Friday, January 29, 2016

川俣尾根は回る

■ ルートは回るよ・・・

ヒロケンさんの雪山指南を読んだのが、もう5年も前のハナシ・・・

その記事には、八ヶ岳のステップアップをどう作って行ったらよいか、詳細に書いてあった。

おりしも、私と夫は権現に通っていたころで、三ツ頭の長いピークから見える、となりの尾根、川俣尾根を私は見て、そこへ消える動物の足跡に、あっちはどうなっているのかなぁ・・・と思ったのだった。

当時、ピッケルを持ち始めたので、使い方を教わるためにガイドさんの山行に出た。

場所は天狗岳で、ピッケルの使い方を教えてもらった時、天狗はもう4回目の登頂。

そのガイドさんが、「どこに行きたいの?」と聞いて来た。

ので、「川俣尾根」と答えた。

ガイドさんは、びっくりして、”なんでそんなところ知ってるんだろう”と思ったのだろう・・・独評登高会の『八ヶ岳研究』を貸してくれ、ツルネ東稜から川俣尾根という山行に連れて行ってくれた。

その後、ある登山学校で、谷川方面の山のラッセル山行に参加した時に、その話をすると、その会のベテランも、まだ川俣尾根には行っていないと言う。

八ヶ岳通も知らない尾根(実際、連れて行ってくれたガイドさんも行ったことがなく、そのガイド山行が初めてだった)だったらしい・・・。その方は、すぐ登ってみて感想をくれた。いい尾根だったそうだ。

昨夜、その会で、新人さんらしい感じの人が、最近、ラッセル山行で、川俣尾根に行ったと話してくれた。

相手は、私のことを全くの一般登山者、地獄谷も知らない人だと思っていたようなので、既に行ったことがある、と話すとちょっと驚いていた。

一回は下りで、2回目は復習山行で、会の人を案内して登っている。

それにしても、復活したルートが、なんだか、回りまわっている感じが面白い。

■ 川俣尾根

川俣尾根は、カンタンに概説すると、南八ヶ岳東面の尾根だ。一番南に位置している権現岳の南面のピーク、三ツ頭から、東に派生している。名前は、川俣渓谷の”川俣”と同じだろう。

森林限界を超えるのは、ほんの少しなので、取り立てて悪場がない上、東面なので雪が深い。

八ヶ岳東面のバリエーションルートは、地獄谷周辺に集中していて、一般的に登りにバリエーションを使ったら、ツルネ東稜で降りるのが普通だ。ツルネ東稜がもっとも易しい下山路だが、そのさらに易しいバージョンが川俣尾根。

読図以外特に困難となる要素がない。最後の雪庇を乗り越えるところで、ほんの少し、腰ラッセルがある程度。ツルネ東稜のほうがラッセルは大変だった。

一般に地獄谷周辺の登山適期は残雪期だから、雪が2~3mあっても、もうすでに丈夫で強固なクラスト層が出来ていて、すごいラッセルになることはない。

でも、それは、残雪期だから。雪が降ったばかりの時に行けば、ちゃーんとラッセルになるのだそうだ。

普通は、出合い小屋まで2時間だが、7時間かかったそうで(笑)、それは”えらいこっちゃ~”だ。

出合い小屋まで7時間・・・聞いたら、行って見たくなった(笑)。

≪関連記事≫
夢踊る2月の八ヶ岳
雪山ステップアップの研究






2月は温かい?

■久しぶりの東京へ 

昨日は久しぶりに東京方面に出かけてきた。今朝、3時間かかって帰り、疲れた~。

久しぶりの東京は人が多かった。やっぱり生活のペースが山梨とは全く違う。電車から吐き出される黒々とした人の群れは、そういう生活を知らない人にとっては、カルチャーショックだろうと思う。

東京では、ちょっと電光掲示板を見るのに立ち止まるだけでも、突き飛ばされかねない勢いで、人の流れが押し寄せてくる。

とはいえ、そうした生活はみなにとって普通で、さっさとする、というのは、都会では普通のことだ。

しかし、最近そうしたリズムとは無関係に平和な生活をしているので、久しぶりだと圧倒される。沢で、今日はすごく水量多いな~という感じに近いのか(笑)?

■ モノあまり

用事は夕方だったため、甲府を昼過ぎに出た。都会は夜型生活なので、あまり早くに出ても、店もやっていないし、最近は都会で欲しい買うべきものもないため、時間がつぶれないのだ。

22680円→10800円 5184円→3628円
欲しいのは、カムで、カムだったら通販で買っても同じ。

あまり行きたい店もなかったので、とりあえず、カラファテに行った。上にパタゴニアのアウトレットがあるので、一か所で2つ見れる。

パタゴニアで、アウトレットのキャプリーン2。カラファテで、冬のクライミング用にズボンをセールで買う。都会は、やっぱり物が安いなぁと思った。

田舎はセール品をゲットする機会には恵まれないけれど、結局吟味して買うことになるので、必要なもの以外買わないことになり、トータルでは良い買い物ができているかもしれない。

なぜか定価で買うと、人は確実に必要なものしか買わないけれど、セールだと、つい、いらないものまで買ってしまう。

でもって 必要以上にある、ということが豊かさなのだから、必要を満たしているだけでは豊かさは実感できない。豊かさとは無駄にあるのだから。

それが豊かさが実感できない理由だが、都会では、豊かすぎて、もう誰もモノをめがけて突進するような状況にはないようで、モノ余り、オーバーストア状態が見て取れた。

日本はお物持ちで、モノ余りだ。今必要になってきているのは、モノではなくサービスなのだが、サービスには価格が付かない。

ので、モノからサービスへの転換が遅れている。

■ 2月は温かい?

驚いたことに、先週の雪は、池袋でも少し残っていた。



八王子に行くと、顕著に残っていた。

大月、上野原、あたりは長靴がいるくらいだいぶ残っている。

暖冬という話だったのに・・・しかし、2月はまた暖冬になるらしい。

今回2回目の南岸低気圧は、降雪ではなく、雨になった。なんだかやだなぁ・・・冬の雨。

今日は降雪の予報だったが、降るのだろうか・・・



Thursday, January 28, 2016

作り上げていく山に必要な山

■ 作り上げていく山に必要な山

ラッセル期待で、谷川方面の山に行く予定があり、前座で八ヶ岳の御小屋尾根に行った。

 御小屋尾根は作り上げていくのに必要な山

だ。

普通は、行きたい山がすでにあり、例えば

 北八つに行くなら、どこをどう歩こう・・・

などとと、発想して、地図を見る。

しかし、一緒に登って行くという相手とは、発想法が異なる。異なる経験値、異なる思想、そういうものを摺合せしなくてはならないからだ。

”いきなり本番の山”ってのは、ない。

(でも、ガイド登山では、いつもいきなり本番で、それはエベレストほどの登山でも同じだそうだ。)

なので、いきなりを避けるために、前座は安全が確保されている、類似した山に行く。

先日は、甲斐駒でガイドさんに会ったが、大きな山へのトレーニング山行と位置付けてあった。小さな山から徐々に大きな山へ、ステップアップして行くという”手続き”や発想は大事なことなのだ。

■ ボトルネック

ところが問題があって、大抵の人が、”作り上げていくのに必要な山”のことは、あんまり分かってくれない、ということ。

どの山も並列なのだ。それは山に行くことが、コレクション感覚になってしまっているからかもしれない。山には大小がある、ということをあまり知らないのかもしれない。

例えば、”本気の沢”は、ロープワークが、あいまいな人とは、一緒には行けない。あいまいな状態で、いきなり本番はないからだ。

だから、易しい沢へ連れて行く。易しい沢は、ロープワークを確認したり、覚えたりするための山だ。つまり、”作り上げていくのに、必要な山”。

でも、そこで、それを理解してくれないと、何回、同じような山に行っても、一向にロープワークを覚えてくれない(汗)

・・・ということで、山は全然ステップアップできない。し、連れて行かれる本人も、ステップアップしない。

登山者の成長に関して、何がボトルネックか?というと、この”理解”の部分ではないのだろうか?

■ 楽しさの中に意味を見出す

・・・ということは、言い換えると、山行の目的は何か?というテーマの理解が足りない、ということだ。

しかし、チクセントミハイという心理学者の本によると、楽しさ、というのは、受け取るというよりも、自分が主体的に関与し、その行為に意味を与えているときに感じるものらしい。

例えば、山とは、自分にとって何か?というようなことだ。

活動の中に、何らかの学びを得たり、自分の成長(肉体だけでなく精神も)を見たり、ということが、愉しさの源泉となるそうだ。

主観的な学びは、どのような活動にもある。例え、いやいやながらする仕事でも、個人的なチャレンジ課題とみなすことができる。

そういう風に、意味を見出すことが楽しみを継続させ、飽きから人を救う。

■ 楽しいだけの山

よく山の本には、楽しいだけの山、と書かれている。 

例えば 山野井泰史さんの『アルピニズムと死』の帯には、”登山ブームは「楽しむだけ」の登山者を産んだ。”とある。

山野井さんはトップクライマーなので、そういう人と自分の山は同じではない、と皆感じるだろう。

だが、山が普通に歩くだけの技術で解決できる山でも、携帯電話が届かない山域であれば、あるけなくなったら、生死がかかってしまう。

だから、登山であるからには、基本的には、同じ覚悟、精神的土台の上にある。危険回避については、自分自身の登山力、山力のUPが欠かせない。

自分自身の登山力をUPしたい、山の総合力を身につけたい。という気持ちがないと、なんでカモシカ山行なんかしなくてはならないの!という発想になってしまうだろう・・・

歩荷山行についても同じで、なんでそんなつらいことをしなくてはならないの!となってしまうだろう。

登山で大事なことは、楽しいだけの山、にしないで、なんらかの意味を見出すことなのだろう。

山を知る、山とお友達になる、ということ。山が要求してくる困難は、山に対して正直であろうと思えば、ただの必要な代償となり、避けるものとはならないはずだ。

喜びがあれば、その後ろには、代償もある。代償を払う気持ちがある人にだけ、喜びがもたらされるのが、山、と言えるのかもしれない。


Wednesday, January 27, 2016

2012年5月29日の日記

■ ツアーか未組織

自分の2012年5月29日の日記を見つけました☆ 今でも同じように感じていますが、今では、すっかり山のために色々なことを後回しにする人(笑)

以前は、登山ツアー(しかも、単なる一般ルートなのに)に、参加しないで、夫と個人山行することを周囲にとがめられ、嫌な思いをしていました。

今では、登山ツアーに入れ、と言ってきた人は、登山者を心配しているのではなく、単純にツアー代金を稼ぎたいだけだったんだな~と分かります。

未組織登山者であることに、後ろめたさを感じてもいました。今では、全然…(笑)。

登山者は、依存的な人、自分で幹事をしたくない人、メンバーとしての責任や役割を担いたくない人、全然クライミングシステムを分かっていないし、分かろうとも思っていない人が分かっている人のおこぼれをもらう場所だ、ということが分かったからです。

この2点が、2012年から、15年にかけて3年間山の世界をつぶさに見てきた人の観察結果です。

ツアー登山には参加する必要はない。

山岳会は高齢化していて、中の人の面倒をみきれない、が正直な感想です。

■ 山中毒

知人が、私の山の写真を見て、山を綺麗だと褒めてくれました☆
うん、綺麗です、山。今私のPCの背景はツルネ山頂から見た、白銀に輝く旭岳…なんて美しいのでしょう!!毎日見てウットリ。溜息をついています(笑) でも、正直に告白すると、実はこんなに美しい雪山も何度も見てしまうと…慣れます(^^;)そして、飽きもします(><) 純粋に美しさだけを求めるならば、ロープウェイで出かける登頂まで1時間弱の北横岳でも充分同様の景色を味わうことができます。

では、なんで何度も山へ行くのは何なんだろう…?そこんところは、実は自分でもうまく説明できません。

ただ…しばらく山に行かないと…とっても、そわそわしてくるのです。 山切れと呼んでいます。それはバレエを習っていた頃、週に3,4回のレッスンが週に1回に減っただけでイライラしてくるのと少し似ています。

