Friday, January 9, 2015

厳冬期金峰山

今日はベッドの中で身体が鉛のように重い。まるで全身鞭を打たれたようだ。

昨日は金峰山に登ってきた。冬の金峰山は3度目だ。初めは夫とは親しいガイドと夫、女友達と。昨日は山岳会の先輩。

■ 計画

登山を趣味にしていると、天気予報を見ることは日常になる。そして、雨の後の、この3日間は連日晴天だということは分かっていた。

今シーズンは冬山が充実していない。

11月最終週は毎年つばくろ、と決めていたが、今年はスタッドレスを履けなかった。12月もバタバタしている間に過ぎてしまい、去年の初心者の当時でさえアイスクライミングに2度も行ったのに、今年は行けていなかった。パートナーがいなかったのだ。正月は夫と鳳凰三山と決めていたが、それもかなわず。

冬山合宿が大きな山行なので、まぁそれでよし、とすることにしていたが、これも不発に終わった。

山は心を満たすもの。

なので、自分で行けばいいのだが、山岳会に入って1年のあいだ、会を優先することにしていたため、誰かと一緒に行く山を優先する心の習慣がついてしまって、一人だと何か背中を押すものが足りない気がしてしまう。反省しなくてはならない。

裏山にトレーニングがてら一人で散歩に行っていたころはそれが出来ていた。が、散策を辞めてしまったのがいけない。

裏山は美しいブドウ畑だったが、それが太陽光発電のパネルに置き換わり、思索の道にふさわしい風情を失い、そのパネルを眺めていると、人間の浅はかさしか感じなくなってしまい、それが元で足が遠のいたのだ。歩くのはどこでもよいという訳にはいかない。

そういうわけで、今シーズンは山と遠く、心が満たされていなかった。

そして、絶好の山日和り。

最初は金峰山ではなく、八ヶ岳を一人で縦走しようと思っていたのだが、八ヶ岳は私にとって、慣れっこになってしまい、冒険がない。小屋泊だと大名登山になる。大名登山にはもう慣れた。かといって厳冬期に一人でテントを担いでいく山は大きすぎる。

週末の3連休の予定を考えていたら、八幡山を思いついた。素晴らしい思いつきだ。八幡山が出てきた時点で、金峰山に行くことを決めた。というのは八幡山は金峰山の前座だからだ。偵察になる。

金峰山に行くと決まれば、誘うべき人は一人だった。行きたい、と言っている人を知っていたから。ただ、予定が急すぎたので、参加が難しいかもしれない、ということだけだったが、運よく、一緒に行けることになった。

■ 感動(=幸福)の本質

同行者はKさんだ。山岳会の先輩で三年目だが、若いときに山岳会で活躍し、厳冬期北岳も経験済み。女性だから子育て期間の長いブランクを経て復活したところだそうだ。良く歩きこんでいて、脚が強い。だが登山技術には全般的に興味がない。

Kさんを誘いたかったのは、それは、是が非にも、自分の力で歩ける範囲の山にだって、素晴らしい場所はたくさんある、ということを理解してもらいたかったからだ。

多くの人は、自分程度の脚力や技術では、大したところに行けやしない、と思い込んでいる。そうした思い込みは悲しい。

私には、発想の乏しさ、創造力の敗北、に思える。単純に私の強みが企画力だからかもしれないが、これまでの人生で私は創意工夫で苦難を乗り越えてきたと思っているからかもしれない。

山の素晴らしさは、その人の脚力なりに、素晴らしい場所がいくつもある、ということだ。

歩く力が1としよう。その力1で行く場所は、歩く力が5の人が行く、レベル5の場所と等しく素晴らしい。

例えば木曽駒。脚力1だとロープウェーで上がれる。私たちが通った上松Aコースは脚力5。スヤマ尾根で行こうとするとさらに上。でも同じ木曽駒。

歩く力が1しかなければ、素晴らしい場所の素晴らしさは、5の脚力で行く場所より、劣る、と皆感じる。それは、ある意味正しく、ある意味間違っている。

正しい面は、同じ山頂を同じ日、同じ時間に見たとすると、ロープウェーで上がった人より、歩いて上がった人のほうが絶対に感動する、ということだ。人間にとって、目にするものの価値を決めるのは、その場にたどり着くまでの困難さであるからだ。

正しくない面は、ロープウェーでしか行けない人が例えば病人であったとしよう。その山に憧れ続け、何としても一目見たいと思い続けていたら、感動の一瞬になる、ということだ。

やはり、ここでも、人間にとって、目にするものの価値を決めるのは、それを見るまでのプロセスの困難さにある、と分かると思う。だから山のベテランはプロセスを大事にするのだ。

