Saturday, January 31, 2015

明日の予定と最近の雑感

甲斐駒方面
■ 明日も山

先週は木曜に南岸低気圧が来て、雪を期待すると残念ながら雨だった。

が、今週は、金曜にちゃんと?雪が来た。

それで、遠くまで出かけなくても、ご近所の山々が、快適な雪山に変貌したのではないか?と、近所の山に出かける計画が持ち上がった。

天気を見て、好機をつかむ作戦だ。

それで、散策ついでに舞鶴城から、各、山の様子を見てきた。

御坂方面、つまり太平洋側の山々は快晴だが、甲斐駒は雲の中、北面の茅ヶ岳方面も雲の中で雪が降っていそうな感じだった。

明日の方が、八つ方面はまだ天気が良いのではないだろうか?

■ 天気

しかし、今回は、高い山では、強風が予想されている。

茅ヶ岳方面
実は、八ヶ岳のバリエーションルートの入門、阿弥陀北陵を週末は予定していたのだが、なんとなく気持ちが乗らない気がしていた。

今冬、八ヶ岳にはまだ1回しか出かけていない。

それも、アイスだったので、あまり山の様子を感じられたとは言えない。

それでちょっと躊躇していた。なんとなくやる気と言うより、不安がもたげるような・・・それで、昨日、パートナーの都合でキャンセルとなった時には、少々安堵も入った。

阿弥陀岳は去年、中央稜を経験している。御小屋尾根での阿弥陀岳を夫と一緒に出掛けたいと思っているのだが、御小屋尾根は長いので、夫のウォーミングアップがままならず、実現していない。

今年は雪山を安全に歩くための、段階的なウォーミングアップが踏めていない。

私自身も、山岳会に入っているのに、なぜか歩き不足感がある・・・ 長い距離を歩いていないからだろう。


御坂方面
■ 桁違い 

最近、思うのだが、登山の力量というもの、桁の違い、などというものは、非常に分かりにくいのではないだろうか?

私にとって初めての本格的バリエーションルートは前穂北尾根だ。

前穂北尾根に行って、自分で前穂北尾根に行くという地点からは遠いと感じだ。

クライミング力のほうは、自分が思っていたようなシビアなクライミングの連続ではなかった。落ちるような危険を感じる個所はあまりなかったからだ。どちらかというとあっけなかった。

だが、それ以外の要素で、バリエーションは、自分の実力から、だいぶ遠いと感じた。

それと同時に、バリエーションへの意欲を失うような気がした。それは、そこが登れるために必要な努力の量とバリエーションを登って得られる満足の量が、かなり不均衡だと感じたからだ。

一般縦走でも同じ前穂には登れる。バリエーションは傾ける労力が大きく、ご褒美が小さい。

コレは考えてみると当然で、より困難なルートがバリエーションだからだ。

そして、その”より困難”の度合いだが、一般ルートでの登頂に必要な実力と比較すると、1:10くらいの差が開いていると感じた。

自分の実力から、10の努力でたどり着けるのではなく、実際行って見ると、100の努力が必要だと分かった、という感じだった。

 自己想定 10の努力
 実際    100の努力

と、つまり、一桁違った。そこまでの努力をして、そのルートで登ることにこだわりがあるかどうか?というと、疑問だと感じた。

それは私がバリエーションルートを求めた理由が、”おばちゃんが団体で登ってこない山に登れる自分になる”だから・・・かもしれない。

昔の岳人には、100の努力を傾けるだけの、内在的な動機が、憧れや哲学、がもっとポジティブな形であったのではないだろうか?

平たくいえば、そこまでして、山に行きたいのか?ということの答えが昔の人はYesだったのだろう。

■ 目標までの遠さ

山岳会に来るような人は、ある程度、一般登山者の中でも、自分は偏差値を下げる側にいるのではない、というくらいの自信を持ってきていると言っても良いだろうと思う。

私自身、北八つの白駒池の難易度1の山から、順繰りにステップアップしてきて、冬の天狗岳~硫黄縦走、正月の鳳凰三山まで3年でたどり着いたのだから、そう悪いペースでの成長には感じていなかった。

しかし、それまで成長してきたペースで、これから先も成長できる、という想定は、たとえ実績に基づいていたとしても、相当甘い考えであるのではないか?と最近は思える。

ロープワークも知っているだけの力量レベルと、使いこなせる力量レベルでは、1:10くらいの開きがある。

クライミング力だって、5.9がジムで登れる力量レベルと外岩で常に安定して5.9が登れる力量レベルは、1:20くらい違う。

その、距離感の差が、分からないのが初心者ではないだろうか?