ところが、山に行けば行ったで、行く前はあれほど山に行きたい!モードだったのに、あっけなく「疲れた」などと言っています(汗)。 一番ルンルン、ウキウキしているのは、今から山に登ろう!という早朝かもしれません。

朝まだ薄暗い中で…お山が太陽の光を受けて、金色に輝く…と単純に「なんて世界は美しいんだ!」と思います。

そうすると…登山口では気分は盛り上がっています。そそくさと登山道へ。一歩ごとにわくわく。どんな景色が見れるんだろうな!そんな気分です。これは別に上ったことがある山でも問題ないようです。でもこれって、朝の散策でもそう思うんです。登りってつらいんですが、楽しさで打ち消されます。

ただ...お空は気分屋で、なんだか様子がおかしいぞと、途中で雲のなかに隠れてしまった山頂方面を見ると、とたんに不安になります。

そんなときは、鳥はどうしてるか、ほかに登山者はいるか、風はどうか?と何かしら予兆はないか…このまま進んで大丈夫なのか?疑念はそれだけです。五感をフルに働かせ(ってさび付いて働かないのですが)判断します。

たまに降りてくる人などがいたりして、今日は上はダメだよ、など言われたら…行って自分の目で見てみたいような気もしつつ…どこでその判断を下すかを「じゃ、○○まで」と暫定ゴールを決め、そこで判断、お山の様子をみつつ下山するか登るか決めます。

風が強い、雨が降りそう、ガスが出た、お腹が空いた、体調が悪い…原因は色々ですがどっちにしても判断。判断しないのも判断。その判断が面白いんだなぁと思う。 帰ったらその判断がどう出たのか、山レコなどで見ます。無理して登って意外にも晴れた山頂に恵まれた人がいたり、やっぱり下山してよかったなという結果だったり。

自分とお山との駆け引きって感じです。これは他の活動にはなかった?いやあったかな。たいてい、バレエやスポーツジム通い、など、運動系の習い事は、疲れてやる気が起きなくてもやったほうが結果的に気分が良いものです。それと似ています。

ただ、お山はどんなときでも行ったほうが良いかというと違うな…と。ひたすら惨めな気分で帰る羽目になることもあるようです。(まだ経験していませんが。登って損した気分程度ならあります)

■ コンテクスト&シンクロニシティ重視

有名なセリフに 「そこに山があるから」というのがあります。

あれはクライマーのセリフなのかな?高いところに登りたいから登っているわけじゃないので自己への挑戦である高名な登山家や記録の樹立を求める冒険家のもつ登山衝動とごく普通の人たちが山に行きたがる登山衝動は同じレベルで扱うのには無理がありすぎるような気がします。

別に命を掛けたいわけじゃない。ちょっとその先の道がどうなっているか知りたいだけってのは近い。

山の先輩が言っていたのは「山無しでは生きられない」。

私は山に今行きたいけれども、山無しになっても、都会でなら生きれると思います。他に楽しいことが一杯。山に行かなかったら海に。海でなければ湖に行きます。実際サンフランシスコでは夕方に海岸を歩いていました。

たぶん一般登山者は、わあ~ 人間ってちっちゃい~ 山って大きい~、星ってホントはこんなにキレイ~ という”感動”が欲しいだけなのかも??? それは感動がない毎日を乗り切る潤滑油みたいなものです。だから毎日が感動続きの子供には要らない。そして、その感動には中毒傾向があるのかも?特に人生後半の人にとって?

人生なんて死ぬまでの時間つぶしともいえます。人類の歴史に残る偉人や賢人も生前に偉人や賢人であったかというとそうでもない。ヴァンゴッホの絵は死後再評価されました。ジーザス・クライストは十字架に掛けられました。それでも地球は丸いといった人もいたし、生きたまま火あぶりの刑に処されたのはジャンヌダルクです。世界は誤解と糾弾と困難で満ちています。でも、今立っている足元を見れば、人間でいるのもそんなに悪いことでも有りません。ドッグアンドキャットアワーといえば、癒しの時間の定番ですが、日本人の場合は山時間なのかもしれません。


人間なんて、飢えない程度に食べれて、安全な場所で寝れて、お隣に愛する人がいれば、もう9割オッケー!そんなことを確認したいだけなのかもしれません。

本当に困難な目にあったことがあれば…死ぬほどのことがあったなら、生きているだけで万事OKです。あとのことは全部瑣末なこと。

いくら大きな財を成してもお浄土には持っていけないし、いくら有名になっても天国では有名人特等席はなさそうです。健康に気をつけ長生きしたところで、そもそも毎日が幸せでなくては長生き自体が苦痛です。いまどきは死ぬリスクより深刻なのはウッカリ生きてしまうリスクです…

結局、今、この瞬間に心を留め置く…そして生きていることの幸せを感じる。味わう。そういうシンプルなことが里でできないから山にいく。そういうことが大事だと山に行けば思う。だから人は山に行くんだと思うのですが…旅に行く人も同じであると思います。

でも、確かにそれだけでは、なぜツルネ東稜が今年一番のベスト山行だったのか説明できませんね。

うーん…短く言うと、ツルネ東稜、あれはお山が私を呼んでいたから。

厳密にいうと、そこには文脈の介在が大きいのです。コンテクスト=話の流れ。

偶然の重なり…です。たまたま入ってみたレストランで出合った初老のオーナーと山の友達に。お山の話。借りてきた古い雑誌の記事。ガイドさんが貸してくれた古い山の本。そこに見つけた、前に興味をもって読んだ本を書いた著者の名。行きたい場所と連れて行きたい場所の偶然の一致。偶然にもその前の山で同じ日、同じ時間帯に登っていた人。

あれやこれやの偶然の糸が手繰り寄せた山行。これで仮に、その日曇りだったらどういうことでしょう。

そんなに気分は盛り上がらなかったでしょう。山は山、やっぱりしんどいな、で終わったかもしれません。

でも、まれに見るほどの大晴天だったのです。お山が呼んでる!と完全なる誤解をしても許されます(笑)

考えてみると1年に一度、そういう風にお山がこっちにいらっしゃいと呼んでくれているようです。

去年は、震災前1週間に登った山で若いガイドさんと出会いました。すっかり意気投合して夜中まで話し込みました。その方がいなければ、今年雪山に登るのに、雪山訓練を受ける必要は感じなかったでしょう。

だって雪山の景色はいつも同じように美しいので、我々としてはお飾りピッケルで充分の冬天狗に毎年登れれば満足だ、とさえ思っていたのです。そもそも美しい景色を人参にして登っていたので。
ところが、今年連れて行ってくれた山はバリエーションルートでした。トレースがない山を登る。トレース追従限定登山からの脱却は、要するにルール主義から原則主義への脱皮です。ただ人の歩いた跡を辿る山から、自分で道を発見して登る山へ。地図にある道を行く山から尾根を見る山へ。2Dの山から3Dの山へ。人参は美しい景色だけではなくなりました。

新しいにんじんが出てくる=新たな山脈です。今まで登っていた山はソフトウェア業界という山脈でしたが別にキャリア縦走ではなくても、どんな山だって登っていればどこかへつくでしょう。

■ 読了 『単独行』 加藤文太郎

そういう時期に『単独行』を読むことになったのも、なんらかのシンクロニシティかもしれません。

山の世界では有名すぎる加藤さんが感じていた単独で山に行くことへの後ろめたさは、時代が変わっても同じだと言うことが分かりました。

ただ私が感じさせられていた煩さは、一抹の胡散臭さを伴っていました。山岳会などのパーティでないことを未組織登山者と呼ぶのですが、未組織登山者は一般に肩身が狭いです。でも、一般の人が一般の観光で登る山に観光的に入ること、つまりツアーに参加しないこと、に今では、昔加藤さんが受けたのと同じような「無謀」のそしりを感じさせられているのには、なんとなく納得が行きません(^^;)自立していないのはどっちなのか?ツアーに参加しないからって無謀とは限らないでしょう。

最近、岩場のこなし方講習会などのお知らせをもらいましたが…一応、行きたいと思っている場所には刃渡りとかいって岩の連なりが多少あるようなのですが…こんな講習に出ないと通行できない場所なのかどうか、よく分かりません。

その分かりにくいぼわっとした部分は格好の商機となって安全志向の人にツアー登山を促しているようです。

でも、一般ルートというのは山岳部などの技術がない人でも歩けるところです。じゃあ何のために連れて行ってもらうのか?荷物もち?地図代わり?なんとなくそれって失礼ではないか?添乗員?

なんとなく、海外でパッケージツアーに行ってどこそこに行ったことがある、という気になってしまう愚と同じ傾向を感じないでも有りません。一番面白いところをお金を出してやってもらうなんて。

…というわけで私はこの本を読んだことで個人山行に更なる自信を深めました。

1人で行けないところには行ける日が来るまで行かなくていい。難しいところに無理して行かなくてもちゃんとお山はお話してくれます。実力以上のところに行きたいのは見栄なのかもしれませんし。

むしろ、充実した山行でもっとも重要なことは、コンテクストの成立まで待つこと…そのことが充実にとっては欠くべからざる最大のイングレディエントではないか?と思いました。平たく言うと出会い。

来るべき時に来るべき山に登れる。それも含めてちゃんとお山が計らってくれるのでしょう。

登れる山は自分で。技術と知識には対価を。そんな感じです。

Monday, January 25, 2016

三浦さんもアレックス君も自然食

■ 環境のことを考えて食べるものを選ぶという生き方 

今日は、フリーソロで有名な、アレックス・オノルド君のFBでシェアが回ってきた。

シェアされていたのは、こちらのページ。

正しく食べて、世界を救おう!という記事。

何を食べろと言っているかと言うと・・・

 ・魚は収穫量に注意すべし (乱獲が海の荒廃につながる)

 ・ヴィーガンでも、罪がないわけではない

 ・オーガニック(無農薬野菜)を食べよう

 ・地元のものを食べよう!

 ・食べ物を捨てない

アレックス君は、フリークライマーなら知らない人がいない有名人ですが、山登りの人は知らないかもしれませんね~。

環境のことを考えて、食べ物をチョイスしているそうです。 大賛成!

山に登る人なら、環境問題は、きちんと向き合っていたいもの。 

マグロなどの高級魚は、食物連鎖の上の方にいる魚なので、乱獲は環境へのインパクトが大きいです。たべるなら、いわしなどのほうが栄養的にもおススメです。

※ ヴィーガンは、卵、乳製品も取らない菜食。私は卵・乳製品は取る、ラクトオボベジタリアンを実践しています。ヴィーガン食は出しも植物性なので、コンソメを使うとベジタリアンでなくなりますが、私はそこまではしていません。(家にはコンソメないけど)

■ 三浦雄一郎

この本を読むまで、三浦雄一郎さんは、中高年の無謀に拍車をかけていそうで、微妙な存在だと思っていました。

しかし、この本の中の対談はおススメです。大変読みやすい文章です。

 ・エベレストの氷は8700mでどんどん溶けている (グリーンハウスエフェクトの表れ)

 ・クーンブ氷河で気温は+58℃ (甲府で40℃以上で真夏日っていう程度ではない)

 ・家坂方式で、心臓手術をした

 ・後は死ねばいいだけ(エベレストは巨大な墓と思えばいい)

 ・呼吸は吐く

 ・ウッズ、フォレスト、テリトリーオブゴッド

 ・8848mでは、60°で水が沸騰する =血液が沸騰するまで20度程度の差しかない

 ・アンチエージングには、登りより下り (実証実験で下りが効果があったそうだ)

 ・食事は自然食

 ・玄米菜食 海藻を食べる

 ・運動は一日一回汗をかく

 ・下り =白筋
 ・登り =脂肪燃焼

 ・糖尿病の治療には下り

 ・遺伝子の優位性はなかった(笑)、人は後天的要素がほとんど

三浦さんがエベレストに挑戦したことで、中高年は励まされていると思いますし、そのこと自体は喜ばしいですが、それは、きちんとしたトレーニングや安全監視対策の下で、のことです。

自分の経済ペース(マイペース)を知らないで、どれくらいの山ならくたびれずに登れるか知らない人がいきなり、難しい山に行くのは、チャレンジではなく、無謀ですので、辞めましょう。





Sunday, January 24, 2016

登山の安全とは何か?

