Friday, April 29, 2016

ウンザリその2 セクハラ



■ うんざりその2 セクハラ




山の世界で、セクハラは、マジ深刻です。 






クラミング中に女性のお尻を見て、「いいね~」と言っているとクライミングムーブを見ているのか、ただお尻を見ているのか、ちゃんと女性には分かっています。念のため。




ちなみにセクハラの人は速攻で切るので今のパートナーにはいません。






ついでに女性のクライマーの先輩は、ちゃんとそのことを後輩に教えてくれます。下記の文章は良く書けていますが、個人的にも11歳からセクハラ続きだな~と思っています。早くおばちゃんになってセクハラされる側を卒業したいものですが、女性登山者の先輩によると、60代になっても続くそうです(汗)。






http://www.huffingtonpost.jp/gretchen-kelly/thing-all-women-do-that-you-dont-know_b_8735974.html


より引用


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女性の服装やレイプ、性差別といった問題について私が話したり書いたりすると、必ずと言っていいほどこんな言葉が返ってきます。


「他にもっと心配すべき問題があるんじゃないの? そんなに騒ぐようなこと? 神経質になりすぎていない? 理性的に物事を考えている?」


毎回そう言われ、毎回失望します。なぜ男性にはわからないのだろう?


でもその理由がわかったような気がします。


男性はただ知らないのです。


性差別に直面しても、事態をおおごとにしないため女性がそれを黙認していることを。


それはあまりにも日常的で時には気付かずにやっていることもありますが、女性全員が経験しています。


直感的に、もしくは経験を通して、不快な状況を最小限に留める方法を女性は知っています。男性を怒らせて、身を危険にさらさない方法を知っています。攻撃的なコメントを、様々な場所で無視しています。嫌なデートの誘いを笑ってごまかします。女性だからといって軽く見られたり見下されたりした時、怒りを飲み込んでいるのです。


本当に腹が立つし、残念です。でもそうしなければ、危険な目に遭ったり、クビになったり、ビッチ呼ばわりされたりする。だから大抵の場合、危険が最も少ない方法を選ぶのです。


毎日のように女性は性差別に直面します。だからそれをわざわざ口にしたり、恋人や夫や友達に話したりしません。ただ対処するのみです。


だからおそらく、男性は知らないのです。


わずか13才で、大人の男性に胸をジロジロ見られても無視しなければならなかったことをおそらく知らないのです。レジの仕事をしているときに、父親ほどの年齢の男性たちが声をかけてきたことをおそらく知らないのです。同じ英語クラスの男子が、デートを断っただけで怒りのメールを送ってきたことをおそらく知らないのです。指導教官が何度もお尻を触ってきたことに気付かないのです。そして、ほとんど常に、歯を食いしばって笑顔を見せていたことを全く知らないのです。目をそらしたり、気付かないふりをしていたのです。それがどれだけ頻繁に起こり、日常的なのか、彼らには想像もつかないでしょう。あまりにも当たり前なので、私たちはもはや驚きもしないのです。


それはあまりにも日常的なので、見なかったふりをして騒ぎ立てない。


私たちは怒りや恐怖や失望を、表に出すことはありません。笑顔を取り繕ったり、軽く笑ったりして、何もなかったかのように振る舞うのです。おおごとにならないよう努めるのです。心の中でも態度でも騒ぎ立てたりはしません。そうしなければ、大きな対立を招くかもしれないからです。


そうする方法を、私たちは子供のころから学びます。それに名前をつけたり、他の女の子も同じことをしているのかなんて考えたこともありませんでした。それは独学で得るものです。観察して、自分の行動がどんな結果を招くかを素早く察知するのです。


「それが女性の現実なのです。嫌な気持ちになっても笑って済ませます。なぜなら他に選択肢はないと思えたから」




私たちは心の中で素早くチェックします。彼は怒りっぽい人だろうか? 怒っているだろうか? 周りに他の人はいるだろうか? 彼は冷たい人に見えるけれど、本当は理性的でただ面白く見せようとしているだけなんだろうか? もし何か言ったら、成績や仕事の評価に影響があるだろうか? わずか数秒で声を上げるか無視するかを決めるのです。非難した方がいい? それとも無視すべき? 礼儀正しく笑うのと、何も気付かなかったふりをするのはどちらがいいのだろう?


私たちは日常的にその判断をしています。それでも、自分が危険な状況にいるのかそうでないのか、いつでも分かるわけではありません。


セクハラまがいのことを言ってくるのは上司なのです。チップを握った手を高く伸ばしてハグしなければ届かないようにしているのはお客なのです。興味がないと言っているのに、お酒を飲んでセックスを迫ってくるのは男友達なのです。デートやダンス、お酒を断ったら怒りだすのは男性です。


友達がそういう目に遭っているのを、私たちは知っています。そうしたことを何度も聞いて、当たり前になっています。真剣に考えることもありません。ある日、自分が本当に危険な状況に直面するまで、体の関係を迫った男友達が強姦の罪で告訴されるまで、大晦日に一人で働いている時にボスがやってきて無理やり年越しのキスをするまで、真剣に考えないのです。


こうしたあまりにひどい出来事が起きた時は、それも友達や恋人た夫に話すかもしれません。でもそれ以外のことは? 結局何も起こらなかったけれど、私たちを嫌な気持ち、不安な気持ちにさせた出来事を、わざわざ非難したりはしません。


それが女性の現実なのです。


嫌な気持ちになっても笑って済ませます。なぜなら他に選択肢はないと思えたから。


相手とうまくやっていくために調子を合わせなければいけません。


その時は威圧的に見えたけれど、本当は何もできやしない男を非難しなかったことを後悔するのです。


夜道を一人で歩くときには、携帯電話の通話ボタンの上に指を乗せておきます。


駐車した車に戻る時には、鍵を指の間に挟んでいざとなったら武器として使えるように備えます。


誘ってくる男性を断る代わりに、恋人がいると嘘をつきます。


混雑したバーやライブやイベントで、お尻を触られます。


振り向いて犯人を見つけても、何も言えないけれど。


駐車場で声をかけてきた男性に「こんにちは」と挨拶して立ち去ります。「何だよ、お高くとまって。フン...このビッチ」という罵りの言葉を聞かない振りをしながら。


それはもう生活の一部で、友人や親や夫にわざわざ伝えたりしません。


虐待や、暴行、強姦された記憶は一生つきまといます。


その時のことを友人は涙を流しながら話します。


私たちが男性に対して感じる恐怖、それに対応するための備えは決して大げさではありません。虐待や、暴行、強姦された女性を、山ほど知っています。


「おおごとにしないよう笑い飛ばし、声を上げないことは、男性にとっても女性にとっても得にならないのかもしれない」




だけど最近ようやく、このことを多くの男性は気付いていないのかもしれないと考えるようになりました。知り合いの女性が嫌な思いをするのを、目にしたり、聞いたりした男性もいるでしょう。中にはそれを止めようとした人もいるかもしれない。でもそれがどれほど頻繁に起きているか、それが私たちの発言や行動にどれほど大きな影響を与えるか、彼らは知らないのです。


私たちは、女性が直面している状況をもっと説明しなければいけないのかもしれません。私たち自身が目をそらさず、波風を立てないようにするのを止める必要があるのかもしれません。


性差別について女性が話すとき、笑い飛ばしたり耳を貸さなかったりする男性がいるでしょうか? 彼らは悪い人ではありません。ただ私たちが直面している現実を、実際に体験したことがないのです。私たちが話さなければ、どうやって彼らは知ることができるでしょう?


