Monday, March 16, 2015

私の登山論 

■ 山書 『いのちの山』 古川純一

今日はどんどんお天気下り坂・・・

朝、フィフィの記事を書いて、スクリューの記事を書いて、登山計画を立て、買い物へ出かけ、後は家で片づけ物をしてから、古川純一さんの『いのちの山』を読んでいます。

私は、本は前から順に読みません。目次を読んで、気になるところを読みます。なので、最初に読み始めたのはアルパイン論です(^^)。

アルピニズムが何か?については、私は自ら論じれるようなものは、まぁ当然なのですが、持ち合わせていません。

今教わっているところ(笑)。

私はあまり岩稜帯には興味がないので、記録を読んでも行ったことがないところだと、ピンときません。

ので、興味のない、剣や谷川岳は飛ばして、興味があるところだけを拾ったら、八ヶ岳の縦走で、あるはずの小屋がなかったこと、甲斐駒の日向八丁尾根で、たぬきに襲われた?ことなどが出ていて、面白いです。甲斐駒は研究したいので、こういう紀行文には興味がわきます。 

■ アルピニズム論 

古川さんのアルピニズム論で、時代を感じたのは、スポーツとの比較論から入るところです。つまり、スポ根との比較ですね。スポーツには目的がない、のだそうです。

わたしはてっきりスポーツというのは、健康を目的にしているのだと思っていました。それは、現代が高齢化社会であり、スポーツは大人が健康の目的で楽しむもの、になったからですね。

要するに体育会系部活のノリを古川さんは前提にしていたようです。それだけでもずいぶん時代の流れを感じます。

私の若いころ、既にスポ根はかなり下火でした。しごきとか体罰が社会問題化した時代です、戸塚ヨットスクールのような事件がありました。

登山は、心身の鍛錬だの、不屈の精神を養う目的で、なされるものだったようです。スポーツは好きだからやるのだ、無理強いは良くない、と、今だったら、当たり前すぎて、誰も問題にしないようなことを言っています。

登山は無駄な活動だとも言っています。私も同意します(笑)。食べる、寝る、働く、色々とある中で、別に、山に行かなくても人間は困りませんから。

ただ人はパンのみにて、生きるに非ず。生きるのに必要な本能的な活動と、昔だったら狩りにあたる、現代での仕事、を除く他の活動は、人間にとって意味がないのだろうかとなります。

いつだったか、芸術家に聞いたのですが、もっとも芸術が栄えた時代は、私有財産がない時代だそうです。つまり蓄えることができない、と人間は意外にも結構、余暇の時間があったみたいです。

おそらく現代人が忙しいのは、尽きることのない欲に動かされているからでしょう。一生分をため込むまで安心できないのなら、一生働きづめなのは、当然の帰結です。貯め終った途端に人生まで終わってしまうのでは、何のための人生でしょう?

登山がやってもやらなくても良いような活動、レジャーの一種であることは間違いないことです。

では、人はなぜ登山に魅かれるのでしょう?

登山は、魅力的な活動です。それは、山行そのものだけを見てもそうだし、登山という文化自体も、取組む甲斐がある厚みがあるから、です。

例えば、この古川さんの本のようなものがあるからです。つまり、文化的なもの。

登山は文学と言う面で見つめることも出来るし、自然科学という面から登山を見つめることもできるし、環境問題と言う切り口もある、民俗学という切り口もあれば、高山植物という切り口もある。多様なのです。

■ 登山も総合芸術

バレエは総合芸術と言われますが、登山も似ています。

登山にまつわる世界そのものが、文化的・地理的・歴史的奥行きがある。発見があり、面白い。スポーツ的なクライミングだけが登山ではないです。

私はテニス部でしたが、テニスの歴史について興味がわくことはあまりなかったです。

バレエは親元を離れてすぐ開始し、20年続けた趣味で、海外にいる間は、そこでレッスンも受けましたし、バレエ史も知っていますし、あらかたの作品についても知っており、音楽を聞けば作品名が分かり、著名なコリオグラファーの通訳を務めたこともあります。スタジオに入って、「はい、アラセゴン2番から、プリエ」と言われても、何の問題もありません。

逆に言えば、バレエは総合芸術と言われ、深みがあるから続けられたと言った方がいいかもしれません。

■ 山切れ

私が山に行くのは、やむに止まれぬ事情からです。なぜでしょう、しばらく山に行かないと、山切れしてしまうのです・・・(^^;)。

だから、一緒に行く人がいなければ、一人でも行きます。

私は槍穂に憧れたことはありません。けれども、空中散策はしたくなり、年に一回くらいはロングな稜線歩きをしたいです。

≪登山の魅力≫
1)単なるスポーツではない
2)競争がない
3)勝敗がないが成否がある
4)自然の中で過ごすことができ、毎回発見がある
5)良き判断力が必要 登山は決断の連続
6)内省的であり、すべての登山は個人的な体験であること
7)知的・文化的である
8)尾根、沢、岩、アイスクライミング、山スキーと活動に色々な幅があること
9)健康に良い
10)世代間の交流がある
11)計画、実行、振り返りと3回楽しめ、4度目は後年写真を見て楽しむこともできる
12)日本に居住する優位性を味わえる
13)旅行的要素がある
14)チャレンジがある
15)謙虚さを育てる
16)男女差が比較的少なく、年齢によるハンデが少ない