■ 何のために登るのか?

イケイケ登山と称されて、喜ぶ人はいない。

一方、ポジティブシンキングを歓迎しない人はいない。

ポジティブシンキングと言えば、楽観主義だが、状況が楽観できないときに楽観することは、危機感がない、と称される。

和を尊ばない人はいない。 一方で、安全を尊ばない人もいない。

安全と和が、対立構造にある時、どちらを取るのか?

急いで歩かなければ日が暮れますという時に、楽観視して、疲れているのだからと和を尊べば、本当にもうワンビバークになってしまうのだが、そこら辺はとても線引きが難しい。

ホワイトアウトしたGWの仙丈ヶ岳で、夫に走れ!と言ったけれど、それは夫ともちろんいじめるためではない。ホワイトアウトから逃げることができれば、別になんてことがない登山が、掴まれば、九死に一生のビバーク体験になってしまうかもしれなかったからだった・・・。

彼にはそのような”隠れたリスク”を読み取る能力がなかったし、”そのリスクから逃げるために自分の下山スキルを磨く意識”もなかったので、それ以後、そこに彼と行きたかったのは、私自身のエゴに過ぎないと反省し、彼とはGW仙丈ヶ岳レベルの山に行くことはあきらめ、一般ルートで小屋が空いているところしか行っていない。

命を懸けるほど、山が素晴らしいのかというとちょっと疑問だ。

それよりも、登山をすることで、何が得られるのか?と言うことを考えるほうが良い。

■ 健康

登山をする人の第一義的な動機は健康ではないだろうか?

ところが、健康を目的にした趣味で健康を害す人はけっこう多い。ヨガもそうなのだが、頑張りすぎて、整骨院のお世話になるようになったら、頑張りすぎ、というより、本末転倒だ。

本末転倒してしまってはいけない。

健康のための登山と言うことを考えると、おのずと、狙えるサイズは決まってくる。

1)心拍数をあげずにゆとりを持って歩けるペースを発見する

2)そのペースで一日8時間、歩ける距離を出す。標高差も。山のサイズが決まる。

3)そのサイズの山に登る。

4)その山が楽に登れるようになってきたら、その上のサイズの山にチャレンジする。

・時間のかかりすぎは実力不足を示している

時間のかかりすぎは実力不足を示している、というのは、何も40代の山初心者が本チャンの北岳バットレスに挑むときだけに適用されることではありません。

・山には順序と言うものがある

ということも、大人になって登山を始めた人には特に心しておかねばならない注意事項だと思えます。

誰それさんが行っているから行きたくなるのは、山に魅かれているのではなく、隣の子が持っているおもちゃが欲しくなるのと同じ原理です。しばらくすれば忘れる程度の欲望です。

登山で大事なことは、

 ・万全の準備を怠らず (計画時は強気)

 ・実行時には、引き返す、計画縮小する、勇気を持つ(実行時は弱気)

ということです。

■ 予備能力

予備能力(いざとなった時に持ちこたえる能力)は、20代で平時の4倍、40代で2倍、60代になるとゼロと言われています。

つまり、(いざという時)を避けることの重要性は、60代ではもっとも厳しく、40代の倍、20代の4倍、厳しく(いざという時)を避けなくてはなりません。

一度の(いざという時)が、(最後の時)になってしまう確率は、20代の4倍にもいたる、ということなのです。

ホームベースの山の考察

■ホームベースの山の条件

登山者にはホームベースの山が必要だ。毎回北アにばかり行くわけにもいかない。日本アルプスのような大きな山に行くには、予行演習の山が必要だ。

さて、ホームベースの山としては、どのような山が良いだろうか?

・アプローチ至便の山
・思いついたらすぐ行ける山
・近い山
・登路が色々ある山
・携帯が入る山
・色々な楽しみ方がある山
・ベースとなる場所と水場
・集落が麓にある
・コストが掛からない
・サイズが適度(コースタイム)
・山の難しさが適度 

これに加えて、山そのものが自然の魅力にあふれていたら、素晴らしい山だろう。

まずはアプローチ。冬季に封鎖にならない山であることが望ましい。渋滞を心配しなくて良い山、ということもプラスだ。

思いついたらすぐ行ける、ということの要素に、近さがある。物理的な近さより、車で行く場合は所要時間が問題で、アプローチに1時間程度、というのが手軽だ。

また携帯が入る、ということは単独でトレーニングに行くことを考えると重要だ。

山にはコースがいくつかあることが普通だが、いくつか登路があればなお良い。

色々な楽しみがある、とは、岩もあり、沢もある、というようなことで、例えば三つ峠は岩のゲレンデだが、ハイキングの山でもあり、アイスのゲレンデでもある。クライミングは相手が必要なのでトレーニングの山にはなくても構わないが、沢はふつうどんな山にもあるし、その沢が面白い沢であればうれしい。また展望や草原、湿原、など森以外の要素が豊かだとうれしい。誰だって檜の植林だけの山には魅力は感じられないだろう。

ベースは有人無人どちらでも…避難小屋程度があれば助かる。心の安心があるし、無人小屋なら、ビバークサイトとなり、ビバーク用品を多少省くこともできる。

麓に集落があるか、有人で通年営業しているところがあれば、万が一の場合も、通報がスムーズだ。

コストは、交通費+駐車料金。八ヶ岳の権現に通った理由の一つは、赤岳と比べて駐車料金無料という点があった(笑)。

コースタイムは重要ではない。ピークハントが目的でなければ、時間で切って戻ればよいからだ。

山のむずかしさについて言うと、登山道はむしろ整備されているほうが良いだろう。不必要に地図読みが必要だったり、岩登りが必要だったりしてしまうと集中ができない。ただ遊歩道でも困る。適度に斜度があり、適度に心拍数をあげてくれないと困る。

■ 候補

これらの要素を考えると

・茅ヶ岳 盛夏以外 アプローチ1時間 登山3時間程度
・三つ峠 盛夏以外 アプローチ40分 登山2時間程度
・西岳  秋    アプローチ1時間半 登山4時間程度

が、今までトレーニングの山。



Saturday, January 23, 2016

阿弥陀岳 御小屋尾根

■ラッセルの山 御小屋尾根

今日は御小屋尾根にいってきた。谷川方面のラッセル山行の前座としての御小屋尾根。


御小屋尾根は、基本的にマイナールート。歩く人がとても少なく、歩いたとしても、別のルートの下山路に使われることが多い。しかし、そのおかげで踏まれていない可能性がある。入山者の必ずいる赤岳方面とは異なり、降雪直後はラッセルを期待できる

今回は、火曜の降雪のあと、一週間続けて降雪があり、しかも気温が終始低かったので、ふかふかのパウダーの可能性もあった。

阿弥陀岳は冬の山。阿弥陀岳がバリエーションの山だから、だ。良く知られているだけでも、

 阿弥陀北陵(ほとんど歩きの為入門)、 
 阿弥陀南陵(一般ルート化してしまったバリエーションと言われている)、
 阿弥陀北西稜、
 阿弥陀中央稜(広河原沢中央稜(中尾根))、

そして、もっとも易しい御小屋尾根がある。

御小屋尾根は山頂付近の一か所以外は取り立てて危険な所がない。マイナールートの為、あまり人が入らず、降雪後はラッセルが期待できる。

今回は、ラッセル山行の前座が主要な目的なので、ラッセル期待ができる、身近な山域のルートということで御小屋尾根になった。

また数多い阿弥陀のバリエーションに今後行きたい気持ちがあるならば、阿弥陀の山頂から、それぞれの下降ルートがどのように派生しているのか?ということは、押さえておきたいポイントだ。

なぜならルートに登れても、山頂からの下りでルートミスし、それが遭難につながってしまう事故も多く起きているからだ。

阿弥陀北陵は、ルートガイドには「ルートファインディングも熟達してから登れ」と書かれていた。一般にルートファインディングは、登りより下りが難しい。尾根の下りは、何度やっても難しい。

■ 計画のマイナーチェンジ

今年は暖冬で、アイスも発達しないと思っていたら、寡雪でアイスは、100年に一度のバーゲンとなった。と思っていたら、今度は南岸低気圧で、里でも雪

八ヶ岳では、40cmの降雪で、やっと雪で覆われた本来の冬山の姿になったらしい・・・と思ったら、ずっと冷えつづけ、雪は焼結している暇がないのではないか?と思われた。

今回は、里でも大雪になった時点で、道路状況が心配された。雪もだが、凍結がスリップ事故を招く。

というわけで、登山口集合は、没。車が核心化する可能性があるため、道の駅集合とする。

道の駅集合としたものの、車3台分のうち、四駆&スタッドレス&チェーン装備ありは、1台のみ。メンバー6人が全員乗れる車は、ない。

ということで、より雪道走行の確実性が期待できる、美濃戸口への登山口変更。美濃戸口は、バスが入るので、除雪されているだろうから、除雪が間に合わない降雪以外は、チェーンは不要だろうと予測できた。

これは、正解だった。ただメンバーは2名、朝の時点で脱落。帰りを気にしたためだ。

■ 記録的寒気の日を避ける

美濃戸口へ変更したものの・・・さらに問題は続く。山行予定日の翌日のお天気が大荒れ40年に一度の寒波。

八ヶ岳では、マイナス17°の低温は珍しいことではない。が、やっぱり、マイナス36度の寒気が入ると、ものすごく寒い。ー36度の寒気が入った時に、アイスをしたら、冬靴なのに、つま先が黒くなった。

というわけで、万が一が許されない。こんな日にソロで行って、万が一の転落が起きたら、他の日なら助かるものも、助からない。

普通の気温だったら、例え、転滑落や道迷いなど不慮の事故で、ビバークとなっても、一晩くらいは我慢できるかも?と思う面もある(それでも、ツエルトやダウン上下、コンロは持っている前提)が、マイナス36度の寒気が入る日では、そんな羽目には、120%陥りたくない。普段だって、ビバークに、ならない努力はするが、今回はより一層。

しかも、本番の山の前座として、メンバーと意識合わせが目的になっている山行だ。

というわけで、天気の崩れるポイントは?というと、午後から崩れる予報。翌日は記録的寒波。午後、風雪の予報の段階で、森林限界を超える稜線歩きはない、と予想できた。

午後から降雪の予報が出ていたので、午後登頂は絶対にない。 前回は、11時にピークアウトしていたので、足が強ければ、11時トップアウト可能だが、ラッセルしながらでは無理だろう。

正午には下りに差し掛かっていないといけない。ということで、登頂期待は薄く、11時に折り返し決定。

結果、6:30出発、11時折り返しの予定だ。 実際は予想どおり、出発準備に手間取り、7時出発となった。

前回、御小屋尾根より時間のかかる、中央稜で、11時トップアウトだった。使える時間が4時間半だと、山頂手前で引き返してくる計算になる。

ので、結果としては、予想通りの展開になり、森林限界を超える手前で、11時の時間切れとなり、Uターンして、下山、12時半ごろ、安全圏到着となった。

下りは、御小屋尾根ではなく、美濃戸方面へのマイナー道を下った。同じ道より、変化があるほうが愉しめる。それくらいの贅沢は、樹林帯の中で、トレースもしっかりあるので可能だった。

この道は、2万5千の地図には、記載がないが、南沢のすぐ近くの開始部に降りれる。かなりでより早く下れた。下りだったので、スピードはかなりUPした。

■ 寒い朝

土曜の山は、仕事明け。正直、早起きが大変だ。だが、そんなことに注文を付けることができる自由は持っていないと思っている。

金曜の夜に仕事を済ませて、帰宅すると、夫が熱を出して寝込んでいた。これでは山は無理だ。

いつも一緒に寝ているが、夫とは別に寝ないと風邪がうつってしまうため、自宅なのにシュラフにもぐりこんで就寝・・・。よく寝れない。睡眠不足だが、山ではいつも睡眠不足なので問題はない。3時半に起きて、4時半に出発する。