その距離感の差の分からなさ、は、過信となって、表現される。

だから、バリエーションに行く、というようなことについては、ネガティブに、より危険を大きくする方向で力が働くだろう。

そのことを、強く感じさせられる一週間だった。

■ 分からないことが分からない状態

私はまだ分かろうとしている点で、分かっている方に入る。自分は分かっていないのでは?という不信を自分にまだ持っているからだ。

単純明快に、分かっていない人は本当に何も分かっていないから、疑いということをまったくもっていない。それで、分かっていない、ということは周囲に明快に分かる。

自分自身に過信があるかもしれない、という思いをもつことが一切ないと危険を認知できないレベルではなく、危険の存在そのものがまったく想定の外になっている。

それは、登山届なしの登山に通じるのかもしれない。風があると分かっている富士山に出向くことにつながるのかもしれない。

■ 死なないことが目標

山野井さんの『アルピニズムと死』を読んで、最も印象に残ったのは、若いころに大けがをしていることだった。

誰にだって初心者の時期があり、誰にだって初々しい時代がある。山野井さんのそれは、中学高校時代で、石垣を登ったりしている。

それと重ねると、山岳会に入って、1年目の新人と言うのは、山野井少年と同じように、パートナーがいたらな~と思いながら、実際は石垣を登るしかない時代を過ごしているのではないだろうか?もちろん、今日びは、石垣を登ると警察が来てしまうので、実際は人工壁を登るのだが・・・。

その時代を過ぎると、ロープワークを覚えたてで、失敗を経験する時代に入り、運が悪ければ、ここで死んでしまう人もいる。

だから、何が危険で、何が分からないのか分かっていない時代を、死なずに過ごすこと、それが実際は新人時代の目標なのかもしれない。

山に行きたい思いが嵩じると、安全対策に多少の甘さを甘受してでも、山に行ってしまいたくなる。

そうした思いが湧いて出るほどに、山を重要化しないのが大事だと思った。言い古された言葉だが、山は逃げない、のだから。

■ 成功体験

社会学の分野では、成功者は、自分の成功の要因を、自分の努力によるもの、と感じやすいということが言われている。

努力をする人は、努力を評価する。しかし、実際は、どんな国に生まれるか、どんな家庭に生まれるか、からスタートして、運が左右する事柄も大きい。ビル・ゲイツがソマリアに生まれていたら、巨万の富を築けはしなかっただろう、とかそういうことだ。

成功者が努力を過大評価するのは、なにも根拠がないことではなく、実際は、その人は大変な努力家であることが多い。そして、努力が裏付けになった自信を持つのは悪いことではない。

しかし、その一方で、自分を信じる癖がつくというのも真実だ。自分を信じなくては、信念がなくては、何かを成し遂げることはできないが、自分を信じすぎるということが逆に成長を阻害する要因になる時がある。

■ 登山は心理学

それを感じたのが、地図読みだった。

というのは、金石沢で、ルートミスを犯したからだ。 金石沢は3度目だった。だから、地図を見ないで進行した。(当然地図は持っていたけれども)

3つある堰堤のうち、最後の堰堤がちょっとした核心部になっており、今回は右岸を巻いた。前回は左岸から取り付いたのだ。そうすると、本流が視野に入らずに、支流に入ってしまったのだ。 

しかし、問題は、その間違いになかなか気がつくことができなかったことだ。

自分を信じすぎている。

標高はとっくに目的地を越えていたし、歩き出しから1時間程度で到着という時間の感覚からも、もっと早く気が付いてしかるべきだった。

しかし、気が付くのがかなり遅れた。

気が付くのが遅れた量は、そのまま

・体力の量
・自分を信じる量(悪い意味で) 

