Monday, March 2, 2015

山書 『目で見る日本登山史』

師匠がアイスクライミングの歴史をちょっと教えてくれたため、興味を引かれ、日本の登山史の本を図書館で借りてきた。 以前の記録

 

登山史については、総合センターの講習会当時も、ちょっと勉強した。登山史の概説くらいは知っておこうとは思った。

■ バリエーションルートと新人の距離感

が、当時は私は、一般登山者と本格的登山の境界線も分かっておらず、したがって近代登山の祖とか現代の登山の課題、という身近に感じられる問題意識のところ以外は、あまり意識に留め置かなかった。

私が行きたいのは、人が踏んでいない雪稜であり、雪中泊であって、冬壁という”本格的登山”へ向かう気がなかったので、バリエーションルートの初登が誰かについて、知っても仕方なかったのだ。

誰でも歩ける、一般ルートの初登については知りたいと思ったし、特に山梨の周辺の山については、私が目指している登山が地域に根付いた登山だったので、記憶に残っている。例えば、梨大山岳部と聞けば、積雪期南アルプス全山縦走をしたなと思うし、白鳳峠は白鳳会が開いたルートだと知っている。

■ 反発から自分を探る 

登山を始めた頃、「御坂山塊を歩き尽くしたら?」と言われ、非常に心外だった。美しい八ヶ岳の雪の世界が待っている時に、なぜ?と。それも”歩き尽くす”という、地理的空白を埋めるためだけの活動、何が目的なんだ?そんな暇人じゃない、と思った。

実際にも、初めて行った山は、八ヶ岳の西岳と三方分山で、西岳は気に入ったが、三方分山は気に入らず、むしろ単独を基本とする私は行くべきでない、怖い、と感じた。

見知らぬ場所、美しい場所に行きたい。それが動機だ。

それが可能な時に、ただ歩き尽くすために山を歩くなど、時間の無駄に感じる。また、”地理的空白を埋めるために歩き尽くす”というような、発想も嫌いだ。

気に入っている八ヶ岳でさえ、歩き尽くすという発想で歩いていることはない。同じところを飽きずに何度も歩いているので、分かるだろう。

一方で、自然は豊かで美しく、どのような場所でも山を歩けば、楽しい新しい発見があると思う。先日は、大室山に行って、すごく楽しかったし、女山や節刀など、今年の冬の会心の山はみな、小さい山の冒険行だ。

■ キワ物?

先輩はこうした山を”キワ物”と自嘲気味に呼ぶ。けれども、私には少しもキワ物に感じられない。

むしろ、自分でルートを設定して歩く山は、王道に感じられる。小さい山でルートファインディングできないのに、どうして大きい山で、バリエーションルートで、出来ると思えるのだろう? 

バリエーションルートで、ルートミスして遭難未遂へ至った登山者の反省禄に、ルートファイについて、「人は人に助けられてしか自然の中に存在できない」という感想があった。この人は、四尾根と思って二尾根を登ったのだった。この感想など、私には登山者としての成長の放棄宣言にしか聞こえない。

ありのままの自然と自分との対話が登山ではないのか?この人は、先人の残してくれた残置との対話がしたいのか?

そもそも登る尾根事態を間違う事態に陥るのは、クライミング力以前の実力不足なのではないのか?なぜ自分の力量への反省はないのか?

残置を追いかける、岩登りが正しい岩だと思ってしまうのは、人工壁で同じ色のテープを追いかけるからではないのか?

本当は岩の弱点を読み、自分で自分が登るべきルートを発見できる力を付けようと思うことが大事なのではないか?

それは、一般ルートで赤布を追いかける登山、つまりハイキングと同じではないのか?

■ 漂泊観

この本によると、日本の伝統としての登山は、”漂泊観”と表現されている。

漂泊観、まさに私が山で自由を得たなと思う時の感覚と同じだ。

それは、この本によると、アルピニズムの正反対とされている(笑)。

でも、正直、一番”漂泊”できるのは、ルートが明白な縦走路だし、藪の隠れた雪稜であり、間違えようのない一本道となって明瞭に示されている、縦走路や細い尾根だ。それらで”漂泊”できなかったら、一体どこでするんだろう?