今回は2名初心者を連れて行くので、余分なギアが入っている。念のため、人の分のオーバーミトンや替えソックスも入れてある。

朝、真っ暗い中、道の駅に着くと、結構、車が多い。この寒空の下、Pキャンしている人たちさえ、いるようだった。同行者は車中泊だが、とても寒かったと言っていた。

20号は凍結はしておらず、快適に飛ばし、いつも通りの時間で到着。慣れた道だ。向かうすがら、とても美しい月が、南アの上に見えた。大きな満月で、まるで、かるたの絵柄のようだった。

友人と落合い、私の車1台に乗り合わせ、美濃戸口へ。友人の車はバンで車中泊はできるが、四駆ではない。鉢巻道路が走れるのは確認済みだったが、朝の凍結でタイヤが轍に取られそうになる。

美濃戸口までも、快適走行で問題なし。だが、途中は何台か抜かれる。でも、雪道でスリップするより、抜かれた方が良い。

美濃戸口に着くと、近いほうの上の駐車場はいっぱいだったので、下の駐車場へ停めるが、数台だった。

最近、美濃戸口にオシャレなカフェが出来て、飲食すると、駐車が無料になるらしいのだが、どうやって飲食する予定だと分かるのだろう・・・

一応、御小屋尾根登山口付近まで、入れるところまで入ってみるが、駐車場へ戻り、500円支払う。

登山開始は、結局7時。乗り合わせや、支度にも、アレコレと時間がかかるものだ。

登山道は最初は一人分のトレースがあったが、吸収されていく先は別荘だった。

まっさらなノートレースの雪原になっている林道へ入る。雪は意外にたっぷりあったので、駐車場でワカンを置いて出たことが悔やまれる。

しかし、トータルで見ると、ワカンがいるほどの積雪量でもなく、積雪量は、すね程度。雪は、ふかふかで、フリクションがあまりなく、歩きづらい。

どんどんと登山道らしくなるが、前にあるのは人間のトレースではなく、鹿のトレースだった。急な個所では、犬かき状態になる。

枝に積もった雪が跳ねて、ザックに雪を降らせる。

御小屋尾根の分岐まで、2時間。1時間半で予定していたが、今年は寡雪で夏道コースタイムで予定していたので、ラッセルになったら、まぁ普通かなと思われた。

■ 協力してラッセル

さらに進んでいると、後続が。単独者だった。モンベルの赤ジャケットに、手首の長い手袋が好感が持てる。休憩中に先頭を入れ替わる。前には、トレースがないが、先に行ってもらう。ザックを見るとワカンとヘルメットがぶら下がっている。ヘルメットということは、他のルートの転進か。

誰かのトレースがあるだけで、ルートファインディングをしなくていいので、楽になり、先に行った人は早いね~と、皆で感心して、ありがたくトレースをたどる。

しかし、そのうちに追いついてしまう。ずっとラッセル泥棒をするのは悪いので、1パーティで一緒にラッセルしませんかと持ちかける。快諾。

あいよ、ということで、今までの労をねぎらう意味で、最後尾に入ってもらうが、当パーティの20代の若手が疲れているようで遅い。一番楽な最後尾を、20代に渡してもらう。

結局、そのお兄さんがパーティ全体の中で、もっとも脚の強い人だったので、先頭を登ってもらう。次につらいセカンドは私が登る。

御小屋尾根山頂では、南沢方面からのトレースが付いていた。お兄さんはこの道はどこへ続く道か知らなかったようだ。たしかに2万5千の地形図には載っていない。マイナー道で知られている。

途中、雪がついた樹林帯がとてもキレイだ。景色を眺めながら、おしゃべりしつつ、ラッセルするのもまた、楽しい。

先頭を歩いてくれたお兄さんは、しっかり冬山の定番装備を身に着けていたので、なんとなく、きちんとした山ヤ教育を受けた人なのだろうな~という気がする。

聞くと、超有名山岳会の人だった。中央稜を登りに来たそうだった。転進で御小屋尾根。

しばらくお兄さんと歩いていたら、だんだん、後続が離れて行ってしまう。なんだかデジャブー感がある光景だ。講師と歩いていたら、段々講習仲間が外れていってしまった・・・という。

お兄さんと話が合い、行くべき沢や互いに行ったことがある沢の話・・・

「何時に降りるのですか?」と聞かれる。
「11時です」 と答えると
「やっぱりそうですよね」 との答え。

という会話をする。今日は午後から悪く、降雪の予定なので、風雪につかまる前に山を下りるのが常識的な安全対策、と思われた。

阿弥陀山頂部が見えてきたが、既に風雪の様相・・・「この風雪だと、もう稜線はないからね」というと、自分のパーティのメンバーは意外そうな顔をするが、先頭のお兄さんはうん、そうねと納得顔だった。すでに横殴りの風雪。

森林限界以上は、風速プラス気温が体感温度。-17°プラス 風速11mで、-28°。だから、普通の風程度で、八ヶ岳としては普通の低温でも、稜線は警戒が必要だし、すでに山頂付近はグレーっぽかった。

急な個所が終わったところで、一本入れ、後続を待つ。軽く何かを口にし、お湯などを飲み、時計を見やると、あれ?!もう10:44を指している・・・ということで、最後の1ピッチをトップで登るが、ひと登りで11時。

時間切れ。

「阿弥陀って、こういう山でしたっけ」と言われるが、たしかにな~と思う。なんだか、下りに使った時のイメージしかなく、今日の御小屋尾根の登りは、なんだか前に歩いたときとは、印象が全然ちがった。

折り返し地点で記念写真を撮ってもらう。予想以上に良いところまで進めた。

帰りは、引き留めては悪いので、別パーティで下り、我々は写真を取りながら下る。御小屋山山頂で、登りとは違う、南沢ルートへ進路を取る。

一般ルートに近いほうが、エスケープとしての価値が高いからだ。知っておくべきルートと言う感じ。ピンクテープがしっかりあり、トレースもばっちりだった。

先頭を行くが、後続が離れてしまい、見えない。仕方がないので、最初の分岐で待つ。雪の下りは、危険個所がなければ、シリセードや滑りも使えるので、早い。後続は雪にはなれておらず、だいぶ待つ。

最後は、徒渉を経て、南沢に合流。美濃戸口までの林道はのんびりと、しゃべりながら歩いたが、それでも下山は午後の早い時間内だった。14時ごろ、下山。

帰宅は16時を回る前。悪天候からしっかり逃げ切りつつ、目的のラッセルもでき、初のお目付け役のいない山行も貫徹で来た良いラッセル山行だった。おにいさんにも会えたし。

心地よい疲れが、充実感だ。帰りは七里岩ラインを使ったが、降雪は里ではまだだったし、除雪が行き届いており、快適だった。

≪今回のまとめ≫
            予想     実際
・天候予想     普通 → 40年に一度の寒波
・降雪量予想    寡雪  → 40cmプラス1週間分
・集合        登山口集合 → 安全圏内の道の駅集合
・登山口      マイナー除雪期待薄 → メジャー除雪期待濃厚
・タイムリミット  13時→11時

・ギア  ワカン  用意せず → 一応用意

≪参考コースタイム≫
5:45 集合 (6:30登山口出発予定)

登りトータル4時間  7:00出発  11時 標高2296付近で下山開始

下山トータル2時間半
11:43 御小屋山分岐 12:30 南沢合流点 12:42 美濃戸 13:20 美濃戸口


 御小屋尾根らしい、目印。このお札の束が随所にある。

御小屋山まではノートレースだった。
 標高をあげるとこんな感じ。八ヶ岳らしい冬景色だ。
 鹿のトレースしかなかったが、美濃戸(南沢)から、入った足跡がその先は続いていた。がっかり。
 森林限界間際。

暴風の日に森林限界以上には行きたくありません。

-17°とこの日は八ヶ岳としては普通の日でしたが、風速11mであっても、足すと

-17° + 11 =体感温度 -28°

です。

八ヶ岳の核心は、気象であると、遭難事例から学びましょう。

ちなみに樹林帯ではインナー手袋しかしていませんでしたが、このあたりでインナー手袋は凍り付きました。

御小屋山が見えていますね。阿弥陀方面は何も見えませんでした。
 最後は徒渉。
 もう下山。

&Nというオーベルジェが出来ていた。

入浴 300円なのだとか!やす~ お食事して帰るとお得ですね~
メニュー おいしそうです!

宿泊は4800円だそうです。山ヤ感覚では高いが、都会感覚では安い!

Thursday, January 21, 2016

我々の世代は貧しい

■ 選べない国で僕たちは・・・

最近、『選べない国で不惑を前に僕たちは・・・』と題する文章を読んだ。非常に共感する文章だった。作家の中村文則さんの事は、全く知らなかったので、この作家に興味がわいた。

日本では世代間の格差がとても大きくなっている。

高度経済成長期の基準で生活を成り立たせてきた人と、バブル崩壊以降に生活基盤を作らなくてはならなくなった若者の間には、世代間格差が広がっている。持てる者と持たざる者。

経済的な格差が広がった結果、若い人は職にあぶれ、ワーキングプアが広がっている。

■ ”幸福”とされた先にあったもの・・・

人の”幸福”とは、何に因るのだろうか?

 ・安全
 ・健康
 ・セックスをする
 ・うまい食べ物を食べ、快適に暮らす

 ・豊かになる
 ・名声
 
上記は、本能に支配された身体的欲求だから、人間であれば、だれでも望むものだ。

とはいえ、現代では、こうしたことは、特に日本では、すでにほとんどの人について、満たされてしまっている。人間の歴史を見ると、これ以上ないくらい、これらの欲求が満たされている時代に、みな生まれているからだ。

現代ほど、平均寿命が長かった時代はない。

その一方で、死を身近に感じているはずの、病人同士でさえ、ただチューブにつながれて生きながらえるだけが、人間の幸福ではないと主張する。老いた人でさえ、ただ長く生きるだけが幸福ではないと言う。

セックスについても同じで、現代ほど性が解放された時代はない。ちまたには、手軽に欲求をみたすための情報があふれている。

奔放なセックスライフの結果は、必ずしも”子だくさん”ということにはならないが、”子”は、必ずセックスの結果である。

しかし、長寿や健康と同じで、子孫繁栄と言う本能が欲求する”欲”に対する”成功”を収めたはずの人も、逆にそれは、周囲の人に同情されるべき”苦”であって、”幸福でないと主張する人が多い。

一つにはそのような幸福を獲得した世代の人たちが、様々な愚痴で、一様にそもそもあまり幸福そうでなく、見習ってはいけないお手本になってしまっている。”人生の先輩”が、妻の愚痴、夫の愚痴ばかりであればあるほど、子供たちは結婚とは幸せではなく、人生の墓場なのだ、と思うようになるだろう。

みな、求めるものを得たのではなかったのか? 人間の幸福とは難しいものだ。

余談だが、「子どもが経済的に負担だ」と親がいうのを聞かされて育った子どもは、「自分のせいで親が苦しんでいる」と思うだろう・・・。少なくとも私自身はそうだった。しかるに、子だくさんを不幸の種とみなしている人を見ると、その子供たちに深く同情する。

さて、話を本題に戻そう。

うまいものを喰う、はどうだろう? 

