Friday, September 11, 2015

色々な人と色々な山へ行く

■ NoのNo

私の記録には、

”スタートした頃は、こうだったけれど、今は〇〇山に登れる自分になった”

ということを主たる喜びとしている記録があります。それは改めて、どういう事か?と振り返ってみると、どれだけ日本社会が、

・人を見た目(先入観、常識…その他色々)で判断する社会か
・他の人の可能性を否定する社会であるか
・押し付け社会であるか
・提供側の理論優先の社会か

ということを表しているわけですね。昨日、上州屋に行って思い出しました(笑)。

ま、そのような”世間”は、無視しておけばよいです。というのも、違う”世間”もありますから。

余談ですが、世間と言うものは、ここ60年ほど、商業主義に傾いており、何もかも世間の言うとおりにしたら、ラットレースが待っているかもしれません。働いても働いても、働いた分のお金が出ていく構造になっており、何も得るものがないのが現代社会かもしれない…と思います。

例えば登山でも、世間の言うとおりにしたら?ガイドツアーで、山に行くたび何万円もかかります。

世間は”あなたのためだから”と言いますが、それって”一儲けしたいだけ”なんじゃないの~?

■ 強要に流されないのは大変

それは、さておき、ですが、日本人の場合、あまり反骨精神がないし、疑うということは良くないこととされ、素直や従順をよしとするため、「あなたにはできませんよ」と言われたら、10人中9人は、引き下がるのでは?と思います。

友人のデイビッドが最近、上腕二頭筋を断裂したのですが、”弱者の味方”であると一般には世間に認知されているハズの医者でさえ、「自然放置で治癒する」と誤診しただけでなく、その誤診を彼に強要するようでした。

友人は、体格は180cm巨漢で、ちょっと人に舐められるというタイプには見えない人です。そんなアメリカ人でさえ、お前の方が間違っている!と、圧力を掛けられるのですから、普通の日本人なら、10人中9人は、そうですか…と引き下がると思います。

そうすると、どうなるかと言うと、彼の場合だと、誤診で、腕力の40%で生涯をすごすことになる…。

大なり小なり同じようなことになっている日本人は多いのではないか?という気がします。

もし、私が登山の最初の頃に

 ”世間の言うことをきく良い子”

だったら、今頃、クライミングも沢もしていないで、小屋に泊まってガイド登山している、と思います。

■ 足るを知る

ただし、目標達成という充足感には、限界があります。どんなことにも成長の限界はあるものです。

大事なことは、足るを知ること。

ここからは自分の世界ではないな、という、引き際、ということが良く見えていないと、行き過ぎた目標達成は、挫折だけでなく、登山の場合は、死をももたらします。

つまり、いい気にならないってことですね。

■ 全体像を把握する必要

自分の落としどころを正確に知るには、広い視野が必要です。

例えば、今の登山の世界で、最先端を走っているのは、5.12クラスのマルチピッチをつなげたような登攀です。いわゆる”高難度アルパイン”と言う世界です。

今の時代のアルパインクライマーとして成功していている人たちは、この分野に所属しています。

で、念のため言っておきますと、そこは私の世界ではありませんので…(^^;)。

高難度アルパインは、今山岳部で山を始めたような若い男性が目指すべき到達点です。

たぶん、一般登山をする人からは、北岳バットレス四尾根に登るのと、高難度アルパインの違いは見えないでしょうし、同じようなものと感じられるかもしれませんが、それはまだ知見が広がっていないためです。

で、話を基に戻しますと、普通に趣味で登山をする人は、三級が主体のクラシックルートなどは、行って良いと思いますが、例えば、6級の奥鐘山など、行かなくていいですから!冬の黒部も趣味の登山家の領域ではないです。

■ NoのNoではなく、Yesを

否定の否定は、Yesか?というと違います。例えば、「ビールはキライですか?」と聞かれれば、多くの人は、「きらいではありません」と答えるでしょう。しかし、「ビールを好きですか?」と訪ねられれば、「好きではありません」と答えるかもしれません。

好きということと、好きでも嫌いでもない…ということはあるからです。

大事なのは、好き!を見つけることです。 Noから始まると、見つけにくくなります。

■ 肯定を見つける

では、本物の好きはどこにヒントがあるのでしょう?

