Thursday, April 2, 2015

どこに登るかではなくいかに登るか?

■ 年齢は関係がないかもしれない

先日、年上の女性の先輩と3人で山に行き、すごく楽しかった。

ひとりも、他の人に便乗して、ついていくというような人がおらず、山中をほっつき歩く山歩き。

すごく楽しかったので、それはなんでだろう?と考えている。

■ 色々と違いを考えてみる・・・

計画段階では、計画書は私が作成した。が、別に念入りにルートの選択したわけでないので、負担は、ほぼゼロ。

タノシクナイ山行の時は、計画段階で、理不尽な注文を付けてくる人がいる。その注文の内容を見ると、単純に自分ちから近くしたい、とかそういう内容で、それだったら、その人の条件は、家が近い人と山に行きたい、ということになるので、それを先に言っておいて欲しいなと思ったりする。

谷川方面だと、私は一泊二日以上なら行きたいなとおもったりするので、それは相手へ伝えても、別に失礼にはあたらない。師匠は山梨に来てくれる時は遠いので、一泊以上の山にしてもらっていたりする。やはり元が取れるか取れないか、というのはあるのだ。

変な注文が付かなかった理由は、今回の兜山は、基本的に親睦の山だという風に、テーマが共通認識されていたのだろう。つまり、山自体はどこでもよかった。だから山に注文つける理由はないわけだった。

お誘いしたIさんは、数年前にツルネ東稜から権現、川俣尾根というルートをご一緒した方で、66歳だが、強さは保証済み。20代から長いこと山をやってきたベテラン山屋さんだ。それで、同じくベテランの御坂の先輩と会ってもらった。二人が合いそうだったから。私が引き合わせたかったのだった。

ちょっと故障しているとのことで、楽な山で、甲州高尾山は、どうかなと思ったら、先輩の提案が兜山。どちらも、あまり変わりはないので、兜山。誰も異議なし。そんなことで意義申し立てしても仕方ない。でも山岳会では多い。

「〇〇な山に行きたい」という人はいなかった。「兜山?行ったことあるから行かない」なんていう人もいない。それは当然だが、その当然ができない人もいる。 

山は、テーマがはっきりしているものだ。初めて会う人との山は、はっきり言わなくても、テーマは”親睦”だ。

親睦がテーマの時に、「行ったことがある山だから嫌」も何もないしな。親睦だから、安全のためには、易⇒難のステップを踏まないといけない。だから、山は易しい山なら、何でも良く、時期的に花が良いから、見れれば儲け。見れなくても損はなし。

そういう位置づけを理解していることが大事だ。こういうのはベクトルが揃う、という言い方をすればいいのだろうか?

・山行計画の負担が軽い
・ベクトルが揃っていた
・山行のテーマが共通認識されていた

■ 当日もまた楽し・・・

兜山は、地図は付近を印刷したが、ルートは決めず、当日朝、相談した。

もしこれが、テーマがチャレンジの山ではこうはいかないだろう・・・。地図にありとあらゆる書き込みをしていくだろう。

二人ともベテランだし、バリエーションルートも知っている人たちなので、そのくらいで十分と思っていた。

ちゃんとした山ヤがどんなものか、という共通認識があったのかもしれない。

たとえば、変に山の数自慢をする人はいなかった。前に五竜の山頂に行った時に、「おたくは何個目?」と聞かれたときには興ざめだった。

地蔵をテント泊縦走していたときは、おばちゃんがルートを外して行っているのに気が付かず、どんどんと進んで、岩稜を登れちゃった自慢話をされて、それは自慢ではなくて、恥ずかしい失敗談なので、返答に窮した。自慢には全然ならないことを自慢されると、山を分かっていない証明にしかならないので困ってしまう。

そういう風に価値観が混乱している人がいなかったのが、良かったのかもしれない。みなまっとうな神経の持ち主だった。

けれど、「我が家は裏山が大室山」 「うちは、15分で茅ヶ岳」 「私は歩いて愛宕山行けます!500mくらいの小さい山だけど」

・・・ってな具合に、毎日山に行けるくらい、山に近いことが自慢の種になるのは、ほほえましかった。それは価値観に沿っているので、あまり変な感じはしないのだ。

都会の山ヤさんだと、やっぱり八ヶ岳に別荘を持っている、などは自慢の種になるだろう。

今回は日帰りというのもあるが、装備の相談も不要だった。山を見れば分かるし、相手の知識を当てにできたからだ。楽でよかったなあ。

ルートが長すぎて大変、などと変な文句を言ってくる人もいなかった。そんなの、自分で行く前に山を見て、自分には無理と思ったら自己申告するものだ。

・地図を持ってきてください、などとやって当然のことを指示しなくて済む仲間
・装備も指示不要
・ルートも事前研究不要
・お客さん意識の人なし
・現場判断での山

■ まとめ

というわけで、まとめると…

・山行計画の負担が軽い
・ベクトルが揃っていた
・山行のテーマが共通理解されていた
・当然のことを指示しなくて済む仲間
・装備も指示不要
・ルートも事前研究不要
・お客さん意識の人なし
・現場判断の山

これが足が揃っている、という意味なのだろうか? 

実際の山行は現場判断でOKで、結果として、こっち行こう~と相談しながら登れ、楽しかった。

適当に尾根を上がって行ったというのは、ジョウゴ沢でも同じで、楽しく登れたのは、同じだが、ルートファインディングの難易度としては、兜山の方が断然難しく、下りの尾根だし、間違うことも入れ込みながら、周辺の尾根を見ながら、推理して、現在地を理解する。その辺のことも、皆が思考回路を同じくしていた。

例えば、しばらく歩いて行くと、顕著に左手に尾根が見えたとき、降りる尾根を間違ったことに気が付いたし、…ということは、沢の出会いより、少し前で沢に降りるので、次に尾根に乗るところは結構すく見えて来るだろう、とか、古い道を次は探さないといけないな、とか。ルートファインディングにおいて次に出てくるものを皆が予想しているのが分かった。

誰も思考停止に陥っていないということで、それが山を面白くした原因かもしれない。

結局、どこの山に登るか?が問題なのではなく、いかに登るか?が問題なのかもしれない。

いかに登るか?については、どうやったら、そのいかに?を作って行けるのか?その辺の運営が、もっとも難しいところなのかもしれない。

共通認識をいかに作るか・・・ 山行をともにしながら作るしかないんだろうな。

No comments:

Post a Comment