Thursday, December 31, 2015

山岳会の歩き方?

■ 山岳会のタイプ

山岳会には色々なタイプがある。

中でも、誰もがイメージしやすく、一般的な会は、地域山岳会、だろう。その土地の名を冠していることが多い。

≪山岳会のタイプ≫
 ・地域山岳会
 ・特定の志向をもつ会 例:沢専門の会のトマの風 など
 ・同人

■ 高齢化

地域山岳会は、特段書かれていないが、使命は、

 その地域の山好きな人々のニーズを満たすこと、

にある。

”その地域の山好きな人々”の具体的な中身は、世相をそのまま反映して、高齢化している。つまり、一般社会の縮図であり、特定の志向を反映したものではない。

一般社会が高齢になれば、山岳会も高齢化し、一般市民の個人登山のレベルが下がれば、山岳会の山行内容もレベルが低下する。それが普通の事なのだ。

■ 年を取れば穏やかになるのが自然

誰でも、高齢になれば、穏やかな山をしたいと思うようになるのが自然だし、体力も落ちるのが普通のことだ。高齢になれば、今から山で成長する、とは思わないのも普通のことだ。

もちろん、年齢ではない、という部分もあるが、それはどちらかというと、特殊な志向に入るだろう。・・・と言う帰結の結果、多くの地域山岳会は、内実は、

 (60代以降の)高齢初心者が行きたい山を主体とした会、

となっている。

そういう会でも、若かりし昔は、アルパイン的な山にも行っていたのだろう。その当時は、”その地域の人たちが行きたい山”がアルパインだったのだろう。

会は人の集合なのだから、行きたい山は、その会に属す人たちが行きたい山で、それが変化して行けば、その変化に合わせて山の内容が代わっていくのが自然だ。

■ 浮遊票 =行きたい山が分からない人

極端な例だが、10人の会で、9人が高尾山へ行きたがり、1人がアルパインへ行きたがるのであれば、その会の山は高尾山だ。

一方、山に嗜好を持たない人もいる。(そういう人が山好きかどうかは別の議論になるが・・・)

嗜好がない人は、”山はどこでもいい”という人だ。会の行き先が多数決的な決まり方をする以上、日和見主義的な人は、多数決派には好都合な存在となる。

そうなると、会には政治が出現する。自分の意思(行きたい山へ行く)を通すためには、票が必要という訳だからだ。

行きたい山に行くために政治活動をしなくて行けなくなるのでは、山という趣味がシンプルではなくなる・・・趣味は人生を豊かにするものであって、複雑怪奇化するものではない。

そう考えると、政治が出てくる、得票争いをしないといけない、ということ自体が、裏返せば、その集団がもつ山への志向性が一致していない、ということを意味するのだ。

■ 行きたい山に行く会が良い会

自分が行きたい山に行かない会に所属しても仕方がない。

山への志向が同じ人と登るのが、人間は誰しも一番しあわせなのであるから、ハイキングがイイと思っている人に無理して、アルパインに行ってもらわなくてもいいし、アルパインと言えども、ビレイは手放しでよく、後輩は先輩にくっついて行くだけで良いと考えている人と、互いに互いの安全を保障し合うのが仲間だと考えている人は一緒に行かなくて良い。というか、一緒には行けない。

命の軽視を意味するからだ。

客観的に見て、レベル低下を招いている一般山岳会に、”一般市民が楽しむレベルの”アルパインクライミングをしたい人は、所属すべきではないし、勧誘するべきでもないのかもしれない。

ただ一般に人は、そんな内部的な事情は分からない。ただ山岳会に行ったら、山小屋で会うような山好きがいっぱいいて、尽きぬ山の話で盛り上がるんだろうな!って思っているだけってことだ。