現代は”飽食の時代”と言われて、すでに ん十年が経ち、飽食の結果、多くの人が、生活習慣病を患うという結果になった。癌、糖尿病、メタボ、などだ。

もっとも多くの人が追い求める、経済的成功だが、現代人は、かつて王侯貴族しか望みえなかった充足を手にしているにもかかわらず、あれを手に入れれば、次には別のものが欲しくなり、稼げば稼ぐほど出費が増える構造にある限り、どこにも充足がない。

そのことに気が付いた人から順に、現在では、逆にシンプルに生きることを選択し始めている。

名声も古今東西多くの人が求めた”幸福”の形だ。名声を得れば、幸福になれると考えた多くの人が名声の獲得に成功しても、やはり幸福にはなれないでいるようだ。

何のために働き、何のために名声を追いかけるのか?幸福とされたことは、みな現代では、逆噴射している感じだ。

良き生活というのは、はて?と考えると、ことさら追い求めなくても、基本的にすべて満たされている。人は、生活のために働かなくてはいけない。

けれど、その生活を振り返ると、働き続けなくてはならなくなったのは、自分の消費が拡大したため、だったりするのだ。

トレッドミルの上をどれだけ速く走っても、どこにも辿りつかないのと同じことになってしまう。 

■ 嫉妬 と 選択

では、幸福というポジティブを追いかけるのではなくて、逆にネガティブを排除する作戦はどうだろうか?

不安や不満・・・

山に向かうとき、人は不安に駆られる・・・ 雨が降るのでは?夜になってしまうのでは?滑落するのでは?怪我をするのでは?

そこで、天気予報を調べ、ヘッドライトを用意し、救急セットを入れる。

つまり、不安に対する処方箋は、具体的な行動だ。何が不安を搔きたてるのかを突き止め、あらかじめ備える。

山靴も買ったが足に合わない。それは不満となるだろう。そうなれば、次はそうでないものを買うだろう。不満も解消手段があるのだ。

不安も不満も具体的な行動のみが解消する。

ちなみに、海外では、不安と不満は時間の無駄と言われている。両方とも具体的な行動で対処できるからだ。

では、嫉妬はどうだろうか?

羨ましい、ということは、自分もそうすべきだ、という意味だと思う。人の感情の中のネガティブなもののうち、嫉妬は、とくに排除が難しいものようである。私自身嫉妬から自由であるとは思えない。

毎日山に登っている人が羨ましいとする。では、自分も毎日山に登れるライフスタイルを模索すべきだろう。

例えば、アルバイトをするのはどうだろう?そうすれば、豊かではなくとも、毎日山に登れるだろう。

しかし、今手にしている有利な職業を手放したくない、それは痛みが大きすぎる、とすれば、それはその人の選択でしかなくなる。

人生は選択の連続だ。

リンゴを収穫したければ、リンゴの種を撒かないといけない。

■ 幸・不幸は何で決まるのか?

そう考えると、そもそも、嫉妬しているのかどうか、自体が怪しくなる。

何かを得れば、何かが得られないのが普通のことだ。であるからには、人は、結局、自分自身がもっとも幸福であると感じられる選択をしているものだ、と思う。

多くを望まなければ、生活の喜びは身近にいくつもある、と思う。

大雪の日に、雪をよろこんで裏山にでかけるのに、いくらもかからない。雪にブツクサ言ってこたつで丸くなるのにも、いくらもかからない。

幸・不幸は、ものごとの見方が決める。

我々の世代は貧しい。貧しいが、一昔前のような、郊外の戸建てに高級外車と言うような、分かりやすい豊かさは、もう誰も求めていないようだ。

選択肢が変わったのだ。



Tuesday, January 19, 2016

(選べない国で)不惑を前に僕たちは

(選べない国で)不惑を前に僕たちは 寄稿、作家・中村文則



 僕の大学入学は一九九六年。既にバブルは崩壊していた。
 それまで、僕達(たち)の世代は社会・文化などが発する「夢を持って生きよう」とのメッセージに囲まれ育ってきたように思う。「普通に」就職するのでなく、ちょっと変わった道に進むのが格好いい。そんな空気がずっとあった。
 でも社会に経済的余裕がなくなると、今度は「正社員になれ/公務員はいい」の風潮に囲まれるようになる。勤労の尊さの再発見ではない。単に「そうでないと路頭に迷う」危機感からだった。
 その変化に僕達は混乱することになる。大学を卒業する二〇〇〇年、就職はいつの間にか「超氷河期」と呼ばれていた。「普通」の就職はそれほど格好いいと思われてなかったのに、正社員公務員は「憧れの職業」となった。
 僕は元々、フリーターをしながら小説家になろうとしていたので関係なかったが、横目で見るに就職活動は大変厳しい状況だった。
 正社員が「特権階級」のようになっていたため、面接官達に横柄な人達が多かったと何度も聞いた。面接の段階で人格までも否定され、精神を病んだ友人もいた。
 「なぜ資格もないの? この時代に?」。そう言われても、社会の大変化の渦中にあった僕達の世代は、その準備を前もってやるのは困難だった。「ならその面接官達に『あなた達はどうだったの? たまたま好景気の時に就職できただけだろ?』と告げてやれ」。そんなことを友人達に言っていた僕は、まだ社会を知らなかった。
 その大学時代、奇妙な傾向を感じた「一言」があった。
 友人が第二次大戦の日本を美化する発言をし、僕が、当時の軍と財閥の癒着、その利権がアメリカの利権とぶつかった結果の戦争であり、戦争の裏には必ず利権がある、みたいに言い、議論になった。その最後、彼が僕を心底嫌そうに見ながら「お前は人権の臭いがする」と言ったのだった。
 「人権の臭いがする」。言葉として奇妙だが、それより、人権が大事なのは当然と思っていた僕は驚くことになる。問うと彼は「俺は国がやることに反対したりしない。だから国が俺を守るのはわかるけど、国がやることに反対している奴(やつ)らの人権をなぜ国が守らなければならない?」と言ったのだ。
 当時の僕は、こんな人もいるのだな、と思った程度だった。その言葉の恐ろしさをはっきり自覚したのはもっと後のことになる。
 その後東京フリーターになった。バイトなどいくらでもある、と楽観した僕は甘かった。コンビニのバイト採用ですら倍率が八倍。僕がたまたま経験者だから採用された。時給八百五十円。特別高いわけでもない。
 そのコンビニは直営店で、本社がそのまま経営する体制。本社勤務の正社員達も売り場にいた。
 正社員達には「特権階級」の意識があったのだろう。叱る時に容赦はなかった。バイトの女の子が「正社員を舐(な)めるなよ」と怒鳴られていた場面に遭遇した時は本当に驚いた。フリーターはちょっと「外れた」人生を歩む夢追い人ではもはやなく、社会では「負け組」のように定義されていた。
 派遣のバイトもしたが、そこでは社員が「できない」バイトを見つけいじめていた。では正社員達はみな幸福だったのか? 同じコンビニで働く正社員の男性が、客として家電量販店におり、そこの店員を相手に怒鳴り散らしているのを見たことがあった。コンビニで客から怒鳴られた後、彼は別の店で怒鳴っていたのである。不景気であるほど客は王に近づき、働く者は奴隷に近づいていく。
 その頃バイト仲間に一冊の本を渡された。題は伏せるが右派の本で第二次大戦の日本を美化していた。僕が色々言うと、その彼も僕を嫌そうに見た。そして「お前在日?」と言ったのだった。
 僕は在日でないが、そう言うのも億劫(おっくう)で黙った。彼はそれを認めたと思ったのか、色々言いふらしたらしい。放っておいたが、あの時も「こんな人もいるのだな」と思った程度だった。時代はどんどん格差が広がる傾向にあった。
     *
 僕が小説家になって約一年半後の〇四年、「イラク人質事件」が起きる。三人の日本人がイラクで誘拐され、犯行グループが自衛隊の撤退を要求。あの時、世論は彼らの救出をまず考えると思った。
 なぜなら、それが従来の日本人の姿だったから。自衛隊が撤退するかどうかは難しい問題だが、まずは彼らの命の有無を心配し、その家族達に同情し、何とか救出する手段はないものか憂うだろうと思った。だがバッシングの嵐だった。「国の邪魔をするな」。国が持つ自国民保護の原則も考えず、およそ先進国では考えられない無残な状態を目の当たりにし、僕は先に書いた二人のことを思い出したのだった。
 不景気などで自信をなくした人々が「日本人である」アイデンティティに目覚める。それはいいのだが「日本人としての誇り」を持ちたいがため、過去の汚点、第二次大戦での日本の愚かなふるまいをなかったことにしようとする。「日本は間違っていた」と言われてきたのに「日本は正しかった」と言われたら気持ちがいいだろう。その気持ちよさに人は弱いのである。
 そして格差を広げる政策で自身の生活が苦しめられているのに、その人々がなぜか「強い政府」を肯定しようとする場合がある。これは日本だけでなく歴史・世界的に見られる大きな現象で、フロイトは、経済的に「弱い立場」の人々が、その原因をつくった政府を攻撃するのではなく、「強い政府」と自己同一化を図ることで自己の自信を回復しようとする心理が働く流れを指摘している。
 経済的に大丈夫でも「自信を持ち、強くなりたい」時、人は自己を肯定するため誰かを差別し、さらに「強い政府」を求めやすい。当然現在の右傾化の流れはそれだけでないが、多くの理由の一つにこれもあるということだ。今の日本の状態は、あまりにも歴史学的な典型の一つにある。いつの間にか息苦しい国になっていた。
 イラク人質事件は、日本の根底でずっと動いていたものが表に出た瞬間だった。政府側から「自己責任」という凄(すご)い言葉が流れたのもあの頃。政策で格差がさらに広がっていく中、落ちた人々を切り捨てられる便利な言葉としてもその後機能していくことになる。時代はブレーキを失っていく。
 昨年急に目立つようになったのはメディアでの「両論併記」というものだ。政府のやることに厳しい目を向けるのがマスコミとして当然なのに、「多様な意見を紹介しろ」という「善的」な理由で「政府への批判」が巧妙に弱められる仕組み。
 否定意見に肯定意見を加えれば、政府への批判は「印象として」プラマイゼロとなり、批判ムーブメントを起こすほどの過熱に結びつかなくなる。実に上手(うま)い戦略である。それに甘んじているマスコミの態度は驚愕(きょうがく)に値する。
 たとえば悪い政治家が何かやろうとし、その部下が「でも先生、そんなことしたらマスコミが黙ってないですよ」と言い、その政治家が「うーん。そうだよな……」と言うような、ほのぼのとした古き良き場面はいずれもうなくなるかもしれない。
 ネットも今の流れを後押ししていた。人は自分の顔が隠れる時、躊躇(ちゅうちょ)なく内面の攻撃性を解放する。だが、自分の正体を隠し人を攻撃する癖をつけるのは、その本人にとってよくない。攻撃される相手が可哀想とかいう善悪の問題というより、これは正体を隠す側のプライドの問題だ。僕の人格は酷(ひど)く褒められたものじゃないが、せめてそんな格好悪いことだけはしないようにしている。今すぐやめた方が、無理なら徐々にやめた方が本人にとっていい。人間の攻撃性は違う良いエネルギーに転化することもできるから、他のことにその力を注いだ方がきっと楽しい。
     *
 この格差や息苦しさ、ブレーキのなさの果てに何があるだろうか。僕は憲法改正と戦争と思っている。こう書けば、自分の考えを述べねばならないから少し書く。
 僕は九条は守らなければならないと考える。日本人による憲法研究会の草案が土台として使われているのは言うまでもなく、現憲法は単純な押し付け憲法でない。そもそもどんな憲法も他国の憲法に影響されたりして作られる。
 自衛隊は、国際社会における軍隊が持つ意味での戦力ではない。違憲ではない。こじつけ感があるが、現実の中で平和の理想を守るのは容易でなく、自衛隊は存在しなければならない。平和論は困難だ。だが現実に翻弄(ほんろう)されながらも、何とかギリギリのところで踏み止(とど)まってきたのがこれまでの日本の姿でなかったか。それもこの流れの中、昨年の安保関連法でとうとう一線を越えた。
 九条を失えば、僕達日本人はいよいよ決定的なアイデンティティを失う。あの悲惨を経験した直後、世界も平和を希求したあの空気の中で生まれたあの文言は大変貴重なものだ。全てを忘れ、裏で様々な利権が絡み合う戦争という醜さに、距離を取ることなく突っ込む「普通の国」。現代の悪は善の殻を被る。その奥の正体を見極めなければならない。日本はあの戦争の加害者であるが、原爆空襲などの民間人大量虐殺の被害者でもある。そんな特殊な経験をした日本人のオリジナリティを失っていいのだろうか。これは遠い未来をも含む人類史全体の問題だ。
 僕達は今、世界史の中で、一つの国が格差などの果てに平和の理想を着々と放棄し、いずれ有無を言わせない形で戦争に巻き込まれ暴発する過程を目の当たりにしている。政府への批判は弱いが他国との対立だけは喜々として煽(あお)る危険なメディア、格差を生む今の経済、この巨大な流れの中で、僕達は個々として本来の自分を保つことができるだろうか。大きな出来事が起きた時、その表面だけを見て感情的になるのではなく、あらゆる方向からその事柄を見つめ、裏には何があり、誰が得をするかまで見極める必要がある。歴史の流れは全て自然発生的に動くのではなく、意図的に誘導されることが多々ある。いずれにしろ、今年は決定的な一年になるだろう。
 最後に一つ。現与党が危機感から良くなるためにも、今最も必要なのは確かな中道左派政党だと考える。民主党内の保守派は現与党改憲保守派を利すること以外何をしたいのかわからないので、党から出て参院選に臨めばいかがだろうか。その方がわかりやすい。
     ◇
 なかむらふみのり 1977年生まれ。2005年、「土の中の子供」で芥川賞。近著に「教団X」「あなたが消えた夜に」。作品は各国で翻訳されている

Monday, January 18, 2016

南岸低気圧がきたら、どこの山へ行くか?