そう、彼らは私たちが日々直面している出来事を、知らないだけかもしれません。


あまりにも普通のことなので、伝える必要があるなんて私たちは考えもしないのかもしれません。


それがどれだけ広範囲に及んでいるのか、男性は気付いていないのかもしれない。だから、女性のタイトなドレスをからかったことに私が憤慨しても、彼らは理解できないのです。毎日目にする性差別や、娘や彼女の友達たちの経験に腹を立てても、それが氷山の一角にすぎないことに気付いていないのです。


性差別が実際に起こった時に指摘しなければ、男性は、それがどれほど日常的なことなのかを理解できないのかもしれません。店に入る時も女性は用心しなければならないのです。無意識のうちに、女性は周囲を警戒しています。男性たちはそれを知らないのかもしれません。


おおごとにしないよう笑い飛ばし、声を上げないことは、男性にとっても女性にとっても得にならないのかもしれません。


私たちは自身の肉体的な弱さを知っています。駐車場で大の男に襲われても勝ち目はないと知っています。


男性の皆さん、これが女性であるということです。


性の意味を理解する前から、女性たちは性的な対象として見られます。中身が子供のまま身体は大人へと成長します。車の免許がとれるようになる前から大人の男性にジロジロ見られ、声をかけられます。不快に思ってもどうしていいか分からず、何もなかったように振舞います。嫌な思いをしても、正面から立ち向かえば危険な目に遭うかもしれないと若い時に学ぶのです。体が男性より小さく、弱いことを女性は知っています。彼らが本気になれば女性はかなわない。だから目をつぶるのです。


だから今度、道ばたで声をかけられて不快な思いをしたと話す女性がいたら、否定しないで耳を傾けてください。


職場の男性に馴れ馴れしくされると妻が不平を言っても、無関心な態度を取らないで耳を傾けてください。


性差別を非難する女性をけなさないで、彼女の声に耳を傾けてください。


男性の話し方が不愉快だと恋人が文句を言った時、笑い飛ばさないで耳を傾けてください。


耳を傾けてください。あなたが生きている現実と彼女の現実は違うから。


耳を傾けてください。彼女の心配は大げさでも誇張されてもいないから。


耳を傾けてください。彼女か彼女の知り合いが、過去に虐待されたり、暴行されたり、強姦されたりしています。それが自分にも起こりうると彼女は知っているのです。


耳を傾けてください。見知らぬ男からの一言が、彼女を恐怖に陥れるから。


耳を傾けてください。彼女は自分と同じ経験を娘にさせないようにしているだけかもしれないから。


耳を傾けてください。聞いても何も悪いことは起きないから。


ただ、耳を傾けてください。

ウンザリその1 子供の有無



■ ウンザリその1




なぜ登山したいだけなのに、おばちゃん登山者と登ると、子供がいないことについてくどくど説明しないといけない…。 赤線は特に重要な所です。






以下の文章は、


http://www.huffingtonpost.jp/helene-tragos-stelian/storywomen-without-children-7_b_7567330.htm


からの引用です。良く書けているので、代弁として引用します。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーーーーーーーーーーーー


最近新しい友だちとランチをしました。お互いに知り合うためいろいろ質問しているとき「子供はいますか?」と尋ねました。彼女は「いいえ」と答えました。それは落ち着かない瞬間で、私は気まずく感じました。そして、別の話題に移ったのです。


この気まずさは私の心に残りました。何年間か郊外のママ友だちと付き合ってきた後、私は都市に引越し、大きくなった子供は間もなく家を出て行こうとしていました。私は多くの女性たちと出会い、また気まずい質問をしそうになりました。


子供のいない女性と関わるときのエチケットとは何でしょうか?

自分の子供のことを話してもよいのでしょうか?

彼女たちの暮らしついて尋ねてもよかったのでしょうか?

そして、そもそも"チャイルドレス"(子供がいない)という言葉を使ってもよかったのでしょうか?


私は子供を持たずに中年を迎えた知り合いの女性たち数人に相談し、彼女たちやその友人たちの意見を聞きました。身元を明かさないことを約束し、率直に話してもらうように心がけました。


以下は、彼女たちが語ってくれたことです。


1.理由を尋ねないで。または、自分は理由を知っていると決めないで


子供を持たない理由は数多くあり、それは私たちにはまったく関係のないことです。彼女たちが自分の経験を話すときは、自分で決めたときに、自分自身の言葉で話すでしょう。「なぜ?」という質問は、子供を欲していたものの、医学上の、あるいは他の理由で持てなかった人にとっては、とりわけ強烈な質問です。


エレンはずっと子供が欲しいと思っていましたが、一度もふさわしい人との出会いがありませんでした。37歳のときにシングルマザーになることを真剣に考えましたが、そのためにはサポートしてくれる人々のネットワークが必要だと感じました。


「(子供が産まれた)最初の2年をひとりで過ごすのは大変だろう分かっていました。ひとりの既婚の友人と、私が彼らの建物に引っ越して、彼らが私をサポートするのはどうかと話し合いました。別の友人とは、生協で一緒に買い物して、最初の数年間をお互いにサポートし合う、などといったアイデアを話し合ったりしました。


産婦人科医と医療上の話し合いをし、私の卵子の生存率を調べるテストを開始しました。でも結局、やめました。私は、父親との関係を持つチャンスのない世界で子供を育てていくことは望まないと結論を出したのです。私は両親と良好な関係で、父親とは特にそうでした。とにかく、自分にとっては正しくないと思ったんです」。


クリスティーナは子供を持とうと大きな努力をし、8回に渡って生殖補助医療を受けましたが、うまくいきませんでした。彼女のアドバイスはこうです。


「私が子供を持たないことを選択したのだ、と決め付けた質問はしないでください。ほとんどの人は善意から、誉めようさえして言うんだと思います。彼らは、私は子供を持てたはずで、そうであれば良い母親になっただろうと考えるんです。でも、そう聞くと「私は(その機会を)奪われたんです。私は不妊です!」と大声で叫びたくなるのです。誉め言葉だと思っている彼らを傷つけたくはありません。でも、私は不妊体験を見知らぬ人に説明したいとは思いません」


バーブが恋に落ちた男性は、最初の結婚のときの子供がおり「子供はもういらない」と彼女に言いました。40代のときで、彼女は決断しなければなりませんでした。彼女は、自分の"ソウルメイト"を選び、子供を産むことを優先しました。そして、後悔していません。