山好きが山岳会の事情や実情が分かるためには、山岳会に一度は所属しないと、右も左も分からないかもしれない、ということは言える。

■ 同人

同人というのは、一つの山頂のために集まった人の集まりだ。

私が思っていた山岳会に近い。山に対する考えが同じ人たちが集う場所、だ。

したがって一人一人が自立したメンバーである。最初から山を教えてもらおう、というような依存心が強い人は来ない場所なのだ。知っていることが前提だ。

しかも、同人の場合は、声を掛けられるまで待っているような人には向かないらしい。

つまり、”行きたい人いませんか?この指とまれ”式ということだ。

各自が行きたい山がある、それが前提だ。”連れて行ってください♪”っていうのはナシ、”〇〇へ行きたいんだけど、どう?”って話だ。

■ 欲しくない人が来てしまう

アルパインクライミングを志向する会です、と表に書いてあるのに、アルパインクライミングという言葉の内容があまり知られていないため、「大菩薩に登りたいです」という人が昨今は来てしまう。

そういう会では、毎月一人は入会者がいるのだが、結局、会の中には大菩薩に行きたい人はいない=誰にも誘われることがないので、辞めて行ってしまう。入会金の払い損になるのだが、勉強不足のツケということだろうと思う。

大抵の人が、ハイキングや初級の雪山のような、自分で行ける山も、だれかに連れて行ってもらうことを期待して、山岳会の門をたたくようで、そういう人には、高齢化した地域山岳会が、山としては、合っているかもしれない。高齢者が主体となってしまった会はハイキングの山に行っている。

・・・が、面倒を見られたい若い人は入ってこない。そりゃそうだ・・・わざわざ休日を楽しみたいと思って山に行っているのに、「早く子供を産みなさい」とか、「浮気したい」と言われたい人がいるだろうか?

なので、山を楽しむどころではなくなってしまうので、行く山そのものはおなじなのに、一緒に行くと、大抵は失敗する。

一緒に行くと、”敬老の日”みたいな感じにはなる。だが、一緒に行く方も、そもそも一人で行けるようなハイキングの山に、ガイドブック役を頼み、連れて行ってもらっているのだから、文句は言うべきであるまい。

あるいは、すでに高齢化している会に、定年退職して初めて山を始めたという高齢者が来ているという実情があるが、若返りたい会としては、欲しい人材とはちょっと違うな、ということになる。それも、高齢初心者お断り、とは書いていないのだから、門前払いはできないだろう。

結局、会で若手に入ってしまうと、若返りの期待のためだけに、ちやほやされるだけで、ちっとも行きたい山には行けない、ということになる。

逆に受け入れ側から見ると、ちやほやしてやっているのに、恩返しがない、ということになる。

■ 体力のミスマッチ

高齢化してはいても、山岳会の高齢者は健脚揃いだ。

体力のない高齢の初心者を、体力度5の山に連れて行ってしまう。多分、自分が若いときに山を始めたときには、体力度5の山が入門の山だったからだろう。

一般ガイドブックで、体力度5の山は、山岳部から登山をしてきたような登山者には、”初級”だ。

だが、一般市民レベルからすると、体力度はかなり高度だ。 初級と言う意識でこれくらい歩けて当然だと思うと、ヘッデン下山になる。

その例は、八ヶ岳の赤岳で、一般登山のガイドブックでは最高ランキングのレベル5だが、山岳会の人にとっては「赤岳?日帰り当然ね」だ。(雪上訓練を受けていない人は積雪期の赤岳に行くべきでない。が条件が良ければ、無雪期より易しく歩ける。)

昨今の引退後の登山初心者も、引退後ではない、普通の若い人も、想像を絶するくらい弱い。

ガイドブックにある、コースタイムの1.5倍では、間に合わないのが普通で、2倍は軽い。

やはり、大人になって登山を始める人は、ガイドブックの体力度1から始めないといけない。

が、一般的な山岳会にとって、そのような山は、山のうちに入らないであろう・・・。先輩となる人たちは、コースタイム2倍だと嫌になってしまうだろう。

山梨の山でいえば、片道1時間の日向山などになるが、そんな山に会山行で行かないといけないとしたら、みな困ってしまうだろう。

北岳だって日帰りなのに、北岳は一般レベルでは体力度4の山だが、こうしたかけ違いを認識しないまま、初心者の新人を励ましの美学で、山に連れて行ってしまうことが事故につながっているのではないだろうか?