それは過去にヒントがあります。何かを羨ましいと思ったことは、たぶんやるべきということです。

で、私は海外出張に出ている時に、バックパッカーがちょっと羨ましかったんです。その同じ出張で、波止場にある長いクライミングウォールに、誘われて、びっくりして断ったことがありました。

それらはニュージーランドのウェリントンでの出来事でしたが、もとの羨ましさの種は、学生の時、住んでいたサンフランシスコにあります。

また沢の原点は、生まれ故郷の菊池渓谷で子供の頃遊んだ記憶にあります。

今、私の山は、否定の否定はとっくに終了し、目標達成はお腹いっぱい。

さて、何をしましょうか、という地点にいます。

ですから、今からやっと本番の山という気分です(笑)

もう、ノルマは済ませたので、あとは好きにやるわよ~というわけです。

■ 嫉妬という問題

自分の実力を不安に思っている人には、私のような娘っこが世間から本格的といわれている登山をしていることは、自分の実力への脅威に映っている、ということは理解できます。

・・・が、それは本人が本物の山男でないという問題であって私の問題ではないかもしれません。

本物の山男からすると、私がやっていることは、ひよっこレベルなので、本物の方には、まったく何の脅威にもなっていません。

何しろ、もっと上があるし、上の実績を持つ女性登山家はいっぱいいるからです。そうした期待に応えることは、わたしにはできないような気がしますし、別の人にやってもらいたいなと思っています。

という訳で、私は私らしい登山を見つける、という段階に来ました。もう世間に自分が何者かを証明するために山に登る必要はないのです。

■ 色々な人と登る

・・・という段階なので、私は色々な山のスタイルを知りたい、と思っています。

山は十人十色。どんな人からも何かしら教わることがあります。

それで、今は、色々な人と山に登るのが楽しい、わけです。

やはりアルパインスタイルの考え方で登っている人たちとは、基本的に趣向が合うようです。

実は、生活を共にしていて性格も把握しているはずの夫と歩くより、アルパインを分かっている人と歩くほうがストレスがないです。

つまり、

 軽く、スピーディに登る

ということです。軽さはスピードに、スピードは安全につながるからです。

だからと言って、トレランは、安全に必要なギアまで割愛しているので、どうなのかなぁ~と思いますが、トレランも少しくらいはやってみてからモノを言わねば、と思っています。

大体やったこともないのに悪口を言うのはズルです(笑)。

それは”山やじゃない”と日本の山ヤから否定されているバックパッキング(=ロングトレイル)も、かもしれません。

■ 山と向き合う

山と向き合うと言うのはどういうことか?

というと、やはり、自分の力を過信しない、ということだと思います。

バリエーションルートに行くには、リーダーが必要ですが、リーダーにお任せの山行ばかりの人は、なんという山域の、どういう性格のルートに行っているのか?それさえ理解してないで、ルート名の凄さだけを吹聴します。

でも良く聞いてみると、自分で計画していないし、自分で担いでいない。何処へ行くかも、何時までに登頂して、何時までに降りるかも、ルートファインディングも、リーダー任せ。頭脳ではなく、手と足なのです。

それでは、雪の奥穂に登ったとしても、一人では高尾山にも行けないのでは、その人の実力は高尾山未満、ということです。

地図読みができない人は、本当は一般道レベルのスキルです。ロープの出し方を知らない人もです。自分の前にロープが降りてきて当然ということに慣れてしまうと、自分の力を必ず過信します。それには気を付けないといけません。

地図を自分が持って行かなくても、他の人がもっているだろう…と持って行かないのは甘えです。人間は弱く、間違いを犯す生き物ですから、用意した地図を玄関に置き忘れ、それを他の人が地図を持っていたおかげで助かった、ということは助け合いです。