カーターは子供を持たないことを選びました。「なぜ女性が子供を持ちたいと思うのか、まったく理解できません。私にとってそれはあまりにも大きな責任を伴うもので、ストレスが大きすぎます。1日24時間、週に7日、"オン"でなければならないんですから。自分の子育ての基準がとても高くて、自分個人ではその基準に到達できないと分かっているんです。良い母親になるには、とても多くのことをする必要があり、私は良い母親になりたいと思うことでしょう。無理です。自分にはできないと分かります」


リサは子供を望みませんでした。そして、その選択についてちゃんと説明すべきだという無言の期待にイライラさせられます。「みんなが私に子供はいるかと尋ね、私が『いいえ』と答えると、ほとんどいつも会話が止まります。無言の時間が流れます。みんな『なぜ』と聞きたいんだなと感じます。子供を持たないのはとても異質で、奇妙で、悲しい。あるいは悲惨なことのようです。私に何か問題があるみたいです。誰かに子供がいると知っても、私は"なぜ?"とは聞きません」


ハラリーも子供を持たないことを選びましたが、彼女は、理由を聞かれるのを嫌だとは思いません。それでも、質問は立ち入りすぎることがあります。「その質問が、後悔についてだったとしたら、私は『子供がいないのに、どうやって後悔するんですか?』と言います。しつこく別の質問が続くなら、よくこうやって会話を終わらせます。『私は生殖するという特性を超越して進化したんです』」


2.同情しないで


ある女性にとって、子供がいないことは完全に癒えることのない痛みです。それでも、私がインタビューした子供を望んでいた女性たちは、中年を迎えるまでに自分の状況を受け入れていました。そんな彼女たちが最も望まないのが、同情です。反対に、彼女たちは自分たちが幸せで生産的な生活を送っていること。そして彼女たちに、私たちが子供のことを話してもよいと思っていることを知って欲しいと思っています。


クリスティーナは妊娠を試みましたが成功しませんでした。「誰か別の人が、ずっと昔に経験したことのように感じます。子供を持つことに成功した人をうらやむことはありません。腫れものに触るように振るまってほしくはありません。40歳で結婚して、41歳と43歳のときに子供を出産したある友人は、私の感情に配慮しすぎていました。それでついに『私に子供のことを話しても大丈夫だし、子供の影がちらつく会話で、空虚な気持ちに襲われたりはしない』などと伝えなければなりませんでした。彼女が罪悪感を感じるべきではありません」


3.母親になることを望んでいると思わないで


誰もが子供を持つわけではありません。そう、子育てや母親になることを望まない女性たちがいます。彼女たちが望むのは、彼女たちが私たちに対してするように、私たちも彼女たちの選択を尊重する、ということです。テレサの経験は、ときに女性がこの違いを理解していないことを物語ります。


「子供の頃から、自分は子供を望まないと分かっていました。母性やそうした欲求を感じたことがないのです。幸いなことに、同じ感情を持つ男性に出会い、結婚しました。30年以上幸福な結婚生活を続けてきましたし、子供を持たないという決定を後悔したこともありません。


20代の頃、子供を持ちたいかと尋ねてきた人たち――そして、『いいえ』という答えを聞いた人たちの反応は、『気が変わりますよ』、『まだまだ時間はあります』、『友だちが子供を持つまで待つといい。そうすれば子供が欲しくなります』といったものでした。


私が30代、40代の頃、子供がいないことへの反応はもっと攻撃的で率直でした。『もう時間がありませんよ』『あなたの生物学的時計はカウントダウンしている』『後悔しますよ』。あらゆる背景を持つ人々が、子供はいるかと尋ねてきました。それは問題ではありません。私も他の人に同じことを尋ねます。でも、私の夫や私自身が不能だったのかと聞くとすれば、それは不快です。まったくの他人に対して、自分のことを弁護しなければならないと感じることもあります。


50代から、もう63歳になろうかという現在まで、ある人たちは私の選択について受け入れてくれていると感じます。他の人たちは、ずっと率直に、『あなたは人生最高のことを逃した』と言います。そして、別の人たちは無言で、子供を持てば、人はより良い人物になるかのように私のことを判断します」


4.子供が嫌いなんだと決めつけないで


私がインタビューした女性たちの大半は、他の人の子供たちと一緒に過ごすことをとても楽しんでいました。彼女たちは、自分の兄弟姉妹の子供たちにとって、特別なおじさん、おばさんです。自分の兄弟姉妹、友人などの子供たちと自ら進んで交流します。


ジョアンはたくさんの子供たちと特別な関係を築きました。「私の生活に関わっている子供たちにすごく感謝しています。コミュニケーションやリーダーシップの能力を教えるクラブに参加していて、8歳から17歳までの若者を指導しています。3人の子供の名付け親になりましたし、大好きな姪たち、小さないとこ、友人の子供たちもいいます。本当に恵まれていると感じます」


5.仲間外れにしないで


私がインタビューした女性の多くは、他の家族のイベントに参加するのを楽しみにしていますが、いつも誘われるわけではありません。リサは言います。「子供のいる家のディナーパーティーやお祝い行事、たとえば祝日、卒業祝いなどに誘われることはめったにありません。誘って欲しいです。行きたいか行きたくないかは、私に決めさせてください」


子供のお祝い事への参加やベビーシッターなどを依頼されたアンから、親たちにいくつかアドバイスがあります。「私は、よく子供たちの誕生日パーティーに、たとえ子供のいない人がその場で私だけだったとしても、参加するのが好きです。でも、自分だけが子供を持たないことが大ごとなるのをうれしいと思ったことはありません。何か困ったことがあって子供の面倒を見て欲しいというなら、私は引き受けます。喜んで、無料で。そして子供を安全で幸せな状態で家に帰します。でも、晩ごはんにスナック菓子が出ないとは保証しません。それはその夜が(子供たちの状況など)どう進むかによります。ですから、ふさわしい食事についてお説教しないでください。たった一晩ですし、私はあなたがこれまでに契約したベビーシッターの中で最も責任感がありますし、無料です」


子供を持たない女性は、他の女性たちと同様、女友だちとの友情をとても大切にします。アンはこう説明します。「もし本当に好きな、子供のいない友達がいるなら、ランチに誘ってください」


女ともだちと一緒にいるとき、子供のいない女性たちも子育ての会話に参加したいと思っています。カットは言います。「みんなと一緒にいて、彼女たちが子育てやその大変さを話しているとき、それについてアドバイスできたらと思っています。(自分の)子供を持ったことがないとしても、子供たちと多くの時間を過ごしてきましたから」


ジェーンも同じ考えです。「子供を持ったことがないので、私はあなたが感じる終わりのないプレッシャーや大変な疲労を理解できないと思わないでください。私も、たくさんの姪や甥がいて世話をしてきました。時には何日間もです。でも『子供のいない女性はそう言いますね』と言われたこともあります。私は意見を言うことができないという意味でしょうか?」