要するに、安易が幸福を奪っている。便利を求め、安易に流される方を選ぶと、幸福感は得られない。

厄介なのは、大抵安易さを与える側、たとえば昨今の山雑誌は、それを親切だと勘違いしていることだ。

しかも一般に、受け取る側も、どうすれば感動(=幸せ)が得れるか?を勘違いして理解している。難しいことが安易に手に入れば幸福だ、と勘違いしてしまうのだ。

槍ヶ岳は安易に登れる山だ。それは一般に知られていない。知らない人はすごい、と思う。だから登山者に人気がある。入門のバリエーションも大体が同じ構造だ。人々の無知が”凄い!”という感嘆符を形成しているだけだ。つまり、まやかし。

大事なのは、その山に到達するまでの努力の量だ。ピオレドール賞を取るようなアルパインクライマーがどれだけの努力の量を必要としたか、想像を絶する。そのために人々は賞賛するのだ。

そのことを知らないと、結果だけを安易に求め、内実の伴わない山をすることになる。槍穂自慢の幼稚さはそこに起因する。私の知り合いは、雪山2年目で厳冬期西穂に登った。すごいのか?実はすごくない。ガイド登山で登ったので、ガイドが凄いという証明になるだけだ。

困難を避けるのは、人間の通常の行動だが、それだけだと幸福感は得られない。そして人の能力はまちまちで、何に困難があるか?は人によって違う。

つまり万人に分かりやすい共通の目標ではなく、自分オリジナルの目標を否応なしに、もたなくてはならない、ということだ。

私は、そうした目標をもつ手助けをしたい。

■ 同行者

Kさんは、いつも「私には無理」と言う。(実際は非常に強い)

自分の脚力では、冬山の厳しいのは無理だと思っている。そして、それを卑下している。

自分を客観的に正しく評価できていない。

しかし、彼女には冬山には十分な脚力があり、それを活用するような山を知らないだけだ。

私はそれを証明して見せたかった。

■ 厳冬期 金峰山

厳冬期の金峰山は厳しい山だ。厳しくしているのは、入山者が少ないこと、山小屋がやっていないことによる。

八ヶ岳より金峰山は厳しい。通りすがりの男性登山者にも言ったことだが、金峰山は八ヶ岳主峰赤岳より厳しい。

赤岳と同じように気象条件が厳しいのに、何か事故があったときに駆け込める営業小屋がない。また登頂するのに5時間もかかる。赤岳は3時間半しかかからない。だから赤岳なんぞより、体力と知性とを要する。

では何をして赤岳が金峰山より知名なのか?それは赤岳は金峰山よりテクニカルなこと、各種バリエーションルートの登竜門であることによる。赤岳では、アイゼンワークの確実さがなければ滑落の危険があり、一度でも滑落すると、もう取り返しがつかない。そのまま立場川(たつばかわ)まですってんころりんした人がたくさんいる。

そして、赤岳はバリエーションを前提としている山である。赤岳の一般道は、山のプロフィールを紹介するための山にすぎず、当然、それ以後は、赤岳主稜や阿弥陀岳の各種バリエーション、アイスクライミングなど、それぞれの志向にあった、一般に八ヶ岳西面のバリエーション、と言われている場所へ進むのだ。それが一般道の赤岳だ。

余談であるが、そのような常識を知らないで、ただ何となく赤岳に群がっている人が多いのは残念だ。つまり、人気の理由を知らずして、ただ無意識に群がっていることになる。逆いうと、バリエーションを一切やらずに”赤岳大好き”ということは、つまり単純にミーハーという結論になる。

まぁミーハーだからと言って罪があるわけではない。が、知性が感じられないのは否めないし、そのような人が登山者の9割である時点で、日本の登山者の質が下がったと嘆く師匠の言い分も分かるというものだ。

話を戻す。一歩間違えば滑落死、そのようなリスクを求めるのがアルパインであるが、日本人のすべての登山者がアルパインを求めなくてもいい。また、普段アルパインをやっているからといって、アルパイン以外の山を求めても良い。山は多様なのだ。

知的困難度  赤岳 < 金峰山
体力困難度  赤岳 < 金峰山
アイゼンワーク 赤岳 > 金峰山
滑落死リスク  赤岳 > 金峰山
発展性     赤岳 > 金峰山

断っておくと、金峰山は、決してリスクがない山ではない。チャレンジが、”すってんころりん600mのリスク”以外で合っても良いというだけだ。

結局、それが私が今回の同行者に伝えたいことだった。

■ 核心

では、金峰山の核心は何か?ということになろう。

金峰山は前述のように長い。したがって、核心は時間管理、だ。ので、登山口で、コースタイムの打ち合わせをした。12時半~13時の間に山頂、という話だ。

時間が核心の山はどの山でも、朝、出来るだけ早く出てないと、山頂に下山可能な時間に到着できない、ということだ。もちろん、コースタイムが5時間だから、と言って、5時間かけて歩く必要はない。歩けるなら早く歩けばよい。

