Wednesday, January 27, 2016

2012年5月29日の日記

■ ツアーか未組織

自分の2012年5月29日の日記を見つけました☆ 今でも同じように感じていますが、今では、すっかり山のために色々なことを後回しにする人(笑)

以前は、登山ツアー(しかも、単なる一般ルートなのに)に、参加しないで、夫と個人山行することを周囲にとがめられ、嫌な思いをしていました。

今では、登山ツアーに入れ、と言ってきた人は、登山者を心配しているのではなく、単純にツアー代金を稼ぎたいだけだったんだな~と分かります。

未組織登山者であることに、後ろめたさを感じてもいました。今では、全然…(笑)。

登山者は、依存的な人、自分で幹事をしたくない人、メンバーとしての責任や役割を担いたくない人、全然クライミングシステムを分かっていないし、分かろうとも思っていない人が分かっている人のおこぼれをもらう場所だ、ということが分かったからです。

この2点が、2012年から、15年にかけて3年間山の世界をつぶさに見てきた人の観察結果です。

ツアー登山には参加する必要はない。

山岳会は高齢化していて、中の人の面倒をみきれない、が正直な感想です。

■ 山中毒

知人が、私の山の写真を見て、山を綺麗だと褒めてくれました☆
うん、綺麗です、山。今私のPCの背景はツルネ山頂から見た、白銀に輝く旭岳…なんて美しいのでしょう!!毎日見てウットリ。溜息をついています(笑) でも、正直に告白すると、実はこんなに美しい雪山も何度も見てしまうと…慣れます(^^;)そして、飽きもします(><) 純粋に美しさだけを求めるならば、ロープウェイで出かける登頂まで1時間弱の北横岳でも充分同様の景色を味わうことができます。

では、なんで何度も山へ行くのは何なんだろう…?そこんところは、実は自分でもうまく説明できません。

ただ…しばらく山に行かないと…とっても、そわそわしてくるのです。 山切れと呼んでいます。それはバレエを習っていた頃、週に3,4回のレッスンが週に1回に減っただけでイライラしてくるのと少し似ています。

ところが、山に行けば行ったで、行く前はあれほど山に行きたい!モードだったのに、あっけなく「疲れた」などと言っています(汗)。 一番ルンルン、ウキウキしているのは、今から山に登ろう!という早朝かもしれません。

朝まだ薄暗い中で…お山が太陽の光を受けて、金色に輝く…と単純に「なんて世界は美しいんだ!」と思います。

そうすると…登山口では気分は盛り上がっています。そそくさと登山道へ。一歩ごとにわくわく。どんな景色が見れるんだろうな!そんな気分です。これは別に上ったことがある山でも問題ないようです。でもこれって、朝の散策でもそう思うんです。登りってつらいんですが、楽しさで打ち消されます。

ただ...お空は気分屋で、なんだか様子がおかしいぞと、途中で雲のなかに隠れてしまった山頂方面を見ると、とたんに不安になります。

そんなときは、鳥はどうしてるか、ほかに登山者はいるか、風はどうか?と何かしら予兆はないか…このまま進んで大丈夫なのか?疑念はそれだけです。五感をフルに働かせ(ってさび付いて働かないのですが)判断します。

たまに降りてくる人などがいたりして、今日は上はダメだよ、など言われたら…行って自分の目で見てみたいような気もしつつ…どこでその判断を下すかを「じゃ、○○まで」と暫定ゴールを決め、そこで判断、お山の様子をみつつ下山するか登るか決めます。

風が強い、雨が降りそう、ガスが出た、お腹が空いた、体調が悪い…原因は色々ですがどっちにしても判断。判断しないのも判断。その判断が面白いんだなぁと思う。 帰ったらその判断がどう出たのか、山レコなどで見ます。無理して登って意外にも晴れた山頂に恵まれた人がいたり、やっぱり下山してよかったなという結果だったり。

自分とお山との駆け引きって感じです。これは他の活動にはなかった?いやあったかな。たいてい、バレエやスポーツジム通い、など、運動系の習い事は、疲れてやる気が起きなくてもやったほうが結果的に気分が良いものです。それと似ています。

ただ、お山はどんなときでも行ったほうが良いかというと違うな…と。ひたすら惨めな気分で帰る羽目になることもあるようです。(まだ経験していませんが。登って損した気分程度ならあります)

■ コンテクスト&シンクロニシティ重視

有名なセリフに 「そこに山があるから」というのがあります。

あれはクライマーのセリフなのかな?高いところに登りたいから登っているわけじゃないので自己への挑戦である高名な登山家や記録の樹立を求める冒険家のもつ登山衝動とごく普通の人たちが山に行きたがる登山衝動は同じレベルで扱うのには無理がありすぎるような気がします。

別に命を掛けたいわけじゃない。ちょっとその先の道がどうなっているか知りたいだけってのは近い。

山の先輩が言っていたのは「山無しでは生きられない」。

私は山に今行きたいけれども、山無しになっても、都会でなら生きれると思います。他に楽しいことが一杯。山に行かなかったら海に。海でなければ湖に行きます。実際サンフランシスコでは夕方に海岸を歩いていました。

たぶん一般登山者は、わあ~ 人間ってちっちゃい~ 山って大きい~、星ってホントはこんなにキレイ~ という”感動”が欲しいだけなのかも??? それは感動がない毎日を乗り切る潤滑油みたいなものです。だから毎日が感動続きの子供には要らない。そして、その感動には中毒傾向があるのかも?特に人生後半の人にとって?