≪登山の欠点≫
1)遭難
2)怪我や疲労
3)不可抗力の事故
4)混雑
5)環境汚染
6)依存の助長    ← ツアー登山、連れられ登山
7)傲慢・尊大さの助長  ← クライマー
8)ウエアやギアが高額
9)時間(休み)が必要

でも、これまでの経験から、良く気が合うタイプの人は、探検好きで未知なるものへの希求心が強い人が多いように薄々感じています。知的なタイプであって、体育会系ではないかも?

■ 次々開くドア

私は、登山は甲府での生活を充実するためにやっています。

もし登山が無かったら、今頃、することがなくて、鬱々とした生活をしているかもしれません(笑)。

何しろ失職したので、前にやっていたような、やりがいのある仕事ができるか?というと、ちょっと怪しいです。夫の愚痴を言いながら高級ランチにでかけるような有閑マダムな生活になってしまうかもしれません。

もともと探究心が旺盛なので、甲府に来る前は、仕事でその探究心を発揮していました。

私は、夜学の学生だったので18歳のころからフルタイムで働いていましたので、大学を卒業した時は、社会人として、すでに7年目。今更、新卒扱いされる必要があるとも思えず、最初から中途採用で、即戦力として採用してもらい、その成果を出してきました。

上司に指示をされないと、何をして良いか分からない、という働き方はしてこなかったのです。

その結果、引抜にあったりして、何回か転職しましたが、私は職業的な充足や成功というドアを次々と開けていました。

必要ならば、社外で勉強をして、一定の到達点まで来ましたが、夫の転勤に伴って甲府に来たことで、職業人生は一旦停止です。

今はヨガを教えていますが、自分のスタジオを例え開いたとしても、投資の元が取れる前に転勤になってしまう可能性があります。

ですから、今現在、職業的な成功という意味では、ドアを開けても仕方ない。

それで、この、神から突然与えられた、休暇のような、ぽっかり空いた時間を何に充てようか?となったわけですが、これまで職業人生においてやってきたようなことを、趣味においてやることにしました。

その趣味には登山を選びました。すると…、結果として、今ある登山の形になりました。

目の前のことを丁寧に紡いで行ったら、どんどん道が開けた、ということです。

目の前のことを丁寧に紡ぐと言うのは、山に行ったらヤマレコに記録を書き、『北八つ彷徨』を借りたら読み、ピッケルより地図読みでしょ言われたら地図読みに取り組み、スノーゲインに行き、今の靴ではだめだと分かれば、買い物に東京まで出かけ、『八ヶ岳研究』を貸し出されたら、ついでに日本登山大系も読み、山であった人と山行に行き、これ以上のステップアップは、個人山行は無理と分かれば、講習会のドアをたたき、そのために山小屋で働いて費用ねん出し、仲間が必要と分かれば、山岳会を検討し、県下の全部を比較する、というようなことです。

そうしているうちに、私は登山5年目の割には、良くやっているね、と評価してもらえるようになりました。

ヨガでは、祝福がある分野、という言い方をします。扉が次々開く感じです。まだ道は続いていそうです。

私は、おのずと開けた道を歩きたいのであり、登山という道を、無理やりこじ開けてまで歩きたいという気持ちはありません。

例えば、ツアーの団体登山に見られるように、山を凌辱してまでは登りたくはないのです。

さらに言えば、ガイド登山でのバリエーションルート攻略のように、経済力で山を買うような登り方も今の生活の優位性を生かした登り方とは思えません。

もちろん、私たち夫婦も共働きで息つく間もないほど働いていました。そんな都会生活者の立場からすると、金で済ませられる問題は金で済ませたいものですから、都会にいた頃は色々な意味で、時間を金で買っていました。それも分かるのでそうした登山を否定するものではありません。

金を持っているか?時間を持っているか?という、どういう資産に自分が優位性を持っているか?の違いだけです。

今は時間に優位性があるので、その優位性を生かせる活動として登山が魅力的なのです。もし、登山が経済的優位性がないとできないものなら、最初から取り組みません。つまり、もし4万円もかかるなら、南沢大滝に登らないでいいや…ってことです。

私は、今ある目の前の道をしっかり歩いて、見えてきた頂に登る、そうした登山活動をしたいのです。

それが結局、山で死なないためには重要なことのような気がします。



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