それでも、子供のいない女性は、普段の会話が子供のことだけにならないことを望んでいます。バーブはこう言います。「あなたの子供のことや楽しい話を喜んで聞きます。でも、会話がそれだけになってはいけません。共通の話題に注意を向けましょう。それが人間関係を築く方法です。子供がいても、いなくてもです」


50歳くらいになって母親が、子供の巣立ちを受け入れはじめる頃、子供を持たない女性たちとの古い友情をもう一度楽しみ始めます。バーブは言います。「実際、何年も話していなかった女友だちと連絡を取るようになりました。再び、"母親の洞窟"から出てきたからです。自分の生活に彼女たちが関わるようになって、とてもうれしいです。母親もそうでない人も、50代初めになるとそれほど違いません。多くの同じ事柄に取り組んでいます。身体の変化、年を取っていく親、経済的な問題、そして最も大切なこととして、『私はだれで、今何をするか』です。


私たちが20代、30代だった頃を思い出します。だれもが結婚して子供を持つことに関心がありました。そうしたイベントは女性にとって人生の分かれ道です。夫と子供を持ちますか? 右へ進んでください。夫と子供を持ちませんか? 左へ進んでください。ふたつの道を進んだ私たちは今、同じ道に戻ってきました。年を重ねることは、人を等しくさせる素晴らしいもの。そして再び結び合わせるものです。とても素敵です」


6.チャイルドレスと呼ばないで


私がインタビューした人の多くは言葉遣いにこだわりませんでしたが、大半の人はチャイルドレス(子供がいない)という言葉は"何かが欠けているニュアンスがある"というリアの意見にうなずきました。チャイルドレスというのは、消極的な言葉です。子供を持たない選択をした女性たちにとって、特に不快な言葉です。


より良い言葉として、ある人たちは"チャイルドフリー"という言葉を好みましたが、他の人たちは取り繕いすぎだ、政治的に正しくあろうとしすぎだと感じました。


ジェーンはこうした区別そのものに疑問を投げかけます。「どうして子供がいるかどうかで識別される必要があるのでしょうか? 私の知る多くの親たち、とりわけ女性たちは、自分の子供の有無によって分けられることにうんざりしています。それは古臭い女性識別法です。同じことが男性に当てはめられることはまれです。なぜなら男性はいつでも、95歳になっても子供の父親になるチャンスがあるからです!」。


私は、わかりやすくするために、私は「ウィザウト・チルドレン」(子供を持たない)という言葉を使いました。他により良い答えがないからです。


7.失礼なことを言わないで


インタビューした女性たちは、信じられないほど強烈な質問に直面してきました。次に挙げるのは子供を持たない女性に言ってはならない9つの質問例です。スー、アン、リサ、ジェーンから教えてもらいました。


「子供を持つまでは、女性であることの本当の意味を理解することはありません」

「子供を持つべきでしたね。子供たちといれば素晴らしかったのに」

「子供を持ったことは、私が今までした中で最高のことでした」

「歳を取ったら、だれに世話してもらうんですか?」

「子供が欲しくなかったんですか?」

「子供が嫌いですか?」

「子供を持たなかったことを間違いなく後悔しますよ」

「養子をもらえたのに。どうしてそうしなかったんですか?」

「ああ、つまり子供を持つことよりもキャリアを選んだんですね」


多くの女性たちはこうした失礼な意見を以前よりうまく対処できるようになりました。しかし、立ち入った質問に答えたり、不快なコメントを許容したりする義務は彼女たちにはありません。私たちの責任は、子供を持つ女性であっても、そうでない男性であっても、これらの女性たちの感情に敏感になり、注意と思いやりを持ってこの話題を扱うことです。


ジョアンは適確にこう言います。「私たちはみな美しい女性で、選択や状況により、子供を持ったり、持たなかったりします。お互いに良いとか悪いとか考えて時間を浪費しないようにしましょう。お互いに支え合いましょう。一緒に立てば、お互いにより高め合うことができます

Thursday, April 28, 2016

ソフト404エラー

このブログは、私自身の備忘録なので、自分用においてあり、他者からは見えない設定にしているのだが、そうすると、検索エンジンが文句を言ってくる。

ソフト404エラーだ。

しかも、自分の過去の記事を検索したい時に、検索できない・・・

ので、仕方がないので、設定を元に戻す。

Monday, April 25, 2016

山中心からクライミング中心へ

■ 始めた経緯

このブログは、登山の初心者が、一般登山から、アルパインへステップアップするにしたがって

 1)習得した知識を書きとめておくこと
 2)同じような立場の人に役立ててもらうこと

を目的に、スタートした。

■ 今ある環境を生かすことに

山梨へ来た当初は、これまで通り、お勤めをしながら、趣味のバレエを続けていく、という生活をしたいと考えていた。しかし・・・問題発生。仕事がない。大人のためのバレエ教室もない。以前と同じ生活はできない。

・・・というので、ONはヨガのインストラクターの資格を取得してヨガを教えることにした。OFFはバレエに代わる趣味を求め、様々に試行錯誤した結果、残ったのが、登山だった。

無いものねだり(仕事&バレエ)を辞め、あるもの(ヨガの仕事&登山)で、なんとかすることにした。

・・・という事情で、”(仕事がない&大人向けバレエ教室がない)山梨では”、という限定つきで、私自身の幸福の定義を、

”山さえ行けたら幸せ”

ときっぱりと頭を切り替えた。

その結果、一般登山者レベルを含め6年で、年間山行数50~60、年間山行日数100日以上、アルパインにも、クライミングにも、自前で行けるようになり・・・という結果が出せた。運命の不思議に、とても感謝している。


山第四章
http://stps2snwmt.blogspot.jp/2015/12/blog-post_41.html

■ 質へ

さて、当初は、このブログは技術メモ的なものとしてスタートした。

カモシカルンゼ
だが、その役目は終えつつあると感じている。もちろん、山を知る、ということについては今からだが、基本的な技術については一巡感がある。

今後は、書き留めた技術情報の質を向上することに、重心をシフトしたいと考えている。

その理由の一つには、ブログの趣旨がずれてきた・・・ということがある。

■ 山を取り巻く世界への驚愕

アルパインの世界を教わるにつれ、いわゆる登山の世界が、"中高年登山"という名の”特殊な登山”に、とってかわられ、オーソドックスな登山の伝統は忘れ去られようとしており、登山の世界の技術伝承が途絶えていることに、驚愕せずには、いられなかった。

その結果、現在、”本格的がつく登山”の技術・文化の伝承は、危機的状況にあるということが、実体験上で確信できた。

いわゆる”山岳会”と名乗る会でも、”アルパイン”の世界は廃れ、宴会山行と百名山登山が主流だ。

ちなみに山岳会の英訳は、”アルパインクラブ”であるのだが、実際は、地図を読んで道なき道を歩いたり、藪が隠れた冬をチャンスと狙って登頂したり、あるいは、岩登りを含むような山は、”山岳会”では、キワモノ扱いされてしまう。本来はオーソドックスなのに。