人生なんて死ぬまでの時間つぶしともいえます。人類の歴史に残る偉人や賢人も生前に偉人や賢人であったかというとそうでもない。ヴァンゴッホの絵は死後再評価されました。ジーザス・クライストは十字架に掛けられました。それでも地球は丸いといった人もいたし、生きたまま火あぶりの刑に処されたのはジャンヌダルクです。世界は誤解と糾弾と困難で満ちています。でも、今立っている足元を見れば、人間でいるのもそんなに悪いことでも有りません。ドッグアンドキャットアワーといえば、癒しの時間の定番ですが、日本人の場合は山時間なのかもしれません。


人間なんて、飢えない程度に食べれて、安全な場所で寝れて、お隣に愛する人がいれば、もう9割オッケー!そんなことを確認したいだけなのかもしれません。

本当に困難な目にあったことがあれば…死ぬほどのことがあったなら、生きているだけで万事OKです。あとのことは全部瑣末なこと。

いくら大きな財を成してもお浄土には持っていけないし、いくら有名になっても天国では有名人特等席はなさそうです。健康に気をつけ長生きしたところで、そもそも毎日が幸せでなくては長生き自体が苦痛です。いまどきは死ぬリスクより深刻なのはウッカリ生きてしまうリスクです…

結局、今、この瞬間に心を留め置く…そして生きていることの幸せを感じる。味わう。そういうシンプルなことが里でできないから山にいく。そういうことが大事だと山に行けば思う。だから人は山に行くんだと思うのですが…旅に行く人も同じであると思います。

でも、確かにそれだけでは、なぜツルネ東稜が今年一番のベスト山行だったのか説明できませんね。

うーん…短く言うと、ツルネ東稜、あれはお山が私を呼んでいたから。

厳密にいうと、そこには文脈の介在が大きいのです。コンテクスト=話の流れ。

偶然の重なり…です。たまたま入ってみたレストランで出合った初老のオーナーと山の友達に。お山の話。借りてきた古い雑誌の記事。ガイドさんが貸してくれた古い山の本。そこに見つけた、前に興味をもって読んだ本を書いた著者の名。行きたい場所と連れて行きたい場所の偶然の一致。偶然にもその前の山で同じ日、同じ時間帯に登っていた人。

あれやこれやの偶然の糸が手繰り寄せた山行。これで仮に、その日曇りだったらどういうことでしょう。

そんなに気分は盛り上がらなかったでしょう。山は山、やっぱりしんどいな、で終わったかもしれません。

でも、まれに見るほどの大晴天だったのです。お山が呼んでる!と完全なる誤解をしても許されます(笑)

考えてみると1年に一度、そういう風にお山がこっちにいらっしゃいと呼んでくれているようです。

去年は、震災前1週間に登った山で若いガイドさんと出会いました。すっかり意気投合して夜中まで話し込みました。その方がいなければ、今年雪山に登るのに、雪山訓練を受ける必要は感じなかったでしょう。

だって雪山の景色はいつも同じように美しいので、我々としてはお飾りピッケルで充分の冬天狗に毎年登れれば満足だ、とさえ思っていたのです。そもそも美しい景色を人参にして登っていたので。
ところが、今年連れて行ってくれた山はバリエーションルートでした。トレースがない山を登る。トレース追従限定登山からの脱却は、要するにルール主義から原則主義への脱皮です。ただ人の歩いた跡を辿る山から、自分で道を発見して登る山へ。地図にある道を行く山から尾根を見る山へ。2Dの山から3Dの山へ。人参は美しい景色だけではなくなりました。

新しいにんじんが出てくる=新たな山脈です。今まで登っていた山はソフトウェア業界という山脈でしたが別にキャリア縦走ではなくても、どんな山だって登っていればどこかへつくでしょう。

■ 読了 『単独行』 加藤文太郎

そういう時期に『単独行』を読むことになったのも、なんらかのシンクロニシティかもしれません。

山の世界では有名すぎる加藤さんが感じていた単独で山に行くことへの後ろめたさは、時代が変わっても同じだと言うことが分かりました。

ただ私が感じさせられていた煩さは、一抹の胡散臭さを伴っていました。山岳会などのパーティでないことを未組織登山者と呼ぶのですが、未組織登山者は一般に肩身が狭いです。でも、一般の人が一般の観光で登る山に観光的に入ること、つまりツアーに参加しないこと、に今では、昔加藤さんが受けたのと同じような「無謀」のそしりを感じさせられているのには、なんとなく納得が行きません(^^;)自立していないのはどっちなのか?ツアーに参加しないからって無謀とは限らないでしょう。

最近、岩場のこなし方講習会などのお知らせをもらいましたが…一応、行きたいと思っている場所には刃渡りとかいって岩の連なりが多少あるようなのですが…こんな講習に出ないと通行できない場所なのかどうか、よく分かりません。

その分かりにくいぼわっとした部分は格好の商機となって安全志向の人にツアー登山を促しているようです。

でも、一般ルートというのは山岳部などの技術がない人でも歩けるところです。じゃあ何のために連れて行ってもらうのか?荷物もち?地図代わり?なんとなくそれって失礼ではないか?添乗員?

なんとなく、海外でパッケージツアーに行ってどこそこに行ったことがある、という気になってしまう愚と同じ傾向を感じないでも有りません。一番面白いところをお金を出してやってもらうなんて。

…というわけで私はこの本を読んだことで個人山行に更なる自信を深めました。

1人で行けないところには行ける日が来るまで行かなくていい。難しいところに無理して行かなくてもちゃんとお山はお話してくれます。実力以上のところに行きたいのは見栄なのかもしれませんし。

むしろ、充実した山行でもっとも重要なことは、コンテクストの成立まで待つこと…そのことが充実にとっては欠くべからざる最大のイングレディエントではないか?と思いました。平たく言うと出会い。

来るべき時に来るべき山に登れる。それも含めてちゃんとお山が計らってくれるのでしょう。

登れる山は自分で。技術と知識には対価を。そんな感じです。