久しぶりの南岸低気圧・・・太平洋側の山々に雪をもたらす低気圧として、超・有名。 

今までは 南岸=雪のいっちょ覚えでやってきた(^^;)

猪熊さんの2014年3月の岳人記事が、南岸低気圧なので、参考にしつつ、ポイントをまとめる。

■ 大雪になる発達とは?

  12時間、6hPa以上 
  24時間、10hPa以上

   = 大荒れ・大雪。  

※等圧線が込み合った部分に入る時は要注意。

さっそく今回の南岸低気圧をチェック! 

18日9時
17日9時 (12時間前)  
16日9時 (24時間前)

の3つを用意します。

1) 24時間前をチェック! (16日 9時の天気図)

あれ?低気圧いない・・・ という訳で、いつごろ低気圧が天気図にお目見えしたのか?チェック! 


17日の夜中の3時ごろでした(汗)

1010hPa










2) 12時間前をチェック! (17日9時)

1004hPa 









































というわけで、12時間の気圧変化をチェック!

3)18日9時の天気図


12時間前 1004hPA
  0時間前  990hPA 

ということで、12時間で 1004-990 = 14hPA 気圧がさがっている。

というわけで、6hPA以上の発達=雪 となり、現実に即している。

■ 進路

さて、次は進路だが・・・

 1)沿岸近くを通過するとき

 2)八丈島付近を通過するとき

 3)八丈島より南を通過するとき

の3パターンがあるらしい。

 1)沿岸近くを通過するとき  → 平野部・低山は雨かみぞれ。 雲取・大菩薩で大雪。

 2)八丈島付近を通過するとき → 平野部でも大雪。

 3)八丈島より南を通過するとき → 雪は少し

ということで、どうも、今回は

 1)のケースらしいですよ! 雲取・大菩薩でも、しっかり雪!

  ↓

年に数回の低山雪山ハイクを狙っている人は、今週末がねらい目?!

(というか、甲府駅の裏山、標高400m少しの愛宕山でも今なら雪がありますね~!)

それにしても、1)と2)では、低気圧が陸地から少し離れた2)のほうが大雪になるとは、意外ですね~!

南岸低気圧が八丈島付近を急速に発達して通過するときは要チェック!ですね!

■ 進路=500hPAの天気図

低気圧の進路を見るには、上空の風を見るのだそうです。

≪ポイント!≫

 ・上空の風 = 500hPAの高層天気図

 ・風は等圧線の向きと並行 

高層天気図って見ても、ちっとも分からないのですが、

こちらで見れます。

見ても分からないが、風は平行=低気圧の進路 ということで、とりあえず、西から東に向いているらしい。

実際、17日9時の地上天気図と、18日9時の地上天気図では 移動方向は真東。

=合っているということを確認。

■ 雨になるか?雪になるか?

 ・雨か雪か? は 850hPAの予想天気図で見る 

のだそうです。

本来は 予想天気図 で、気温を把握するそうですが、時すでに遅し、なので、実況天気図。

 -3℃ 

 -3℃~0℃  氷点下以下

 0℃~3℃ 氷点下以上

 3℃以上 

を見るそうです。













見方は

 -3℃ = 標高500m以上の山で雪。平野部も雪。

 -3℃~0℃ = 1000m以上の山で雪。それ以外は雨。1500m以上の山では大雪。

 0℃~3℃ = 1500~2000mの山では湿り雪やみぞれ。
           1500m未満の山では雨になることが多い。2000m以上ではまとまった降雪。

 3℃以上 = ほとんどの山で雨。

基本的には、寒ければ寒いほど、標高の低い山でも雪になりますね♪

■ 近郊の山の様子は?

さてと、これらを近郊の山に当てはめてみますと

高尾山 (標高599m)  -3度のラインが上空にないと雪にならない。

雲取 (2017m)   
大菩薩嶺(2057m)
乾徳山(2031)
茅ヶ岳(1700)
三つ峠(1785)

などで降ってほしいなら、0℃のラインが上にあればいい。 

まとまった降雪って、2000m以上はラッセル?ワカン必要なのかな?

とりあえず、やっと降った雪!明日は裏山探索の日ですね!一晩で溶けると悲しいなー


■ まとめ

・・・ということで、南岸低気圧が来たら、

・発達具合 (実況&予想天気図)
・進行方向 (500hPA高層天気図)
・雪か雨か? (850hPA高層天気図)

の3点をチェックしましょうという話でした。







大雪の日・・・山を始めるなら冬山で始めましょう?!

■ よく降っています!

昨日はまったく、なんということもない冬の一日でした。

その後、大雪の警戒情報が流れたのですが、今朝目覚めると一面の雪景色に!素晴らしい~!! 

早速散歩へ。現在 10:46ですが、じゃんじゃん降っています。明日は遠出の散歩に行けるかな~♪

天気図はこちら。 天気図を見ない登山者が多いと聞いたので、これからは、山行ごとにUPすることにした。

冬山では、お天気チェックは切実。なので、山を始めるなら、冬山で始めましょう(笑)♪

ちなみに、6時、9時、12時、15時、18時、21時、0時ごろ(約3時間毎)に表示されます。今日は、なぜか9時過ぎても、6時の天気図が最新・・・
南岸低気圧

 ・・・の結果。

8:30の写真。
 ウラヤマはどんより・・・見えません。
 10cmくらいかな~
 駐車場も雪かき必要ですかね~
 シャーベット状です
 南天と雪がクリスマスカラーでした!

赤が雪に生えて美しい!

ウラヤマは、こんな様子です。

せっかく雪かきしても、樹の上に積もった雪が、すぐに墜ちてきそうです。

今日は、初の月曜レッスンの日です。

色々と楽しみな用事が目白押しですが・・・、明日のアイスは大雪で流れるのではないかと・・・。

甲斐駒で、心が満足してしまい、次なる山へ心が向かいません(笑)。

アイスはどちらかというとゲレンデ=遊びだしなぁ・・・

今日は山の本を読んだり、山道具を整理して過ごします♪

Sunday, January 17, 2016

メンテナンスの良しあし

■ 登山はスリルを味わう遊びではない

最近、思うのだが、本来の登山は、大誤解を受けている。

その大事なこと・・・というのは、登山はスリルを味わう遊びではない、ということである。

ギリギリ、スレスレは自慢にはならない。多くの登山家は命がけの登山をしているようでいて、実は確信を持って山に臨んでいるものである。

私の甲斐駒は小さな山だ。とはいえ、一般の雪山登山者からすると、デカい。一般登山として登る山の中では大きな山だ。だから、一般登山卒業試験みたいな感じ。

単独であることで、心配した人は、一般登山の人。しなかった人は、山ヤ。

厳冬期とはいえ、正月1週間後の土日の甲斐駒、しかも快晴予報とあっては、人がいっぱい登るので、単独リスクは限りなく低い(笑)。

誰だってバカではないので、単独で行くときは、十分なゆとりを持っている山しか行かない。ついでに、単独リスクをマスクするには、他にも人の登っている山に行くことだ。

だから、他に人がいないことが予想できる地蔵尾根は断った。雪がないときに地蔵尾根に登りたい人がどれくらいいるのかな~ということもあったし、パーティで総合力で登る山のような気がする。

スリルがもたらすある種の脳内物質に依存症の人は、次から次へと同じスリルを味わわずにはおれなくなってしまう。

”次々と”、とか、”もっともっと”ということが、依存症の証だ。 

自分の中の確実性を増やす活動、それが登山だと思う。

心が満足する山の後は、満足感に浸るので、次から次へ、とはならないものだ。

■ 体力=内臓の力

ちょっと前に読んだ本だが、『体の力が登山を変える』によると、体力とはつまるところ、”臓器の力”だ。

登りは体力と言われるが具体的には何か?というと、心肺機能、ということになると、要するに

  心臓が血流を押し出す力 と 肺が酸素を取り込む力

この2つは、当然だが、誰だってできる。しかも、登山は能力の最大で登るわけではない。

ので、自分の快適ペースをよく知ることが大事だ。

それを知るにはどうしたらよいか?

一般には、感覚的に ”ちょっときついと感じる程度”と言われる。

心拍数でいえば、

 (220 - 年齢) ×0.75 = ちょうど良い心拍数 

と言われている。

実際に感じるしんどさでの心拍数が、それ以上か、以下か?というのは、日ごろのメンテナンスの表れ(笑)らしい・・・バイオロジカルエイジ、つまり生物学的年齢、と言われる。

メンテナンスの良しあしが良く現れるのが、登山と言うことらしい(笑)。

あるアルパインクライマーが言っていたが、「強いのは、毎日1時間でもいいから歩いている人」

若ければ、誰だって歩くのが早い。でも、それは努力の結果、得られているものではない。

大事なのは資産(若さ)を目減りさせないメンテナンス。毎日続ける規律。タバコを吸わない、アルコールを控えるなどの良識。

そう行ったものは、山にしろ、何にしろ、コミットメントから生まれるものだ。

■ 体は人それぞれ 

今日は、食物アレルギーの検体を作るため、自宅で採血をした。夫は同じランセット(採血用の道具)で採血しても、すぐに血が出る。私は出ない。

体は人それぞれなんだな~を実感する。

私は毛細血管が細いらしい。通常の注射をするときも、とても難しく、看護婦さん泣かせだ。

でも、別に冷え性ではない。 のは、きっと登山をしていることがいいのだろう♪ と結論した。

アンブロシア

■ 大雪予報

明日は大雪の予報だ。 八ヶ岳に行くようになって最初に覚えた南岸低気圧。


Friday, January 15, 2016

読了 『安全登山の基礎知識』

■ 読了 『安全登山の基礎知識』 山の知識検定 公認Book

この本は、登山入門者にとっても良い内容だった。

いつも、登山者に足りていないのは、体力でも技術でもなくて、”基礎知識”=机上講習、ではないか?と思っている。

それは山小屋でバイトした時に端を発する。あまりにも何も知らない、まっさらな状態で、山に行きすぎていないか、と思うのは

・山にペットボトル一本で来たり
・ジーパンで来たり
・天気を見ていなかったり
・地図をもっていなかったり
・私にも登れるでしょうか?と聞いてきたり

する等の事例をあまりにも、たくさん山小屋で見てしまったから。 

指摘すると、そういう人は「あの人もジーパンだよ」と山小屋の人がジーパンでいるのを指摘したりもする・・・けれど、山小屋は安全地帯で、雨に濡れて風にさらされ稜線に滞在しないといけない羽目に陥ることはない。

5時間歩くのに、水無しで歩くことも可能だと思う。というか、5時間程度、水を飲まないで過ごせない人がいるだろうか?誰だって5時間くらいなら断水できる。

けれど、5時間中に、脱水が起っていることは事実以上の何物でもなく、体重50kgの人が5時間歩いたときに必要とする水は、公式で求められ、50×5×5=1000ミリリットルだ。だから、それは遅かれ、早かれ、補わないといけない。

その補わないといけないポイントで、山小屋も水場もなかったら、どうするんだろう???