こうした実情のため、ブログに発見したことを記すと、山の世界の文化人類学になってしまい、技術内容とは離れて行ってしまう・・・

現在、山岳会では高齢化が進行し、若い人は組織を嫌い、新人が入会してこないため、技術伝承は難しくなり、アルパインへ行く人はほとんどいなくなっていた・・・。

それは、前からその世界にいる人には、発見ではなく既知のことなのだが、そうと知らない人にとっては、ビックリ仰天の実情だった。

■ 山の世界の現状

良く言われることだが、縦のギブアンドテイクは現在機能していない。技術だけでなく、登山の文化も継承が危ぶまれている。

本来のオーソドックスな登山が、王道の地位を失い、逆にキワモノ扱いを受けてしまうようになってしまっている。

聞くところによると、それは全国レベルで起きていることで、社会人山岳会は高齢化し、大学山岳部は存続の危機にあるそうだ。

交通機関の発達や登山道整備など、山に行く物理的な敷居は下がったものの、アルパインに行く環境(人的・技術的)は、非常に悪化している、というのが実情だ。

そのような現状の中では、技術体力が優位な人に求められるのは、無料のガイド役のようだった。

高齢化した山岳会の中で、無料のガイド役をすることは、”貢献”とは私にはどうしても考えられなかった。それでは、ますます、山の技術は後退して考えない登山を助長してしまう。

連れて行く登山も、郷に入れば郷に従えと、やってはみたが、山の技術や文化の伝承に寄与するとは、私にはどうしても考えられなかった。

関連記事: 山岳会における新人教育は期待できない

■ 幸運なる出会い

このような逆境に進路を阻まれながらも、私の場合は、比較的悪環境下で、スムーズに成長できたほうのようだ。

それは、山ヤ同志の同志意識と言うものが働いていたと思う。アルパイン志向の人同士は、なんとなく、分かるものだからだ。

街でも、山でも、岩でも、アイスでも、同好の士に巡り合うことができた。

そのような幸運に恵まれた背景には、様々な理由があるが、ひとつには、仕事で培ったスキルを登山という活動に向けた、ということがあると思う。

 ・人に出会うスキル
 ・出会った人とつながるスキル
 ・その出会いを活かすスキル
 ・経験したことを統合するスキル
 ・経験を体系化して位置づけるスキル
 ・選択肢を複数持つ
 ・独学スキル

転機はいくつかあったが、一つ目は、昭和山岳会出身の長谷部さんとの出会いだ。北八つ帰りに立ち寄るパン屋で出会っているのだが(笑)。この出会いにより、山口輝久さんの本を知るようになり、『北八つ彷徨』を読み、ツルネ東稜や広河原沢などの記述を読んで憧れを温めた。

次の出会いは、登山ガイドをしている三上ガイドとの出会いだ。これは『八ヶ岳研究』を読むきっかけになった。言うまでもなく、『八ヶ岳研究』は八ヶ岳のバリエーションのバイブルだ。

次の転機は、南ア単独縦走中、出会った敦子さんとの出会いで、クライミングについて知るきっかけとなった。当時は私は”ぬんちゃくって何?”という登山者だった。敦子さんは、パートナーを墜死で失っている。

さらに、初めて出かけた谷川での山行が、雪山に開眼させてくれた。6人でラッセルしたトレースが40分で消えた。八つでは雪の何を知ったことにもならないのだと悟った。このときは地図読みはほとんどできず、講師に笑われる程度だったが、その後2年かけてマスターした。この山行がきっかけで、山をきちんと教わろうと考えるようになった。

入会秒読みだったが、偶然発見して申し込んだ大町山岳総合センターでの、リーダー講習に受かったことが、大きな転機となった。考えてみれば、このとき、山岳会で先輩の誰かにおんぶにだっこで山を教わるという路線からは外れたのだろう。ロープワークや確保、アルパインの基礎は、そこで教わったが、講習は数回でキッカケ程度でしかない。何を知らねばならないのか、自覚が促される、というのが講習の真の意義なのだろう。

しかし、助力なしに独学したと言うつもりは毛頭ない。

アルパインについては、師匠につき、1年かけて独学した、と言うほうが正しいように思う。

山で亡くなった知人の追悼登山で、三つ峠へ行った。その時、岩場で出会った人が鈴木さんだ。山に鈴木さんに出会うように、導かれたのではないかと思う。

アルパイン初期の独学に際して、もっとも大きな存在だったのが鈴木の存在だった。さまざまの文献の紹介や考え方の訂正をもらったり、初歩のルートに連れて行ってもらうことで、アルパインのなんたるかを示してもらった。

鈴木の強い薦めで山岳会に属した。師匠の薦めがなければ、所属しなかったと思う。山岳会については、高齢化と聞いていたので、最初から、あまり乗り気ではなかった。山梨の会は全部しらべ、もっとも良さそうな会を紹介してもらってから行った。さらに見学に行っても入会はためらわれた。例会があまり機能していそうではなかったからだが、勧誘を受けて、所属することにした。

会は家庭的で良い会だった。・・・が、地域山岳会だったので、その性質上、アルパインを志向している人は、ほとんどいなかった。宴会山行と日帰りのハイキングが主体で、オーソドックスに、地図読みの山を志向する人が、不遇であることが理解できた。クライミングはトラッドは難しく、かろうじてフリーが主体だったが、ルートに向けて、日常的にクライミング練習をするという環境にはなかった。仕方あるまい。

一方、岩場では、貴重な出会いが続き、現在も一緒に行くのは、基本的に山で出会った人だ。

特に、小川山レイバックで出会った岩田さんには、岩だけでなく、山のアドバイザ―をも、してもらい、とても感謝している。

また、山だけでなく、いかに山行を作るべきか?誰とどの山行に行くべきか?というようなソフト面のアドバイスを複数の方に指南していただけることにも、とても感謝している。

■ 今後

ただ、私の中ではアルパインは一巡し、今年はフリークライミングを頑張る局面に来たな~と感じている。

例えば、これまでアイスは、4級を登れれば良く、寝た氷を登れれば良いと考えていたので、特にムーブの習得は、必要ないと考えていた。岩も同じだ。

が、だんだん、アイスも慣れてくるに従って、傾斜が寝た氷は易しく感じるようになってしまった。(まぁ、段々がついている岩根アイスとかのレベルだが・・・)

今、興味があるのは、むしろクラックなどのトラッドクライミングとなってきた。だが、トラッドのためには、フェイスも必要で、フェイスは本当に女性には困難だ。今はムーブの習得のために、一時期、集中的に登り込みたいと思っている。