だと思った。自分が正しい、という思いが強すぎる、ということだ。

登山は、心理学だ、と最近強く感じる。 どのルートに行けるか行けないか?という判断もだし、地図読みもだ。

今は自分を疑う、自分には見えていない事柄がある、という想定で進むことを学ぶ時代にいるのかもしれない。

一般企業におけるリーダーシップでは、経営者は大きな誤りを犯した際に、自分には見えないリスクがあった、それを想定していなかった、と振り返ることが大きい。

それと同じようなリスクが山にもある。分からないことが分からないかもしれない、と想定することは大事だ。

それは、単純な一山行においての地図読みもそうであるし、また、登山を続けていく、学んでいく、ということにおいてもそうであるようだ。

一山行においてガイドが得られると幸運なように、登山を学ぶという点でも、指南者が得られるということは、非常に幸運なことだ、と感じている。


Friday, January 30, 2015

会心の山 女山

■ 力量にあった愉しい山

登山をするにあたって、私には一つの想いがありました。

それは、自然は懐が深いので、

  それぞれの人の力量にあった愉しい山が必ずある

ということでした。

 皆が同じところを目指さなくていい 

ということです。 同じところを目指すのは一億総中流の時代の惰性かもしれません。

初心者も中級者もベテランも、それぞれの力量に合った楽しみがあるのが山です。

小さな山に行ったからと言って、学ぶことがない、ということはなく、なんなら、ザックを重くして行けば、歩荷トレーニングの山になります。ペットボトルトレーニングと言うそうです。

体力が無ければないで、山のサイズを小さくすればいいだけです。山に行けない、ということはない。10歳でも80歳でも、技量に合わせて、楽しめるのが山の良さだと思います。今ある資産を生かす山です。

そして、山の大小について、卑下する必要もありません。私が不思議で仕方がないのは、スゴイ!という内容の超曖昧な、他者承認を求めて山に登る人が大勢いるってことです。

それで結果だけを買う登山も多いです。登山は内容の方がより重要で、結果だけを問うのはナンセンスです。他人との競争に陥るのもナンセンスです。どうも百名山登山は、そのような性質が強いと思います。グレードを追いかける登山も同じです。

私は、低山だからと見下す人も大きい山を自慢する人も、本当は山が好きな人ではないのではないか?と思います。山に純粋でない人は危ないと有名な女性クライマーも言っています。

■ 会心の山とは何か?

私にとって、良い山、会心の山、 心にかない、期待どおりにいって満足できる山とは、女山北北西尾根のような山です。

では、なぜ女山がそのように会心の山になったのでしょうか?

期待と得た結果がぴったり合っていたからです。

・登山道の無い山を歩く(本格的な登山)

・山のレベルが参加者のレベルと合っていた

・自然のメリットを最大に生かせた(天候、雪、樹木、季節柄)

■ 月例山行

女山は、会の月例山行でした。

山岳会は、登山という趣味を共にする人たちの集まりです。 そして、登山は、『登山の文化史』の考えによると、指導標があるところを歩くだけのハイキングとは峻別されます。

山岳会が、まかりなりにも山岳会と自称し、”登山”を標榜していて、それは、”ハイキング”を標榜しているのではない以上、同じ山でも登山をすべきです。

例えば木曽駒はロープウェーで登れば登山ではなくなります。ちゃんと下から登れば登山です。内容が全然違います。

それで、地図読みの山というのは、山岳会が月例山行して行う山にふさわしい。

登山道がない山なのですから、地図を持ってこない人がいた時点で集合口敗退にする、としました。単なるハイキングではなく、”登山”をしようとしているからです。

■ 力量に合わせる

会山行では、個人の力量ではなく、パーティの力量に合わせるべきです。

会の山行は、本番の山のリハーサルです。本番の山は、力量を互いに正確に分かっていないと、できません。

易しいところで相手の体力や力量、考え方の癖をつかんでおかないと、本番の山で危険が増えてしまいます。力があるらしいけれども、どれくらいか分からない人と行くよりも、力量が正確に分かっている人たちと行くことが本番の山行では、安全性を高めます。危険な本番の山(冬山合宿など)を出来る限り、安全なチャレンジの山にしたければ、月に一度くらいは山行を共にして、相手をよく知っている必要があります。時間を掛けて、メンバーシップやパートナーシップを育てないといけない。

だから、私は、自分にとってより危険が増えたり、リスクが自分により大きく降りかかるのではない限り、会山行には参加すべきと思います。そうした山行から学ぶことがないということは言えない。

リスクを小さく設定した、小さい藪山でルートファインディングができない人が、よりリスクが大きな、大きい山でルートファインディングができるでしょうか?