下山は3時間かかるので、遅いほうの13時下山で16時となり、冬山の下山時間としてはギリギリだ。

補足すると、時間が核心ということは、体力核心ということだ、理由は、上述の通り、体力があれば早く歩けるからだ。ただ登山では一般にコースタイム程度の体力を一人前と認めている。

■ 実際

Kさんは、やはり強かった。登りにはまったく問題がない。 

ただ彼女は、地図が読めない。そして、方向音痴だ。登山口で、「今どっち向いている?」と聞いたら、南アルプスが左手側に見えているのに、「西」なんて答えていた(笑)。

山梨では北に八ヶ岳、南に富士山、西に南ア、東に東京、と決まっている。だから特に何も考えなくても、南アが左手側に見えていればそっちが自動的に西だ。前方は北だ。

そんな具合で、彼女の最大のリスクは、現在のところ、道迷いだ。だから、ここでコンパスを出して、方角を確認してもらった。

方角っていうのは、慣れの問題であり、自分がどちらを向いて進んでいるのか?意識していないと人は堂々巡りを始める。

この堂々巡りのことをリンデワンデリングと雪山では言う。 雪山ではリンデワンデリングは非常に大きなリスクだ。雪山に行くひとはリンデワンデリングのリスクについて、等しく理解していないとならない。

これはルートファインディングの一種だが、先日の奥穂の遭難は、見通しの利かなくなった山頂で、間違い尾根に入ったことによる。これもルートファインディング技術の失敗だ。

リンデワンデリングは濃霧に巻かれたときに起る現象だが、Kさんの場合は、見通しが良い場所でも、方角が分からなくなっている。

これは技術が不足している現象ではなくて、技術を無視した結果だ。

道があれば歩くというなら、適当なところについてしまう。英語には、if you go anywhere you'll end up anywhere という言葉がある。

夏山なら、道があるからと歩いてしまっても、大抵の場合は、別の場所に到達するだけ。大きな事故にはつながらない。ただそれも最近では変わりつつあり、中高年の夏山リスクのNo1は道迷いだ。

山小屋で働いていたとき、明らかな道があるのに無視して歩いている人たちを目撃した。

”ルートファインディング無視”は戦後日本人の共通のメンタリティなのかもしれない。行き先を定める前に走り出してしまう。

雪山の場合、道があるからと歩いてしまえば、その道は間違っている場合も多い。足跡は正しい道につくとは限らない。雪山で何が起こるか?というと、誰かがおしっこした跡にたどり着くのだ(笑)

そうしたことは、先頭を歩いていないために起る現象のため、今回は、交代で先頭を歩いてもらうことにした。結局のところ、いつも先頭を歩きたい人と一緒に歩くだけだと登山者は成長しない。

■ 30分遅刻

Kさんは30分遅刻した。指定の場所が分からなかったのだ。それはまぁ仕方がない。

が、この遅刻が行動のリスクを高めた、という自覚があったかないか?が問題だ。

というのは、この山は時間が核心だったからだ。

結論で言うと、kさんは、リスク管理がやや甘かった。山頂では声を掛けて立ち止まってもらうまで、折り返してこなかった。13時14分であった。12時稜線が見えだしたころ、とったランチ休憩と立ち話が少し長すぎた。30分ロス。私も稜線が見えて、手綱を緩めたのだ。

それで13時14分山頂。12半出発としては、強い。それでも、その時間は、山頂としては遅く、すぐ降りなければならない。

下山には3時間かかる。つまり、13時14分に下り始めれば、16時14分になり、夜の闇が迫る危険が大きくなる。

ただ、この山は、下部でもトレースがはっきりしており、多少ヘッドライトで歩いても、道迷いのリスクは少ない、という話を登りでしていた。だから、その分は情状酌量だが、16時半下山は、”良い子の山時間”ではない。

山頂13時半出発。 15時大日岩。16時富士見平小屋。富士見平では少し長い休憩。Kさんは登りはとても強いが、下山では少し疲れが出たみたいで、アイゼンをズボンにひっかけたりしていた。アイゼンワークはまだ練習が足りていない。だから、”すってんころりん、即滑落死”の場所は危ない。

富士見平は、登りなら、ここまで1時間だが、下りは半分で下れるので、ギリギリになると分かっていたが、転んだりして、怪我をするより、ゆっくり休息して、無事帰った方が良いと判断した。