・・・となると、アルパインを志向する、このブログの趣旨とは少しずれてきてしまう。

そのため、フリークライミングの技術習得については、また別のまとめが適当だろうと思う。

■ アルパインを志す人へ役立つように

このブログは、自分自身が、アルパインの初歩的な技術を確認するための備忘録として、取っておきたいと思っている。

例えば、日本登山大系を知らない人は、山ヤとは言えない。

地形図を持ってこない人も山ヤとは言えない。

・・・が、今となっては、私にとっては登山大系を読んでも、記事にしたいという気持ちにはなれない。

私も一般登山しか知らない頃は、登山大系を知らなかったので、当時は、とても新鮮な気がした。

が、今では登山大系を見るのは、普通の事となってしまい、改めて”登山大系という本があります!”と、記事にしたい気持ちにはなれない。

・・・とはいえ、知らない登山者が多いのも事実だ。

また、周囲の人たちの様々な助力があったことを無駄にしたくない。

これまで得てきた支援を無駄にしたくない。

山の恩は、山の人、次の人にペイフォーワードしていきたい。

■ 教えてみたが・・・

実は、そう考えて、自分が教わったことを伝承するという義務を感じ、片手には収まらない数の人に基本のマルチピッチを教えてみた。

・・・のだが、結局、いくらロープワークができるようになったところで、

・その山に行くべき時期に行くとか、
・地図読みとか、
・装備の不備とか、
・判断力・認識力の問題

のほうが、単純にクローブヒッチができる・できない、という問題より大きいかもしれない。

装備不足、ルートファインディング、山の事前研究の軽視、などがあると、そもそも危険認知がおろそかになっており、そのような危険認知が疎かな人が、ちょっとした不注意で死んでしまう、ロープが出る山にいくべきなのか、そもそも疑問だ。

山は危険認知ができていたとしても、死の危険があるのだから、危険認知しない人には、もっとあぶない。

それはその人に親切な行為ではないかもしれない。

自分の命は自分で守るという意識を持つ必要がある。その意識ができているかどうか・・・それは、

 ・一般登山で必要となる知識については、すでに主体的に学んでいて、一通りの身を守るための知識はついている、

ということが主体性の目安になる。登山歴が30年であっても、地形図を山に持たないで来る人や森林限界以上の山にジャージで来る人は含まれない。

実際、私の周囲のアルパイン系の人というのは、別にこちらが教えなくても、『チャレンジアルパイン』くらいは知っている。

後進の人たちに参考にしてもらう程度ではあるが、役立ててもらうため、今後は、このブログは、コツコツと、これまで書き溜めた記事の再録、再編集をして行こうと思っている。

そして、私自身は、”山さえ行ければ幸せ”という、山中心の生活から、より身体能力のUPの方にシフトしたクライミング中心の生活にシフトして行きたいと思っている。

山梨では岩もとても良い。

 その時その時で、与えられたものを感謝して受け取ることが大事

だと考えている。つまり、置かれた場所で咲きなさい、ということだ。


≪関連記事≫
初めて読んだ本 北八つ彷徨
八ヶ岳のバリエーションルート

Monday, April 18, 2016

危険不感症

■危険不感症

去年の3月にもらっていたハゲオヤジさんのコメントをまとめる。

・大きな問題は、そんな無知・軽率な人を登らせてしまうリーダー

・自身は問題なく登れるレベルなのでしょうが、メンバーの安全安心を配慮しない(できない)、「危険不感症」の人はリーダー不適格

・雨予報の出ている日に雨具不携行の参加者へ一言するのは当然のこと

・領域の線引きは、森林限界地形と雪量を基に、

 ・雪崩が出るか
 ・雪庇があるか
 ・ザイルを出すか
 ・悪天下で行動できるか、
 ・エスケープルート

・谷川岳などの上信越の山は格段に雪が多くなり、低いところの谷沢地形や樹林帯のちょっとした斜面でも雪崩がある

・北アルプス・南アルプス・中央アルプスの前衛峰にも急峻なガリーや岩尾根・やせ尾根を通過しなければならない危険箇所があり、そういったところも(雪上訓練を受けていない人は)禁止領域

・雪訓は、冬山に入る山岳会では、その前に通過しなければならない「プロトコル」

高齢者がいるのなら、年一度の「健康診断」

・高齢であればなおさら、そこで健康(つまり技術)を、確かめねばなりません

・これが毎年シーズン出来ないのなら、アイゼン・ピッケルの必要な山への山行はやめるべき

・「まともな山屋の先輩は仕事が忙しくて」 とありますが、新人を育てる気がない先輩を、「まとも」とは言えません。 

忙しい、というのは、ただの「わがまま」

・「雪訓」をやらずに冬山に行くのは、「無責任」プレイです。

・それは、「岩ゲレンデ訓練」をやらずに岩V・ルートにゆくのと同じ。

・また、技術訓練と同時に大切なのは、訓練を通じて、「互いの気ごころ」に触れること

主体性=委譲

■ 主体性

昨日は、最近入会した会の総会だった。30代が多い会なので、私は年増に入る(笑)。

参加者が主体性をもって運営に取り組んでいる。新鮮だった。

前の会では、一部の特権者(管理する側)と平市民(管理される側)に別れる運営スタイルだったからだ。

主体的に会を盛り立てようと発言しているメンバーは、まだ数年レベルの入会歴の浅い人も多かった。前の会では考えられないことだろう。

何が違うのか?

会長職などの会を率いる人の度量が一番問題なんだろうな。委譲、ということだ。平たく言えば、実務は若い者に任せて、自分は見守るということだ。

■ 説明力

山は自己責任と言われる。が、自己責任と言われるのに、主体性を発揮しようとすると、危険を盾に、非常識登山者扱いされることが多い。

例えば、私は雪の山から登山をスタートしたが、さんざんガイド登山をしないことをとがめられた。

自分で自分のことを判断する権限(もしくは知識)が与えられない事が多い。本音は色々で、商業登山の場合は、要するにホンネはお金を払ってほしいということだ。自立してしまうと、優良顧客ではなくなる。

山岳会の場合は、心配だということなのだが、それなら、何がどう心配だ、と具体的に分かりやすく伝えることが重要なのではないだろうか?単純に会の責任問題になると困る、ということも、あるかもしれない。

”ホンネと建前”が分離=行動に合理性を見出すのが難しいスタイル・・・それでは、分かりやすさと公明さが無くなる。結果、運営に謎や無理が生じるのだろう。

もしかすると、古いスタイルの山岳会の衰退は、そうした封建主義的とも言えるスタイルの衰退にすぎないのかもしれない。

そうであれば、自己責任が増えているか?減っているか?と言う視点で見ると、

  封建的スタイルの衰退=主体性を持って活動している人が多くなったことを示す、

に過ぎず、正常化への正当な流れでしかないのかもしれない。この辺は企業形態と似ているかもしれない。

無責任と依存は表裏一体なのだ。自立させたければ、責任(決める権限)も持たせないといけない。

古い会   新しい会

発言権  経歴順 ⇔  メンバー一律
i役割   押し付け ⇔  自ら選ぶ
責任     会   ⇔  自己責任

発言は活発で、指摘は論理的・合理的だった。

合理的でない主張が、会員歴が長いというだけで通ったり、古い会員を守ることが至上課題になって公平性を失っていることはなかった。

発言がカジュアルなので、古い会だと生意気扱いされるだろうな~ということは容易に想像がついた。

パートナーが見つからなければ、出ていくだけのこと、ということで、メンバーの入れ替えも、頻繁そうだったので、”今いる人が今必要な活動をする”という方針だと、当然、入会数か月レベルの人が主体の活動にならざるを得ないし、その人たちが運営の主体者となる。