山行の内容が易しすぎる、と思えば、ペットボトルに水を入れて担げばいいです。(ペットボトルの水は重くて疲れたら捨てることができます。しばらくはギアを担いでいましたが、ギアを担ぐと捨てられないと、アルパインクライマーに指摘されて水に変えました。)

■ 初級の山

この女山が良かったのは、パーティ全体の力量に合った山だったからです。

パーティの力量としては、

 ・山のサイズ 小さ目
 ・ラッセル負担
 ・地図読みは初級
 ・難路ではない

が自分たちの力量でした。

≪山のサイズ≫

山のサイズは、標高差500、距離往復8kmくらいで、体力に合わせています。

≪ラッセル量≫

雪山になるのでラッセルは当然ですが、ラッセルの負担量は、山のサイズ、雪の量できまります。

この時期は雪の量が少ないので、ひざ下ラッセルです。コースタイムは、

 ひざ下=無雪期の1.5倍
 ひざ上=    2倍

と昔読んだ山雑誌に書いてありました。が単なる目安です。勾配や雪の質(降雪直後は大変)にも寄りますし。

ラッセルや山の大きさというのは、そのまま心肺機能の大きさです(笑)。単純に若くて(若くなくても)体力があれば、たくさんラッセルできる、それだけです。

私は力で山をこじ開けるような行為…たとえば地形を読まずに、尾根だろうが藪だろうが、ただ直進するような山…は、あんまり知的には感じられず好きでないので、最初から力量に合った山を計画するのが人間の知性の使いようだと思っています。

≪読図≫

女山の読図は、登りだけですし、地形的に迷い込やすい箇所もない尾根なので、シンプル。つまり初級です。下の方で林道とぶつかる点がスタート地点なので、林道終点を利用できる点でも初級です。

  初級地図読み 
  ・登り
  ・シンプル地形
  ・林道利用 取り付きで迷わない

今回は、先輩が口頭で伝えてきたラインを、私が地図を見てラインを引きました。先輩が頭脳で、後輩の私が手です。頭脳と手の連携がうまく行っていることも重要でした。

今回、実際に行ってみると、林道は地図にあるより、延長されており、地図だけを信頼していると、林道が尾根沿いから離れる可能性がありました。そこで、尾根の形状が確認できた時点で、早めに尾根に乗るという安全策を判断として、しています。この判断は私がしました。

逆に、下山では林道の方が楽なので、林道が確認できた時点で早めに林道に乗っています。ので、往路と復路では、GPSの軌跡が違います。

この判断は正解で、後で地図を見ると、Googleの航空写真では延長された林道は、沢に沿って進み、ずんずん尾根から離れます。
的確な所で尾根に乗っている 的確な所で尾根から降りている

実際は存在する林道が2万5千の地図にはない

≪道の困難度≫

道としての困難度も低いです。岩も、藪も、凍ったところもなく、ほぼ尾根通しに快適に雪の上を歩いています。これは、登山道の無い山をほぼ初めて歩くのではないか?という人もいたからです。つまり、初心者向きです。この山はそういう意味では、入門レベル、と言って良いと思います。

登山道と非登山道では、だいぶ歩きやすさが違います。無雪期は特に違いを大きく感じます。積雪期でもよく踏まれた八ヶ岳の一般道などは、無雪期より歩きやすいくらいですが、そういう意味での歩きやすさの度合いが、初めての人にとって、非常に歩きにくい、ということがない、というのは重要なポイント。

私が初めて登山道でない山を歩いたのは、地図読みツアーで行った高川山の西側の尾根ですが、トラロープが張ってあるような難路で、左右が切れ、黒戸尾根より急でした。地図読み初級という山行で行ったのですが、とても参加者の力量にあっているとは思えず、大勢の人が一度にトラロープをつかんでロープが暴れるので、ひとりで行くよりむしろアブナイと思ったくらいです。

■ All for One One for All

女山は先輩が探してきてくれた山です。

無名尾根の山を探してくるには、ベテランの経験の蓄積が必要です。私も地図読みを頑張っていますが、地図から歩くべき尾根を見つけて来て、またそれを実際歩けると確認するのは、豊富な経験が必要です。