■ ちゃっかりもしている

一方、入会してくる人も、ちゃっかりしている。

 無料のガイド登山を期待ている → 高齢者のことが多い
 無料の講習会を期待している   → 若い人のことが多い

のどちらか、だからだ。 どちらも有料のサービスがあるので、

 山行計画を立てたくない
 リーダーをするのは無理でも、サポートするくらいでも協力をしたくない
 食当をしたくない
 共同装備を担ぎたくない
 地図を読みたくない

という、”無責任体質”な人は、山岳会に来るべきでない。

ある会では、

 「リーダーをしないといけないなら、ワタシ会を辞めます!」

と言い放った人がいたそうなのだが、そういう人は、率先して辞めたもらったほうがいいのである。

(だが、頭数が欲しいとそれもできないようだ)

■ 山岳会が腰が低すぎるのか?

私の師匠の言い分は、最近の山岳会は腰が低すぎ、誰でも入会させすぎ、というものであった。

上記のような発言を聞くと、たしかに、そうだと思える。

師匠は、私が2つ穴しかないバケツ型のビレイデバイスを購入したら、

「リードする気がない人には教えない」

と言い放った人である。芯が通っている。

■ イケイケ過ぎても・・・ 

しかし、リードのお許しは、ついぞ出なかった、アイスクライミング・・・(笑) 自立したい、という人にも、”下積み”時代は、予想以上に長いものなのである。 

これはクラックも同じで、ジャミングは微妙で感覚に依存する部分が大きく、確実性が得にくい技術なので、なかなかすぐにリードへ移行するわけにはいかない。

友人のクライマーのボヤキも「まだリードさせてもらえない・・・」というもの。共感する。

「みなさん、リードしたいってすぐ言うけど、しばらくは無理ですよ」とは、著名クライマーの現実的な意見・・・

落ちて死にそうな人はリードはまだ早い。

これは、行く山も同じで、前のパートナーは、三つ峠で3Pに2時間半もかかるのに、北岳バットレス4尾根に行くと聞かず、結局、説得できなかったためにパートナー解消となった。必要になる技術の見積もりが、新人は甘いのだ。これは先輩が言ってくれた言葉が納得性が高い。

「先輩、後輩ってある程度必要だと思うんだよね。後輩には、判断しようにも判断する材料が経験がないから、分からないんじゃないかな」

つまり、何が核心か分かっていないのだ、新人は。

体力とクライミング力があれば、行けると思っているんだが、どっこいルートファインディング力と読図力がないと、行っても取り付けず、ひどい場合には、4尾根とおもって、2尾根に取り付いてしまうし、登れたものの、取り付いたものの、家に帰れなくなってしまうのだ。

■ 講習会

しかるに、結局は、

 ・判断は謙虚に、臆病に判断し(自分は間違っているのではないか?と常に疑う)、

 ・山に必要な責任は積極的に担う

 ・リスクを冷静に見極めようと努力する 

ということが必要なのだが、これらの条件を満たした人材が豊富に集まるところ・・・といえば、

 講習会

というのが、私の出した結論だった。

もちろん、講習会も中身とレベルが重要で、地図読み講習会なのに、地図って上が北なんでスカ?みたいな”幼稚園レベル”の人が来てしまう。もちろん、学びたい心は素晴らしいのだが。