そうしたことは、数年の実績を積んで実力を証明し、上の者に「許されないと自由がない」という、従来型のスタイルでは起らないだろうなーと思った。

発言権を得るまでに石の上にも3年が、日本の通例だからだ。変な言いかただが、日本企業から外資にうつった時みたいな感じだ。

■ 感謝

私は指導者に比較的恵まれた。非常に感謝している。私一人の見識では、登山がここまで本格化することはできなかったであろうからだ。

もちろん、私自身の資質もある。

 ・オープンマインドでいること
 ・支払わなければならない代償を受け入れる気でいること (責任をもつこと)

は大事な二つの資質だ。
 
オープンマインドと言うのは食わず嫌いをしないということだ。臆せず、先入観で判断しない。これは多くの女性登山者に言えることだ。先入観で、「ロープがでる山は怖いからやらない」とか「リーダーは男性がやるもの、だから女性の私はロープワークを知らなくて良い」と、やってみる前に判断してしまえば、一般登山で終わりだろう。

何事もやる前からできないしないということにしてしまうと、山行の内容的にも、人間的にも、成長はしないだろう。食わず嫌いということだ。

もう一つは、代償を払うということ。何かを得るということは、代わりに何かができないことでもあり、何かを失うことでもある。

子どもを産むという幸福を得れば、自由な時間と言う代償は当然払わなくてはならないし、経済的にひっ迫するかどうかは、かかる経費と自分の収入を照らし合わせれば、事前に自分で予見できることだろう。

何か技術を教わりたいと思えば、授業料は払わなくてはならない。それは金銭的負担かもしれないし、遠方に住む支援者の元まで出かけていく、と言う事かもしれない。犠牲なしで何かを得ることはできないのだ。

私は幸運に恵まれ、また自分の資質もマッチしていたので、比較的知識が充実しているので、そうしたメリットを自分だけで独占する、というのは狭量なことだろうと思うし、教えてくれた人たちの意思にも、そむくと思う。

なので、それを後進の人に拡散する義務があると思う。

師匠らに教わったことを若い人、次の人に還元する事に対して、恩着せがましくする予定はないし、これまでもしていない。

が、相手の無知のために、自分自身が危険に巻き込まれてしまうほどの自己犠牲は、誰であってもすべきでないと思う。

■ これまでの問題点

これまで、何人かの人が教わりたい、もしくはパートナー候補と言うことで、来てくれた。私が教えられるのはアルパインの基本的なスタカットの手順まで。

それ以上・・・つまり、経験が必要な岩を見る目やルート選びなどは教えられない。

それらは一緒に成長していく中で、一緒に考えてくれる人が欲しいわけだった。

≪パート―歴のまとめ≫

30代前半女性: 高所登山経験者。危険予知せず。ロープワーク、何度教えても覚えられない。

50代後半男性: 性格的に慌ててしまうため、危険。ロープを通さず投げそうで怖かった。体力があるため、一人で行けてしまう。パートナーを本人は必要としていない上、パートナーにとってもその人と組むほうが危険になってしまう。

30代女性: 判断面で合意形成に不安が残るため、パートナー成立に至らず。

40代男性: いきなり四尾根のため。行ける場所の判断が違うため。

50代男性: ビレイが不確実。習得意欲がない。

50代男性: ビレイに不安。必要な所でロープを出さないで良いと思っている。

50代女性: 一般登山(読図)がまだ習得に至っていなかった。

40代女性: ロープが出る山に行きたい気持ちがない。一般登山未満で満足中

30代女性: 冒険的な心情が不向き。安心領域から出たいと思っていない。

結論すると、問題点は拡散すべき対象者が、アルパインクライミングに進むには、準備不足の人が多かったということかもしれない。

当然だが、パートナーには命を預けるので、そのことを自覚していない、無責任体質の人はアルパインには向かない。

危険予知をしようとしない人にも適性がないかもしれない。

危険予知のうち、具体的には、地図読み等も入る。読図をしないで済ませようとすると、単純な手抜きというだけではなく、地図をみないで山中に入ったら、どうなるだろうか?という危険の予測力に欠けている。

ロープワーク、ビレイ、雪上訓練、装備、天候知識などすべて同じ。

私は山を教わったことを、とても感謝しているので、私が知っている程度の事は、垣根なく教えてあげたいと思っている。

が、やってみた結果理解したことだが、準備不足の人に教えても、その労力は徒労になってしまう。

基本的に徒労は避けるべきだと思う。

そのサインの一つは

 ・装備不足

であり、雪山に行くのに冬靴を持っていない人は、短時間の体験レベルにとどめるべきだ。

また

 ・認識不足

も、教えるにはまだ早いということを示すことが体験して分かった。 認識不足であれば、立て板に水で何もかも流れて行ってしまうのだ。

したがって、登山者を育てるのは、タイミングをよく見て、必要なことを必要なタイミングで入れてやる必要がある。

そのタイミングの見極め、が、経験が必要、と言われる部分だ。

Saturday, April 9, 2016

年間山行日数

■ 実績積み上げ中?

アルパイン(ロープが出るような山)をスタートして、ちょうど丸3年だ。

15年度108日 退会 
14年度76日 山岳会入会   前穂北尾根
13年度59日 師匠と出会い  アイスルート
 ---ここからアルパインへーーー
12年度64日 リーダー講習受講
11年度22日 ツルネ東稜
10年度26日 登山一年目

だった。トータルすると、355日。うち三分の一は、去年(笑)。

350日というと、月に1回、一泊二日で山を歩くことにしている人にとっては、14年分のボリュームとなる。

これだけ集中的に山に行くことができる、時間的余裕を持てることは、長い人生の中でも、そうそうないと思われるので、

 山梨にいる間は山さえ行けたら良い

と、”経済的な幸福”や”キャリア”、あるいは”子ども”などの高額な幸福を後回しにせざるを得ない状況下での、代替え的成果としては、大変、恵まれた方だろうと思う。

大変、感謝しています。




Monday, April 4, 2016

あればあるほど良いのが体力と登攀力

■ 経験値を積むことができない

師匠は、初めの頃、新人が、アルパインではなく、フリーに傾注するのではというので、私が人工壁に行くのを嫌がっていた・・・。その気持ちはよく分かる。

・・・のだが・・・、残念ながら、アルパインへ行きながら経験値と登攀力を同時に高めつつ、成長するという戦略は、今の社会状況では成立困難だ。

ともかく、パートナーを得るのが昨今の山岳会は高齢化しすぎていて、むずかしい。

社会から隔絶された環境という、隔絶リスクを高齢になると取ることができない。

アルパインルートは、登攀そのものの困難度としては易しくても、隔絶リスクが高いから、高齢になると行くことができない。

昨今の登山人口は増えてはいるが、その大部分は65歳以上で定年退職してから初めて山を始める登山者である・・・という社会状況がある。

年を取ったらフリークライミングをするのが、アプローチも近く、良いと思う。

若い人にとっては、まだ山に行ける体力がある先輩格の岳人と本番のアルパインクライミングに行って経験を積む、ということができづらく、経験不足を甘受してアルパインに行かなくては、アルパインクライミングそのものの経験値を積み上げることができない。

