△山を1泊二日とすると、歩きとおせる見込みがでることになります。 一日当たりの標高差が600m程度だからです。

■ 帰納法+演繹方

山のリスクを判断するには、1つの山の経験から、帰納法を用いて、推論を行い、得た推論を次の山に行くときは、演繹法で適用しないといけません。

簡単にいうと、

 「1を聞いて10を知る」

ということです。

推論と言うのは、人によってブレがあります。事実でないことを推論の根拠にする人もいます。

例えば、Aさんが信心深いとします。X山では、お守りをもっていなかった、Y山でもお守りをもっていなかった、〇△□山のときは持っていく、だから大丈夫、などです。

このように、推論の根拠に、とんでもないものを持ってくると、得られる推論はゆがみます。

■ 少し複雑な事例 その②

これは私が体験した事例です。

(事象1)
A沢に行った時です。「1級の沢だからロープはイラナイ」と判断し、山行計画者のSさんは、ロープを用意していませんでした。

(事象2)
Sさんは、私が彼をジョウゴ沢のアイス・クライミングに誘った時も、共同装備としてロープを指定したにも関わらず、持ってきていませんでした。ビーコンは購入して持参したにも関わらずです。

この行為の根基にある思想は何でしょうか?(帰納法適用) 

(推論1) Sさんは、易しければロープを付けなくて良いと考えているのではないか?

さて、ここから、演繹法です。

この誤解を私が解いてやれるか?やれません。実際すでにミスは指摘していますが、直していないことから、事実として浮上しています。

となると、私ができることはSさんのミスをカバーすることだけです。実際、2度とも、私が個人所有のロープを持参して、Sさんのミスをカバーしています。 

Sさんの、この考え違いが正される可能性があるか?というと不可能です。

なぜなら、Sさんへアドバイスできる立場の者が、アドバイスを与えることを拒んでいるという別の事象があるからです。 (事象)

おそらく、私が彼のミスをカバーしてやっているということ自体も、気が付いていないでしょう・・・。(推論)
ということは、どういうことか?(帰納法)

私はSさんと登る限り、易しいからロープイラナイよね、という思想の中で、永遠に登らなくてはならなくなります。また、永遠にSさんのミスをカバーし続けなくてはならなくなります。

■ 個人の判断の領域

したがって、私はSさんと登るべきか登らざるべきか?

ここからは、個人の選択の問題です。

・Sさんは、毎回ミスをカバーしてやっても良いほど、魅力的な登山者である YES/NO

・ミスをカバーしてやれなかったときに、自分自身に死などの不利益があっても、Sさんと山に行きたい YES/NO

これらが個人に問われる問いになります(笑)

私には、どちらも Noでした。 YESになるほどの山ヤっているんですかね???

■ 具体例3

あるパーティで、暗くなってしまった時に、ずいぶん、しりもちをつく人がいました。

おそらく、老眼が始まると、目が見えず、普段の脚力が発揮できないのでしょう・・・

この場合、午後遅い時間帯、ヘッデンでの下山などを避けるべきです。ということは、”1を聞いて10を知る”というほどの大きな知的チャレンジではないでしょう。誰だって分かります。

しかし、この方は、暗くなってからの山歩きを繰り返した前歴があるのだそうです。私と歩いたときも、暗くなるのを分かっていて、秋山の稜線に14時でもなかなか下山開始せず、焦らさせれました。

分かっちゃいるけどやめられない~という人は、山ではダメです・・・

 ・危ない、危ないと言われると面白くない

 ・下山遅れは、山行の失敗ではない

 ・分かっちゃいるけど、やっぱり、暗闇で歩くスリルを楽しみたい 

は、感情論です。 人間は感情の生き物ですから、感情が大事であることは私も否定しません。

しかし、(重大事故で死ぬこと)と、(感情)を天秤に掛けたら、(感情)という些細な価値を大事にして、より(大事な命)を落としたくないですね。感情とは一時のものです。

ちっぽけな何かのために、大事な命を落とすことを、犬死、と言います。

犬死したいか?したくないか?