痩せ尾根は歩いてください、と山が言っているように見える。

ということは、八ヶ岳のようなご近所のアルパインとはなんなのだろうか?要するにスポーツクライミングなのだろうか?それとも、ギアを頼らないと言う意味でのフリークライミングなのだろうか?単純に登れさえすれば良く、歩くのが嫌いな人のためのルートなのだろうか?

■ 相反する世界?

”アルピニズムと低山趣味の応酬”という小見出しがあるくらい、アルパインと低山趣味は相反する価値観らしい。

低山の側は、静観派と呼ばれるのだそうだ。その潮流を担ったのが、”霧の旅”という会だそうで、エリート登山家が顧みない低山趣味に徹したのだそうだ。

顧問・長老は、小暮理太郎、田部重治、武田久吉、担手に尾崎喜八。柳田国男の、深田久弥の名前も見える。霧ヶ峰の小屋が挙げられているのが印象的だった。私と夫も霧ヶ峰で山を始めた。また厳冬期に行きたいくらいだ。

興味深いのは、これら二つが相反する要素として考えられていることで、同じ地平線に続くものではないと考えられていることだ。

しかし、未知のルートを探すという、冒険的要素を抜いたら、アルピニズムは、タダの苦行か、山を征服する、という傲慢の活動に陥ってしまうのではないだろうか?

バリエーションルートという言葉そのものが”より困難”と言う意味だからして。

それには、小さい山で、ルートファインディングできない人がどうやって大きい山でルーファイするつもりなのだろう?

他にも相反するとされる要素がある。それが、門外漢にとっては意外な発見で面白かった。

相反する要素
  1. 信仰登山 vs 物見遊山
  2. エリート登山 vs 強力
  3. 登頂 vs 縦走
  4. ブルジョワ登山(慶応ガイド付き) vs プロレタリアート登山(早稲田 人夫付き)
  5. エリートのヒマラヤ登山(大学山岳部) vs 谷川岳(社会人)
  6. アルピニズム vs 低山趣味
  7. 極地法 vs アルパインスタイル
  8. 大学山岳部(リッチ) vs 社会人山岳部(貧乏)
  9. ヒマラヤ vs 国内の岩と氷
  10. ヒマラヤ vs ヨーロッパアルプス
  11. 冬山登山 vs ゲレンデスキーヤー

近しい要素

  1. 学校登山&女子登山&信仰登山
  2. 探検&渓流の遡行&黒部&奥秩父&漂泊観&山旅
  3. 学校山岳部&アルピニズム
  4. 槍&アイガー&涸沢
  5. 積雪期初登頂&スキー
  6. マナスル&極地法&集団行動
  7. スキー&大衆化
  8. ヨセミテ&フリークライミング
  9. フリークライミング&スポーツ
  10. エベレスト&大衆化
  11. 高所登山&パック旅行
  12. スポーツ化&レジャー化
  13. 百名山&オーバーユース&中高年&遭難


■ 現代のテーマ

・自然保護、芸術の山、思索の山。
・冒険⇒スポーツ化、レジャー化は、登山そのものの価値観の崩壊

これらの要素の中で、くくれる共通項を探すと、

 お金の有無

が出てくる(笑)。

社会人山岳会は、基本的にはお金がないほうに入るらしく、また海外に行くための組織力もないらしく、そうなると、海外の山の代替えとしての、国内のバリエーションルート、谷川岳、穂高の岩場、ということになるらしい。

思うに、現代は以前と違って、海外登山の敷居が非常に低くなり、経済的なゆとりも、体力的なゆとりもある、大学山岳部時代に、高所登山を経験させたい、と、この時期に高所登山を経験することが多いのではないかと思う。

しかし、大学山岳部の高所登山は、伝統的に見ても、国内のバリエーションとは対極にある登山スタイルのようだ。

オマケに今の時代は高所登山はパック旅行化されている。となると、高所登山でリーダーを務めたからと言って、国内のバリエーションでも務められると考えるのは、短絡すぎるのではないだろうか?そもそも、どうも性質が180度反対のようなのだから。

それが、この登山史の本を読んで透けて見えたような気がする。

また 

大衆化=集団化

であるようだ。山ほど集団化がそぐわない場所もないように思う。人数は増えれば増えるほど危ない。私の意見では4人がベストだ。

レジャー化、観光化、スポーツ化、は、アルパインの進化には、逆のベクトルだと言うことを改めて確認した。










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