■ 努力しても謙虚でも、経験不足に陥る、その傍証

日々アルパインクライミングの山に登り、安全には深く配慮しても、無知による遭難を回避することはできない。

例えば、今年は八ヶ岳では40cm程度の新雪があった時、阿弥陀南稜で雪崩遭難が起きた。事故者はガイドパーティだ。しかも、優秀で有名なガイドさんだ。

ガイドパーティと言うのは、ガイドが一切の責任を負うため、一般の山岳会に輪を掛けた安全マージンの厚さだ。たとえば、前穂北尾根では5.6のコルからロープを出すそうだ。山岳会では、いくらなんでもそんなカンタンなところでは、ロープを出さない。ロープを出すのは、3峰から。つまり級でいうと、3級から。

そして、ガイドさんというのは、頻度から言って、一般山岳会よりも多くの数のアルパインの山行経験がある。

その経験値と安全マージンをもってしても、防げなかった雪崩遭難、死者1名。

阿弥陀南陵と言えば、山の世界では、初心者コースに毛が生えた程度のものとされており、困難なルートとは認識されていないので、まさにベテランであれば、過信してしまいそうな、その程度、のルートだ。

・・・ということは、これが山岳会での実施であれば、

 ・より少ない経験値と、
 ・より少ない安全マージンと、
 ・より高くつのったプライドと、
 ・顧客への責任というブレーキ不在、

という条件で臨まねばならず、これが安全に向けて、どう作用するか?というと、決してプラスに作用するわけではないだろうことぐらい、すぐ分かることだろう。

■ 50代の男性は二極化

私の周囲には、50代のアルパイン初心者の人もいる。男性が多い。

この人たちは、2極化している。

危ない人と本格的なアルパインへ踏み入れた人と・・・。あぶない人は本当に危ない。本人があぶないだけでなく、周囲を死のリスクに引きこんでいて、その自覚がない。

危なくない人もいるが、それでも、経験がないままに山に行っているということは否めないかもしれない。経験を積んでいる途中で死んでしまうかもしれない、ということは除外できない。

こういう方たちにこそ、ベテランの経験によるアドバイスが必要なのではないかと思うのだが、50代の初心者と60代のベテランはソリが悪いような気がするのはなぜだろう???

■ スポーツクライミングのニーズ

正直言うと、人工壁はあまり好きではないのだが、現代では、アルパインをやる人にも、人工壁でのスポーツクライミングは必要なようだ。

ともかくビレイはスポーツクライミングでしか習得できない。

ビレイが習得できていないまま、フリークライミングへ進むことはないし、フリーが分かっていないで、アルパインへ行くのも無理があるような気がする。

落ちなければいい、の価値観から転換しない限り、ロープをきちんと使えるようになろう、支点の強度を調べよう、というような気持ちになることはないだろうからだ。

前にベテランがリードした時、ハーケンがスカスカでビックリした。効いていない中間支点を取っても、取っていないのと同じだ。だから、そこは結局フリーソロしたのと同じだ。

そのようなクライミングはしてはいけないのだが、分かっていてもそうなるのであれば、分かっていないままに、アルパインスタイルへ突き進み、進退窮まって落ちる、ということになれば、事故に確実につながる。

それは予想のコースであって、予想外の不運による事故とは違う。たとえば、落石のような。

回避できる事故を回避しない遭難
回避できる事故を回避して、その結果の遭難

の二つは質に大きな違いがある。

回避できる事故を回避しない遭難に巻き込まれないためにはどうすればいいか?登攀力をあげておくしかない、ということで、フリークライミングは私の場合、自己防衛の結果である。

■ 関連記事

安全について、初心者当時2年前の考察

Sunday, April 3, 2016

良きパートナーとは

最近、山の先輩から、良いアドバイスをもらった。

 安全(セキュリティ)に関する認識が一致している人が良きパートナー

ということだ。

■ 見識が高い

誰にでも初心のときというのはある。 だから分からないことは恥ずかしいことではないし、無能な人ということにもならない。

それよりも、徐々にでも良いから、分かるようになっていかない、ということが問題であり、クライミングに対する理解不足ということを意味する。

例えば、私の知っている例では、厳冬期に黒戸尾根を日帰りできる体力がある人がいた。

このように優れた人でも、登攀は初めてであれば失敗しながら学ぶのが普通のことだ。人工壁でのジャンプオフで足首をねじって痛め、クライミングはできない状態になっていた。これだけなら、そういうこともあるよなぁと思うところだ。

だが、この方は、ビレイで制動手を上にする癖があった。また、セルフを取る前に落ちた。人工壁では2mくらいの1ピン目でも落ちていた。そのため、2度目も足首をねじっていた。

・・・というわけで、安全にとってプラスになるか、マイナスなるかをトータルすると、マイナスが大きく、いくら体力があっても、体力だけではクライミングを安全に行うのに、十分条件ではないので、登攀的な山は難しい。

これが、単純に体力がそれほどすごくなくても、ビレイが確実であればクライミングは成立する。

セルフが確実なら本チャンも可能だ。1ピン目で落ちない、ゼロピン目を取るなど、きちんと危険を理解していれば、セカンドならどこでも連れて行ける。パートナーとしては成立する。

体力というのは、体力の範囲に収まる計画、つまり無理のない計画、を立てさえすれば済むことだからだ。

セルフを取る前に落ちるようなことは、単純なる勉強不足で、大幅な減点だが、落ちなくても別に点は稼げない。クライマーだったら、その辺はすでに理解していて、墜ちないのが当然のことだからだ。

これは1ピン目で落ちないというのも同じことで、1ピン目から落ちているような人は、そもそも、そこは危ないので登るべきではない。落ちないのが普通であり、落ちなくても特に良い点にならないのだから。一方落ちれば大幅減点だ。

登山の体力がある人でも、登攀になると、このように、

 分かっていないために危険回避できていない

となるので、

 初心者の間は、とにかく安全に関する認識を高めるのが大事

なことだ。なぜなら、

 分かっていないで死ぬことが一番もったいない死に方

だからだ。

これは 地図読みや雪上訓練、生活技術など、すべての面に対して当てはまる。

山は体力がないと登れないが、体力だけでも登れない。

≪関連記事≫
パートナーの条件