は、個人の価値観の問題です。生死は個人の生き方そのものです。

最後は、結局は、このように個人の選択の問題です。

したがって、個人の選択の問題であるからには、他人が敷いたレールの上しか歩いたことのないような人にとっては、選択肢に直面すること、そのものが厳しいものです。

あなたはどうしますか?という問いに、皆さんと合わせます、リーダーに一任します、という答えは、完全なる自己責任の放棄です。

山は自己責任、ですから、自己責任を放棄する人には、そもそも登山はあまりあっている活動とは言えません。

人のふんどしで相撲を取るような登山が面白いのは、初心者の1回目の山だけです。

登山の面白さは、自分でリスクを引き受け、引き受けられるリスクの量がどれくらいか、自分で慎重に判断し、なおかつ、それが成立する、と言うことにあります。

最後は期せずして、登山論になってしまいました・・・(^^;)

登山でのリスク回避について、考える力がどれほど大事かということが、分かりやすく解説できていると良いのですが・・・。



山を見るとはどういうことか?

■ 危ないクライマーとは

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「危ない」クライマーとは 山にいて山が見えない人。山を理解できない人。

危険なことやっていても、危険を認識できない人。クライマーとしては致命的です」。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

これは、岳人備忘録の山野井さんの言葉です。

私としては激しく納得するのですが・・・

ただ・・・ 表現がポエティックすぎます・・・。

  山が見えるとはどういうことか? 
 
  山を理解するとはどういうことか?


これでは、最近の人には、?????・・・(エンドレス)となってしまうのかもしれません。

そこがベテランの話はきちんと意味をかみ砕いて 教えてやらないといけないところです。

あるいは、教わる側は、「山が見えるとはどういうことだろう?」と問題意識を持たないといけないところです・・・

■例

夫は、”落石注意”と書いてある、看板の前で立ち止まって写真を撮ろうとしてしまいます。

分かりますよね?

落石注意って 要するに、そこでは落石の可能性があるよ、って意味です。

つまり、立ち止まらずにさっさと通行してね、って意味です。

でも、夫は、そこで写真撮影始めちゃうんですよね・・・(^^;)

イマドキの人には、「落石があるため、立ち止まらないでください」と書かないといけないのかも?

昔の人は、先生が「今日は暑いな~」と言えば、黙って窓を開けたらしいです。それが気が利く、という意味でした。

京都の人は、「お茶漬けでもいかがですか?」と言われたら、退席しないといけないのだそうです・・・これは全く違う意味でしたね(笑)。

しかし、山では、行為から意味を読み取る能力が、特段たくさん必要です。

■ 嘆いても仕方ない

こうした情報を受け取る側のアンテナ感度の低さは、「登山者のレベルが下がった」などと、嘆かれることが多いです。

しかし、コミュニケーションの成否は受け取り手が決めるもの。状況の悪化を嘆くよりも、対策をした方が合理的です。

例えば、ロゲイニングの大会に出たら、こんなことが書いてありました。

ーーーーーーーーーーーー
競技上の注意点

  ・安全は自分たちで守る

  ・周囲への配慮  ゴミを捨てない 花や木を取らない むやみにトレイルを外れない

  ・人への配慮  人の敷地内には入らない、挨拶をしよう、危急時はレスキューを優先する

ーーーーーーーーーーーー

小学生か!というような内容ですね。

でも、一般に新聞は、小学六年生でも理解でき読めることを基準に書かれます。

新聞が期待する読解力レベルが、小学六年生なのですから、山でも、そこが基準になる、と思うべきでしょう。

昔は、登山は大学でのエリートだけのものでした。現在は登山は大衆化し、誰にでも楽しめるものとされています。

それでも、アルパインクライミングの場合は、大衆化した一般レベルより、上の知的素養が必要です。

が・・・

  ”山が見える”とはなんですか?

  ”山を理解する”とはどういうことですか?

こんな質問に答えようとすれば、一冊の本が書けてしまっても不思議ではありません。

しかも、登山とは、この質問に一生をかけて答えを出す活動です。

なおかつ、答えは、千差万別、十人十色です。

だからこと、岳人備忘録という書籍が成立します。

■ 結論

というわけで、危険認知とはこういうことですよ!と

 ・具体的

 ・なおかつ、10人いれば10人同じ回答が出せるような説明

が、登山の世界では求められていると思われます。