「山小屋があるからいいもん!」と返事をする人は、まだいい。山小屋があると知っている時点で、予習は出来ている。

そうではなく、「行って見たら山小屋があったよ~!良かった~!こんなところにも山小屋あるんだね~!」などとと発言している人は、大きな賭けに出ている=遭難予備軍であることを認識していない。

登山は賭け事ではない。とすれば、事前の知識は必要だ。賭け事にしなくて良いことを掛けにしている。

今、中高年を魅了しているのは、登山の賭け事というアスペクトではないかと思う。少なくとも、その疑いはある。そうだとしたら、山の遭難は減らないだろう。ギャンブルの掛け金を吊り上げるのが喜びの源泉になっているからだ。

確かに登山には未知の発見という喜びがあり、私も安全が担保されている、という場合には、あまり調べないで行くという、贅沢を自分に許すこともある。(例:ベテランがすでに行ったことがある場所に連れて行ってくれる時)

例え、調べに調べても、すべてを事前に知り尽くすことは不可能だし、特に危険個所について、登れるか登れないかの判断は、行ったことがある人でないと難しい。

さらに言えば、個別の山について、それぞれごとに調べ尽くす必要もないわけなので、そこで、”基礎知識”、つまりおおよそ一般的な登山に必要な共通の知識を抽出したものを知っておけばよい、ということになる。

どんな山にも応用できる、最低限の知識は何か?

ということが、具体的に分かるのが この『安全登山の基礎知識』だった。

以下は、当方にとって役立つと感じた最初の行動のところのまとめ。

■ 備忘録

・自然回帰 = 人間の本能的な欲求、リスク低減、謙虚さを学ぶ機会

・メンバー間で実力差があるのは当たり前。(実力の中身=体力、技量、性格)

・実力差の克服法  1)事前の練習登山 2)アドバイス 3)指導

・事前ミーティング = 情報を共有する 

・役割分担  
 
 リーダー = 行動
 サブリーダー = 行動
 装備係り
 食料係り
 
・メンバーの役割とは? 1)主体的に取り組むこと 2)自分の役割を積極的に発見すること

・行く山の選択ポイント 標高差、距離、日数、標高、季節、天候、難所の有無

行動計画は、積み重ねから割り出す 

■ 考察

役割について。

単独の場合、役割分担はなく、すべての役割を一人が担当する。

一方、山岳会で複数の人と登る場合、明示的には、役割が与えられていないことがほとんどであることに気が付いた。

リーダーは明確であっても、装備担当者がいることはまずない。レインウェアを持ってきていない人がそのまま山行に参加しても、いざ必要になるまで、忘れたことに気が付かれることがない。

明示的に、というのは、暗黙的に役割が与えられていることはよくあり、例えば、力持ちの人にはテントを持つ役とか、食事を持つ役、水持ち役が与えらえることが多いし、クライミング力がある人には、突破担当が振られるし、車が上等の人には運転が振られる。

ある一つの役割に、”新人”という役割があると思う。その”新人”と言う役割に求められるのは、なんだろうか。それは会によってそれぞれ違うのかもしれないが、どんな場合にも言えるのは、

頑張る

のが役目だということだ。

次の入会者がないと、”新人君”は、”ずっと新人君”で固定化してしまう。・・・すると、役割のヒエラルキーを上がって行かない=知識が身につかない、ことになるかもしれない。

メンバーの役割という面で、自分の役割を積極的に見出すこと、という点だが、役割がない場合は、ゲストということで、ゲスト待遇=仲間ではない、ということかもしれない。

以前、ゲストで参加している山行で、ほんの少しの共同装備を割り振られたことがあったが、協力的な相手か様子を見るということなのだろう。

この時は、共同装備の負担がなかったので、お酒を一瓶と柿の種を持って行ったら、とても褒められた。お酒自体よりも、積極的に役割を担おうとしていることが、仲間に入れてくださいという姿勢を表していたからだと思う。

私も同行者はゲストとして遇すことにしていて、何かを持ってもらいたいと思って、山行に誘うことはない。

■追加役割

他にどのような役割があるだろうか?

 読図
 天気  
 記録  
 突破  
 歩荷  
 救護  
 給水  
 運転  
 

新人”はれっきとした役割である。男性主体のチームでは、女性には、”華”の役が回ってくる。

きれいどころ”役をしている人はウエアが、ことさら女性らしさを強調したもの(ピンクなど)を着ているので、すぐ分かる。写真もその人を中心に納めている。山岳会だと、新規入会者にPRする目的のモデルということもある。

そういう意味の”キャラ的役割”では、バテ役というのも、固定しがちな役割なので、気を付けたほうがいいかもしれない。末っ子タイプに多いのかもしれない。

いけいけ”の役割と”慎重派”の役割分担もあり、全員がイケイケ派だと、突っ込んで行って下りれなくなり、いわゆる”セミ”になってしまう。

家の中にお父さんとお母さんがいるように、誰かが「嫌がられ役」を引き受けなくてはならないが、大抵は、イケイケ派がグループ内では評価が良く、怖い役や引締め役はババ引きである。

しかし、山行の前も、山行の途中も、「このままではあぶないよ」と言いにくいことを言ってくれる人が真の友ではないだろうか?

リーダーにはご機嫌取りではなく、「時には叱ってくれる人」がふさわしいのではないかと思う。








Thursday, January 14, 2016

山梨の幸せ

■ 山梨の幸せ

今日も甲府は快晴!そしてやっと寒い!山梨の冬は、素晴らしい晴れが多い。冬の山梨の素晴らしい快晴。

しかし、富士山は暴風のようで、北岳は雪雲で悪く、甲斐駒は最初は良かったが、曇っていた。
我が家からは八つは見えず。甲武信方面は良さそうだった。

冬は盆地の山が良い。

■ 買い物日和

今日は、久しぶりにカルディに買い物に出かけた。

糖質制限食の実験で、アガベシロップを買いたいと思ったのだが、近所に売っていない。

アガベシロップは、血糖値を上げにくい糖として知られている。つまり山で行動食として食べるのに良いかもしれない甘味料。




あとは、豆乳、トマト缶くらいしか買う予定はなかったのだが、今日は、トマト缶が激安の日で、なんと、通常98円なのに、78円!しかも箱買いすると、3%引きだそうで、思わず箱買いしてしまった・・・。18個入り。

ついでに赤ワインと珍しくグリューワインがおいてあったので買ってみた。山梨ではワインが他の地よりおいしいのは、ワイン産地で、皆の舌が肥えていて、まずいと売れないからなのだろうか?

最近、なぜか赤が飲みたい。元々赤はタンニンが苦手だったのに・・・。ワインの勉強もしたいので、今年は、山よりワインなのかもしれない。

目的はカルディだったが、ついででイオンによると、どこのスーパーに行っても売り切れのバターがなぜか30%オフになっていて、100gで150円。思わず2つも買ってしまった。パターは助かる。

■ パンとバターとコーヒーと

最近、自分の幸福が何に因るのか?ということをよく考える。

美味しいパンとバター、それに美味しいコーヒーがあれば・・・

というところ。でも、よく考えると、人生で一番幸福だったサンフランシスコ時代、フランスで食べたような、おいしいパンはアメリカには存在せず、酸っぱいサワードゥがあるだけだったし、しかもコーヒーは、激マズすぎてあきらめ、100パックで入っているような大衆向けティーバックでカフェインを注入しながら、生きていたんだった・・・もちろん、豆を買うようになって改善したが。

カリフォルニアでは食事はさんざんで口にあうものがないので、フルーツばかり食べていた。それで、りんごしか食べない週もあったりし、栄養学についての考慮は一切しなかったが、まったくアトピーも良くなったので、バランスのとれた食に対する敬意を失ってしまった(笑)。

・・・しかし、大阪に帰ると、そこは美味しいパン屋激戦区、というわけで、コムシノワやら、ブーランジェリータケウチ、エノテカ・・・毎日食べても飽きないパン。

今は大阪にいるころのように、パン屋に恵まれているわけではないが、それでも、自分でパンを焼けばいいのであるし、少なくとも、うまいコーヒーはゲットできているので、生きていて幸せだと思う(笑)。

素晴らしいお天気も幸せだし、大阪ほどは、空気が汚れていないのも幸せだ。フライングラッツと呼ばれる鳩が大量発生していないのもいい。それに、洗濯物がよく乾く!

・・・とまぁ自分の幸福を振り返る。ないものを見ても仕方がないので、あるものを見るべし。

■ 見直し 

山の方向性は見直し中である。

カンタンにまとめると

求めたもの   原動力        結果としての限界や副作用

未知       好奇心・冒険     地理的空白の登りつくし、無知による犬死

困難       探究心・Mな心     登りつくし、他者との競争、勝利への執着による死

限界への挑戦  M?    肉体の限界を越えたことによる死(墜死・凍死)、愛好者人口減

自己の限界への挑戦 M?  山に行こうとして行けなくなる矛盾、怪我

放蕩        贅沢への耽溺    山の下界化、環境問題、自然の搾取、メタボ

登山はどこへ向かうのか???

もちろん、これは大幅に簡略化しています。

一つの提案は、フィットネスの向上。山と自分の限界を比べ戦うのではなく、山に自分をフィットさせられるか?自分に問いかける活動。

こういう形にしても、山で思いがけない事故に遭う可能性はゼロにはできない。落石や雪崩はどこでも起こるし、スリップも同じ。

でも、疲れていても山に入るほうがいい、という価値観ではなくなるだろう。 

山から下りたとき、ゆとりがゼロで、ギリギリだったことに充足感を覚える、ということもなくなるだろうし、準備不足で入山することに対する、ヒロイズムも無くなるだろう。

山に元気をもらうのではなく、元気な時に入るのが山なのだから。

■ 前例

若いときに、山で無理をしすぎて、変形膝関節症になった人や股関節の障害を抱えることになった人、凍傷で指を失った人を見て、普通の人は、「自分はそうならないように気を付けよう」と普通思うハズだ。

つまり、良い見本では決してない。

だから、他の人がこうありたい!と思ってくれるような、幸福な登山者であることは、新人獲得には、とても重要なことで、登山と言う活動に、どういう風な幸福があるのか?を示せなければ、その後に続きたい!という人も少なくなるのが当然だろうと思う。

そういう意味では、今のアルパイン人口の減少というか、不人気は、

 楽しそうでないから、ヤダ

とか、

 そもそも死にそうだから、ヤダ

ということなのかもしれない。

■ What turns you off?