しかし、最初から当てにしているのは、助け合いではなくて、依存です。

私は最初は単独行で山を始めました。ですから、また単独に帰ることがあるかもしれません。

実は、ソロイストの使い方を知りたいな~と思ったりもしているので、そのきらいはすでにありますが、今のスキルで岩や沢の単独はない、と自分を戒めています。

そういう検討がなく、自分の力を誇示するために単独で沢に入るのは、とても危険です。

それで、かぎりなく単独に近い感覚で一緒に遊べる仲間ができたらいいなぁ~と思いますが、それは高望みであるいうことは、分かっているつもりです。それはクライマー誰しもの願いですね。

■ 良くないと知りながら・・・

実はよくないと知りながら、甘えていることもあります。

例えば、ある友人はまだロープワークできません。けれど沢に連れて行ってしまいました・・・。地図読みもたぶんできないだろうとは分かっていますが。

例えば、峠沢に行った人は、アコンカグアに登った実績があるけれども、地図は読めません。危険の認知もできないので、本当を言うと、その人には、まだその山に登る資格はありません。

ホントは良くないことだとは思っているのですが、連れて行ってしまいました。それは、私自身が、まだ技術が未熟な段階でも、そうした本格的な山に、ガイド登山や師匠に連れられて行った山で、開眼した経験があるからです。

そうした経験で何かを掴んでくれないとも限りません。

私なりの縦のギブアンドテイクなのです。

山って、どんな山に連れて行ってくれるか?で、その山ヤの想いが、伝わるものです。

■ 連れて行くも相手次第ギブアンドテイクにならない

いわゆる”連れて行く山”もやってみました。厳冬期の金峰山は、その山に登る資格がない人と分かっていましたが、会への貢献を意識していたため、全面的にガイド状態で”連れて行く”ことになるのは分かっていました。がやってみました。

何事もやってみないと分からないからです。

その後その方は単独も試してみるようになり、好感をもちました。でも、意図はまだよく分かりません。単純に反発の可能性もあります。というのは、行っているのは、地図なんていらない一般道の山だからです。地図読みが自分の弱点とは思いたくない、ということかもしれません。

”連れて行く”という山行は、すべて悪いわけではありませんが、相手の理解度による、ということは言えます。

なので、それ以降は、理解度を見て、あまり当人の実力とかけ離れた山へ、ということはやらないようにしています。

例えば、伸ばしてやりたいと言う思いから、大きすぎる山に連れて行くのは、本人には良くないことかもしれません。その時その時に適した山をしない場合は、どうしても過信が生まれ、それが本来のやるべきことをやらない姿勢につながるのかもしれません。

■ 垂直志向と水平志向

山のサイズを大きくしていくには、水平と垂直が必要です。

水平は距離を伸ばすこと、つまり歩きです。私は、今のところ無雪期4泊5日、積雪期2泊3日泊ままりなので、伸ばしていくべきですね。

垂直はクライミング力をあげることです。

どちらも少しずつ大きくしていくことで、山が大きくなります。

ただ、一般に日本国内の山では、登攀と言う面でいうと、5級以上の登攀は必要ではありません。つまり、5級が登れたら、日本のクラシックルートは、どこでも登れてしまうと言うことです。

ということは、私はすでに5.10aが登れるので、登攀力は、趣味で行くアルパインを考える限り十分、ということになります。

体力は、厳冬期の甲斐駒が普通に夏道コースタイムで登れるわけですから、趣味で山に行く限り、これも十分。

登攀力UPのためにクライミングジムにあしげしく通う必要があるかと言うと、たぶん違うな~とは思います。それでもやっておけば、山が広がることは確かです。

では、長期の縦走をしておくべきかというと、まぁ時間があればやったらいいということです。何かを犠牲にしてまでやらなくていいかもしれません。

それは私が求めているものが

記録の更新

とかではなく、単純に趣味としての冒険、だからです。

というわけで、後は、色々な山を知って、山そのものに対する知見を深めていく、という段階にあります。

今から、自分の山を見つけ、形作っていく、ということです。






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