■ レベル分け

講習会では、レベル分けがある。この ”レベル分け”が、悪平等を好む日本人には、ソリがあわないかもしれない。が、大事なことだ。

1時間300mでゆっくり歩きたい人と、500mでさっさと歩きたい人が一緒にいても、目指している方向性が真逆なのだから、どちらにとっても楽しくないのだ。

初心者には、だれでもハイキングレベルの山を数多くこなす時期が必要だが、それが終わっている人が来るところが、山岳会であると思う。

が、そのハイキングレベルの山を数多くこなすことを一緒にやりましょう、という会があっても悪くないと思う。

要は使い分けだ。 混線すると、問題が増える。ハイキングの価値観を本格的な山に持ち込んではいけないし、ハイキングもできないのに、本格的な山に行ってはいけない。

普段タッチして、すぐ降りなくてはならないようなシビアな山ばかりをしている人も、すこしは、花について学んだり、動物を観察したりする時間や、郷土の山と人のかかわりを学んでも害にはならないだろう。

■ 行きたい山ではなく行ける山

結局、どのレベルであっても大事なことは、

 行きたい山ではなく、行ける山

という方針で動く事だと思える。私自身はそうしている。

”今あるスキルで行ける山”を選んできた。

ということは、つまり、以下のようなことだ。

雪上訓練とロープワークの手ほどきを受ける前は、厳冬期の赤岳は登らない。(事実、登ってもいない)

本式の滑落停止やアイゼン歩行を学ぶ前に行くべきでないと思ったからだ。

雪の岩稜歩行が必要となる、赤岳に行かなくてもステップアップできる山はいろいろある。体力で解決できる鳳凰三山もだし、ラッセルの山もそうだ。金峰山なら、厳冬期でも雪上訓練済みである必要はない。

■ 安全につながるステップアップの仕方

本式の滑落停止やアイゼン歩行を学ぶ前に、もしガイド登山で雪の赤岳に登ってしまうと、どういうことになるか?

たまたま登れたことや、力不足を自覚しない登山者になる。

だからガイド登山は選ばなかった。求めているものは、たまたま ではなく、

 確実で安定したスキル

だからだ。私は単独で雪の赤岳には登っていないが、雪の赤岳より難しい、横岳&大同心稜の縦走やジョウゴ沢のアイスクライミングルートに行った。ということは、今では雪の赤岳が楽に感じられる段階にいると考えられる。つまり、赤岳へ単独で行っても安全マージンができた。

仮に単独で登るなら、そういう風に、いつくか上の山に、仲間と経験として登っておいて、厚めの安全マージンができ、その山に行くのに何が必要なのかを理解してから登るのが、本質的な安全につながると感じている。

10の力をつけて、8の山に登らないといけない。そうすれば、8の山は、チャレンジ山行ではなくて、ご褒美山行になる。10の力をつけるには、12の山が必要だ。

■ クライミングの位置づけ

クライミングをしないと、山には行けない。

それを分かるようになったので、あまり興味がなかったクライミングも受け入れた。その仕組みは、こうだ。

山に行くには、ロープワークが必要だ
 ↓
覚えるには、日ごろロープに触れる機会が必要
 ↓
クライミングが必要
 ↓
クライミングするには、自分が良きビレイヤーに、まずはならないといけない
 ↓
ビレイをマスターしなくては
 ↓
ビレイを理解するには、リードしなくては
 ↓
リードするには、最低限クライミング技術がなくては
 ↓
ボルジム

だから、安全に山に登りたいと思う人は、クライミングは避けては通れない。

山岳会に来る人は、一か八か登山をしたい!という人ではないだろう、というのが、ごくノーマルな思考である。

そうであれば 自分の身の安全を求める人は、結局クライミングや自分がビレイするということは、うけいれなくてはならない。自分の身の安全を守ることだけを会に求め、自分が他の人の安全に対して無責任であればよいというのは一方通行だからだ。

なにも、誰もが5.15を目指せ、というわけではない。

ところが誤解が多く、その誤解は、誤解ということにしておくと都合がよいから、そのままにしている、というご都合主義が根底を支えている。つまり、甘えっぱなしを正当化するために”分からない人のフリを何年もしたままでいる”ということだ。

私が知っている例では、登山歴30年だと言っていたのに、2万5千の地図を持ってこない人がいた。当然だが地図読みも出来ない。できるのは後ろを歩くだけだ。それでは、自分は、仲間に安全保障されているかもしれないが、自分は仲間の命の安全保障に何も貢献していない。