これは、インタビューの決まり文句。 何がヤル気にさせ、何がヤル気を喪失させるか?というモチベーションについて聞くもの。

私の場合、即時退会!と考えるのは

 1) 単独で行くより、会で行った方がより死の危険に近づくとき

 2) 無料のガイドを要求されるとき

鹿柵ボランティアを始め、ボランティア活動など、わざわざ出ていたくらいで、世の中に役立つ貢献したいと思っている。

しかし、無料のガイドをすることは、世の中を、とくに山の世界をより良くすることには、全く役立っていない。

それどころか、依存的な登山者や人のせいにする登山者を増やすことになり、山の世界の後退に加担する活動となってしまう。

しかも、ありがとうと言ってもらえるガイドではなく、地図も持たず、自分ではリスク管理もせず、運転さえ自分は乗る一方で、連れて行ってもらって当然と思っている、無料奉仕活動であれば、なおさら。

先日、近所で買い物帰りに、よたよたと歩いている、おじさんがいた。

「いいお天気ですね」と声を掛けたら、少しの世間話になった。てっきり、普段、MY駐車場の上の階に住んでいる、オジサンかと勘違いしたのだった。その人はいつも駐車するときに、挨拶しているので。

立ち去ろうとすると、おじさんは、「明日のパン代がない」という。

それで、スタバのカードをあげた。中にはまだ3000円くらい使えるように残っていたから。

すると、オジサンは、「これってコンビニで使えるの。お金の方がいい」という。お金はあげられない、というとしぶしぶスタバカードを持って行った。

何が起こったのか、しばらく分からなかった。

今の日本は、困っていない人を困っている人が助ける社会になっている。

今の日本は、持たざる者が持てる者を助ける社会になっているばかりか、差し出したものに不服を言われる社会になっている。

それが、中高年初心者による、山岳会の無料ガイドとしての利用だと思う。

■ 割れても惜しくない皿

一方で、お皿を割った時、惜しくないと思える金額の皿を買え、というのは、よく言われる。

借金を申し込まれたときは、返済してもらうつもりではなく、なくなっても惜しくない額を差し上げてしまいなさいとも言われる。

これと同じことで、山行に同行者と行くときは、割っても惜しくない皿を買うつもりでいる。

読了 『スピードハイク入門』

■ 読了 『スピードハイク入門』

この本は、トレイルランを”ランなし”にしたもの。

第一章は、装備
第二章は、体作り
第三章は、歩き方(実践)
第四章は、コースガイド

各章で、一般登山との違いは

装備 → ・ローカットシューズ
      ・小型のウエラブルザック
      ・保温着と中間着の兼用
      ・雨具とウインドシェルの兼用(これって登山でも普通の事では?)
      ・肌に汗を残さないレイヤー

体つくり →
       全身持久力 
       巧緻性 (普通の登山ではあまり問題にされないが穂高ではいるかも?)
       敏捷性&平衡感覚 (同上)
       柔軟性 (怪我の予防にいると思う)

       食生活(糖質制限)

歩き方 → 
      行動計画   = 安全にばてず、迅速に歩く、体力温存
      速さの具体例 ハセツネコース → トレランの半分
      歩き方     = 大腿四頭筋に頼りすぎない、地形に合わせて歩く
      登りペース  =体に聞く 220-年齢×0.75 ボルグスケール
      下りは優しく 
      フラットは早く = 親指と人差し指の当たりで着地
      トレッキングポール
      ペース配分 =地図活用
      実感の数値化 = 見通しが立つと焦りが無くなる ※セイコーアルピニスト
      
      行動食 =BCAA
      入山前 =未精製の炭水化物 水
      下山後 =BCAA タンパク質
      呼吸

コースガイド →
      乾徳山
      北八つ
      鳳凰三山
      早池峰山
      妙高
      富士山
      天城山
      六甲
      季節のアドバイス
      ボルダリングエリアのラン

■ 感想

実は、内容的にすでにやっていることだな~と思ってしまった。

特に大腿四頭筋に頼りすぎないなどは、バレエで良く言われること。ハムス臀筋を使う。

食事も大体同じことをしていた。山の朝ごはんは、玄米餅だし、行動中はアミノバイタルなどを飲み、下山後は食事している。バテがひどいときは、BCAAを下山後も取る。(山ではそこまでシビアでないのでしないが、ムサシはすごい!全然疲れが蓄積しない)

今後やろうと思ったのは、ペース予測。実は、地図読みでベアリング図を書くので、あと標高何メートルで登り、なだらかかどうか、などは、把握していたが、それをペースに置き換える、ということは、想定していなかった。

でも、ごく自然な成り行きとして、地形に合わせて歩くのは普通のことだ。登りはゆっくり、下りは慎重に、平坦な所ではさっさと。

■ スピード?

特に何の努力もしていないのだが、勝手に歩くのが標準コースタイムよりは早くなった。

単純に、コースタイムのほうが、遅くなったのだろう(笑)。

あんまりスピードのこだわると、修業になってしまい、山の楽しみが無くなる気がするが、愉しんで歩けるなら、早いのは取り立てて、不都合なことではない。

例えば、自分が救助の伝令をしなくてはならなくなった場合、早く歩けると、それだけ救助を早く呼ぶことができる。

■ 3つの方向

それにまた、自分自身のフィットネスを向上する、という意味では、

 ・距離を長くする  → 持久力
 ・スピードを速くする → 心肺能力
 ・重さを重くする   → 筋力

の3方向しかない。まだ、取り組んでいないのは、スピードという方向。

最近は、重さの事はあまり考えずにパッキングしていて、わざわざ軽くしよう!と努力することがあんまり、なくなってしまった。

それは、早く歩きたい!という気持ちが薄れたから、ということもあるな~と思う。ほっといても、暗闇に追いつかれることはないので。

おっと、山を舐めているのか(笑)?

それにしても、初心者の頃、あまり重さやスピードに煩わされることなく、好きなように雪の山を徘徊出来て良かったな~。

最初から、重い荷物を担がされ、急いで歩かされたら、たぶん、山なんて何にも楽しくないと思う。

だから山を好きになるには、易しい山に行くことが大事だ。

■ ギリギリは充足感につながらない

私の場合だが、黒戸尾根の充実感は何によるのか?と言うと、

 ゆとり

に、根本を発している。下山後も、温泉に行って癒さなくてはならないような疲労感や筋肉痛はないし、技術的にも難度は感じなかった。

これは、クライミングでの達成感と同じで、クライミングもまぐれで高グレードが登れることより、確実に5.9が登れることの方がうれしい。

できないことをやるかもしれないという、事前の精神的緊張も無かった。

 ゆとり=安全マージン

もちろん、初めてのことをやる時の、未知に対する精神的な恐怖感を乗り越えることも楽しい。

一歩を踏み出すのは、いつだって勇気がいるものだ。

しかし、それは一瞬のこと。未知を次々と求めつづけても、すぐに飽和することはすでに歴史が証明している。つまり、未踏峰が無くなったように。

楽しみの要素ではあっても、第一義的に求めるものではない、だろう。

では、登山の楽しみに、何を求めるか?ということだが・・・。

困難性の追求が、登山界ではテーマとして掲げられたが、困難性を追求すると、最終終着駅は死であることは、登山の歴史が証明してしまっている。副産物は、他者との競争だ。

登山の歴史で言うと、次には、自分自身の能力の限界へのチャレンジが来たようだ。つまり、他者との競争ではなく、自分を相手に戦う、ということだ。

私も自分へのチャレンジは好きだ。しかし、自分の限界へのチャレンジは、成長期の人間にはふさわしいが、成長期を過ぎた人間には、故障や怪我による早期引退という、自己矛盾を抱えてしまっている。

その後の登山の流れでは、限界へのチャレンジへの反骨精神からか、放蕩が来たようだ。向上より、快適性。山に下界を再現し、山で喰らい、山で飲む。

この方向性も、大きくは環境問題となって行き詰まりを見せているし、個人の面、山宴会のほうも、年齢に勝てず飲みたい酒もドクターストップだ。考えてみたら、そもそも酒や宴会自体もそんなにすきではなかったのだろう・・・この方向も行き詰まりは明確だ。

というような流れを概観すると、

登山をを趣味にする人が持つにふさわしい次なるテーマは、自分の中の確実性やフィットネス、山と自分の適合具合の向上、とでもいうようなことではないだろうか?

自分自身と山との快適性へのチャレンジだ。これなら、自分の肉体が変化する限り、永遠に求められるテーマではないだろうか?

ま、そういう意味では、肩こりがある人には、クライミングはいいのかもしれません(笑)。クライミングしていたら、ダイエットしたくなりますしね!






 おススメ



Wednesday, January 13, 2016

黒戸尾根 8時間

■ 年齢区分

私はBackpakerというアメリカのバックパッキングの雑誌を購読している。そこにあった年齢別のおススメエクササイズ・・・

その年齢別の区分が良いな~と思った。

Age 18-35

Age 35-50

Age 50-65

Age 65 & Up


これはとても現実的な区分ではないだろうか。 実感として、統計に使われる、40代以降を中高年とひとくくりにするには、体力差に非常に無理がある。40代と60代は倍くらい違う。

日本の統計は、10歳ずつを区切りにしているが、あまり現実に即しておらず、数字がゆがんで表現されてしまっているのではないか?と言う気がする。

自分を振り返っても、18~35歳の間は、バレエをしても、ヨガをしても、すんなり成長できた。35歳以下の時ほど、体を酷使したいとも思わないし、無理をすれば、体は抗議してくるようになったが、かといって、衰えを感じることはあまりない。

60代の人たちを見ていても、60代前半では、とても元気だ。しかし、70の声を聴くようになると、12時間行動どころか、10時間でさえ、たぶん、まともには歩けないだろう。

長時間行動を可能にするために、睡眠薬を取ったり、道中で運転は任せて寝たりして、体力温存に勤めなくてはいけない様子だ。

■ 黒戸尾根 8時間

先日、甲斐駒の黒戸尾根に登ってきた。特にコースタイムを気にせず、自分の脚が楽なように歩いて、トータル13時間だった。

行きは、登り一方で、5時間半、帰りは2時間程度の登りと5時間程度の下りで、7時間半だった。

これは周囲の様子を見ると、特に遅くないコースタイムのようだった。登りでも、下りでも、だいぶ追い越した。それは、見るからに山岳会の人たちも含んでいたし、テント泊者にはかぎらなかったようだった。

なので、このコースタイムは一般的なコースタイムだと思う。

ところが、この時、18才~35歳のメンバーで構成される若者部隊は、9時間半で、日帰りであるいたのだそうだ。

しかも、山ヤと言われる人たちは、8時間程度で歩くのだという。

この日黒戸尾根にいた人たちで、8時間、もしくは、9時間半で歩ける脚力の人がいたのか?というと、いなかったのではないか?と思われる。

過剰な快適性は、山そのものと反するような気がするが・・・たとえば、6cm厚のスリーピングマットが夏山で出てきたときは、夏だしそんなのいらないんじゃないかな~と思ったが・・・最低限の適切な装備と言うものがあると思う。

山は、どちらかというと、不要なものをそぎ落とす系の活動で、ミニマリスト的な価値観が似合う。

シンプルに、不要なものは持たず、必要な物だけを持つ。

そういう風にするのは異論はないが、必要なものを削らないと早く歩けないのであれば、単純にその場合は、早く歩く能力がない、ということなのかもしれない。

私は空荷にしても、黒戸尾根を8時間もしくは、9時間半で登りたいとは思えない・・・

■ ピークを高くしておくと長く登れる

とこれが、なんで年齢と言う話につながるか?というと、

おそらく、18-35歳という年齢は、黒戸尾根、8時間を目指す年齢なのではないか?と思うからだ。

若いときには、自分に制限を設けず、どんどん伸びるままに能力を伸ばしていくのが良い。

どこまで行けるか、やってみるのは大事なことだ。

私はまだ、65歳UPというような時代のカラダ感覚は分からないが、おそらく、若いときに8時間で歩けた人は、65歳になっても、16時間で歩ける。このコースタイムなら、1泊二日で黒戸尾根は、何歳になっても登れる。

倍のコースタイムがかかってくるようになっても、最初のピークが高いから、倍の値も違うのだ。

最初に13時間の標準コースタイムがかかる人だと、65歳UPになれば、26時間かかるようになり、それでは1泊二日では登れない。2泊するような施設はないので、黒戸尾根は登れないということになるだろう。

山の楽しみを長く続けたければ、若いときのピークを高くしておく、というのが良い、そういう理由で、若いときには無理をさせるのではないだろうか?

現在若さが手元にない人が、若い人と同じことをしようとするのは、大きな間違いに違いない。

体に無理を強い、パンクしたら医者に駆け込む、というような姿勢は、登山以外でも、どんな運動分野でも見られるが、運動の本当の目的は、健康の増進にある。

ヨガでも、ヨガをして整骨院に通うようになる人がいる。そういう風にならないように、ということが大人にとっての最大の課題であるように思う。

そう思うと、いかに長い期間、登山を楽しめる体を維持できたか?ということ、引退の遅さ、が、登山者の能力のもっともよくあらわれる数値なのかもしれない。