16時半、登山口駐車場。 

計画では、7時半出発、12時~13時登頂、15:30~16時下山だったので、ちょうどKさんが遅刻した30分の分だけ、下山が遅れたことになる。

このコースタイムは夏道の往復7時間のコースタイムに、ゆとりの1時間を付け足し、8時間としたもの。ピッタリだった。

■ 登山道や山の様子

今回は、八幡山の下見も兼ねていた。下見と言っても、今年雪山は事実上、初と言う感じなので、降雪の具合を知るだけで、そんなに大した偵察でもない。

今回の金峰山は、予想通り、道路はほとんど雪がなく、道路上に雪があるのは、最後の1kmだけ。スタッドレスがあればOK。

登山道は、火曜日の悪天候で雨になっていれば、硬くクラスト、雪になっていれば、量によってはトレースが消えたり、アプローチの林道が車で入れないなど、が予想されたが、降雪だったようで、それもやはり10cm程度でトレースを隠すほどではなかった。

よく踏まれ、トレースバッチリだったので、スパッツは持って行ったが、不要だった。ところどころ、踏み抜きがあったが、雪が乾いていて、サラサラだし、登山道を歩く限り、ラッセルにはならない。

八幡山では歩かれていないところの雪の量が問題になるので、試してみたら、深いところで、膝くらいだった。当然だが吹き溜まりは深い。

山は晴れて、爽快だった。これは予想通り。天候が良いことは、山では勝利の約束をしたようなものだ。雲一つなく、南アや八ヶ岳が素晴らしく、富士山はきれいな対称型に裾野を広げ、エレガントだった。

心配していた強風は大したことはなく、山頂付近では、バラクラバにゴーグルの重装備の人も見かけたが、私たちは、そのどちらも必要がなかった。千代の吹上からは、基本通りピッケルにしたが、雪がしっかりあるので、滑落は考えられず、ストックで大丈夫だった。

またアイゼンは、登山道の下部、富士見平より下では、アイス交じりの急登で、いやらしかったが登りは脚力と技術向上のため、できるだけなしで我慢。大日岩直下で、危険が出てきたので装着。アイゼンがあると、どこに足を置くと滑らないかを考えない。そうすると歩き方が上手にならないのだ。下山が弱い人は考えない癖がついている。登りは体力、下りは技術と言われている。

下山は暗くなり、見通しも悪くなることや、後半戦で、疲れで注意力も散漫になりがちなので、ずっと下まで装着。

今回は、朝、平日なのにもかかわらず車3台。林道は夕方除雪していた。金峰山は多くの人に歩かれていない分、体力を要求されるので、静かに安全に歩きたいトレーニングにぴったりだ。

稜線に滞在する時間3時間と赤岳より長い。稜線で吹きすさぶ冷たい風を久しぶりに存分に味わって満足だった。

■ 反省

今回は、冬山合宿より疲れた…やっぱり最近、真面目にトレーニングをしていないから、体力が下がっていることを実感した。

山はやはりいつもと同じように、美しく、厳しかった。稜線の風は穏やかな日であっても、ズボンの中を冷気が通り抜けていく。(オーバーズボンはそれでもはかない)

山に行くたびに、神は世界を本当はこのように意図したのだ、と思う。This is how the world intended だと思う。世界のあるべき姿が原始の山にある。

山に行くのは、それを確認するためだ。神が創造した原始のままの姿の地球を見るため。そして、その地球がいかに美しいかを実感するため。

そのような姿に触れることが、ほんの日帰りで出来ることは実に幸福なことだと思う。

山はこころを満たすもの、満たされた心で家路についた。


大日岩 2200m付近。

岩の温かさで雪が解けて、大きなつららを作っていた。

岩はやはり温かいのだ。
金峰山の稜線。

ピンぼけ。 カメラを三ノ沢岳で落としてしまったので仕方ない。

雲一つない青空だった。ここから
山頂まで、1時間程度だ。
鎖はあるが必要はない。
富士山と八幡尾根。
どっしりした小川山。

小川山自体は地味だが、その両端のすそ野に瑞牆と屋根岩岩峰が広がっている様子が、金峰山からだと全貌がつかめる。

瑞牆→小川山山頂→屋根岩群、とか、誰かやらないのだろうか?

これをみると端から端を歩くのは、一貫性がありそうに見える。
金峰山の稜線はこのような感じです。

コルは風が強い。
シュカブラ。
お約束の五条岩。

遠くから見るとずいぶん小さく見える、と今回思った。

この岩への信仰が金峰山の性格を決めている。

金峰山は信仰の山だ。

だた知られていないが赤岳も、権現も信仰の山だ。
エビのしっぽ。
八ヶ岳全貌。
エビのしっぽ。

風がどちらから吹くかが分かる。

風上にしっぽができると言われているが、この日は反対から吹いていた。
甲斐駒まで続くかのような稜線が、金峰山の魅力の一つだ。
変わった氷の造形。

風が強いことでできる。

16時半の登山口。

これより遅い下山はあまり薦められない。

暗くなったら、登山口から林道を歩くほうが危険が少ない。

鹿が4頭。逃げない鹿だった。

下山後車が2台。