みなクライミングには、まともに取り組まない。それはそのほうが楽だからだ。墜落死の危険があるトップは、人にさせてしまうほうが楽だから、”しない”だけなのに”できない”ということにしている。
(これは登山計画書の作成も同じことだ。)

実際、5.9が確実になるだけでも、ものすごい大きな努力の量が必要になる。それが分かるから、やらないで済ませるほうを選んでいるらしいのだ。

それは頼られるのが好きなリーダーにも、責任の一端はあり、持ち上げられて喜んでいるために、役割が固定してしまっているのだ。もちあげるほうには狡さが、持ち上げられる方には甘さがある。

しかし、難しいのは、本当に無理なところを無理強いして行かせてしまうと良くない。リードは危険が伴うため、自信がある人にしかさせてはいけないのだ。

「自信がない人にはリードはないな」というのも、山の掟の一つである。

■ 突っ込む人

登れる確信がなくても、フリーソロで行ってしまう、という人も存在する。何が危険なのか、まだ分かっていない人だ。

こういう人は逆に後続を危険に晒してしまう。その人と一緒に行く方が、単独で行くよりむしろ危険な人材だ。

「度胸は必要だが、度胸だけの人もちょっと・・・」

と先輩は言っていた。度胸には技術の裏付けがあってこそ生きるものなのである。クライミングシステムがどう命を保証しているのか、と言うことに対して、きちんとした理解が必要だ。 

そうした土台がなく突っ込む人とは一緒に行ってはいけない。

■ 一緒に行ってはいけない

逆に山岳会の方から、

 他会の人間と一緒に行ってはいけない

と言い出すことがある。会則に禁止がなくても、他会の人間と行くことを快く思わない会が多い。

しかも、会内では、行きたい山に募集を掛けても行く人がいないのだから、始末が悪い。

一緒に行ってはいけない、というのは、会がそれくらい、会員に対して責任感を持っている証だが、これは、年頃の娘に、父親が、デートしてはいけない、というのと同じようなことだ。

人は誰だってしたいことをしたいのであるし、したいことが提供できない会のほうが問題であって、その逆ではない。

■ 組織のための組織

また、会というのは、組織のための組織に陥りがちなのである。

つまり、会が存亡するために、頭数が欲しい、と思うもの。

それは活動の質よりも、組織としての体裁が歴史経緯的に必要になってしまうからだ。

どんな会社だって、創業50年でつぶれるのは悲しい。創業3年で亡くなるより、創業50年で無くなるほうが悲しむ人の量だって多いだろう。

しかし、生まれたものは必ず死ぬのである。大企業だってつぶれる時代なのだから、大きい組織ほど、矛盾が多くなり、形骸化・レガシー化して、名と体がチグハグになっていくのは仕方のないことだ。


■ 結局どうする?

 敷居を下げる → 来てほしくない人が来てしまう

 敷居をあげる → 来てほしい人まで来なくなる

と、さじ加減が難しい。

結局、企業のリクルーティングと同じで、

  来てほしいのは、どういう人か?を明瞭にしておく

ことが一番大事なのではないだろうか?

 一番ダメなのは、八方美人

である。あれもできます、これもできます、というのは、もっとも焦点が合わない。

企業も一昔前は多角経営の時代であったが、選択と集中の時代に転換してからも、もう20年以上たっているのであるから、20代も60代も、というのは、無理があることなのだ。

ということは、幅広い年齢層が活躍しています、と書いてある会へは若い人は行かない方がいいのかもしれない。

■ まとめ

以上、とりとめのない文になったが、私のアンテナにひっかかった先輩たちの言葉や見聞きした現実から、こういうことになっているようだと思える事例を取りまとめてみたもの。

あまり、ここから結論を出すということは意識しないでいただきたい。

ただ、1年半程度見聞きしてみたら、こういうことになっているようだ、ということだ。


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