地図を見て、尾根自体が歩けると思っても、アプローチが困難だったり、尾根の下部が法面で取り付きから困難ならまだしも、下山でアウトになってしまったら大変です。また地図からは植生は大まかにしか分からず、行って見たらハズレの山と言うこともあります。(興味がある人は横山厚夫さんの本がおススメです)

そういう意味で、地図読みで使えるような尾根の候補をどれくらいネタとして持っているか?は登山者の実力を測る一つの物差しになります。

そして、そういう力をこそ、ベテランにお願いすべきです。ベテランの出番は、こうした点です。

私は、自分が企画した山行は、一度不催行にしました。河原木場沢醤油樽の滝です。

その理由は、メンバーの内容を見て、私がリーダーとしてできることで、もっとも有意義な時間の使い方ではなかったからです。もっとも時間を有意義に使うには、地図読みの机上講習をすることだと思いました。会全体のレベルアップには、一番必要なことは何か?と考えた結果です。

しかし、先輩が助力してくれたおかげで、机上講習ではなく会の力量に合った山行を催行することができ、とてもよかったと思っています。

■ 地図を持ってこない人がいた時点で集合口敗退

また、地図を持たない人が一人でもいた場合、集合口敗退にすることにしました。

≪参考≫カッコいい山ヤの判断力

これは、同じ山でも全員にとって登山とし、ハイキングにはしないためです。いくら山行を重ねても学ぶところがない、そのような山にしない、という点で、”山岳会であるというプライド”を守れてよかったと思っています。

でも、これは、新人でしがらみがないからこそ取れる悪役でした。嫌われ役は誰だって取りたがりません。新人なら、まだ守るものは何もないので、できます。

しかし、ただ突き放すだけでは良くないと私だって知っています。

私の方でも、地図の準備に対する敷居を下げるためにだいぶ労力を投下しました。


  1. 11月に読図の伝達講習(他のところで習ったことを会員に伝達する)を行いました
  2. 地図の本を差し上げていました 
  3. この山行についての地図準備の敷居を下げるために、ヤマレコで山行企画を立て、リンクをクリックするだけで、国土地理院の二万五千の地図が表示されるように準備しました
  4. その後、標高差と距離を伝えて、自分自身で参加したいのかしたくないのか?判断できる材料を差し上げました(通常は登山者自身が、こうしたデータを自分で用意して自分で判断します)

しかし、今回もっとも時間を投下したのは、前日に地図とルートの説明をするために、メンバーの自宅に出向いてくれた先輩です。

私が地図を準備しない人が一人でもいたら、集合口敗退にすると宣言していたからです。

参加メンバー全員の休日が無駄になってしまうリスクがありました。しかし、そのリスクをとっても、やはり山岳会であるからには、地図携帯は参加の必須条件にすべきだと思います。

なぜなら、会山行は本当にシビアな山行の練習だからです。本当にシビアな山、例えば積雪期の北岳など…では地図を持たないメンバーなど考えられません。


■ 自然を生かした山

1月にしかできない山行、降雪の直後しかできない山行は?と考えると、低山の雪山ハイクがおのずと上がります。

逆に低山を愉しむには?と考えても、登山適期はやはり冬です。冬は藪が薄くなり、木々の樹冠の葉が落ちて、展望が利き、夏は暑くてたまらない不快な山々も快適そのものだからです。

自然を味方に付ける、とでも言いましょうか。

冬の山の一番の脅威はです。

風だけは、どんなに強い岳人がいても、跳ね返すことはできません。だから富士山では毎年誰かが亡くなっています。

しかし、冬の低山では、樹林帯なので、樹林が風を遮ってくれます。それなのに頭上には日陰を作る木の葉がなく、お日様の光が優しく差し込み、冬の低山ハイクはまさに快楽登山です。

足元も雪があれば、無雪期より歩きやすい場所も少なくありません。雪=怖い、と頭から決めつけることがなければ、雪の道はむしろ、平坦でフリクションが良く利き、登りやすいことも多いです。怖いのは凍って滑りやすくなった場所で、雪にアイゼンが必要なことは少なく、薄く凍りついた滑りやすい道にアイゼンが必要です。

用心することがあれば、日が暮れる前に安全地帯に逃げ込む、ということだけでしょうか。

■成功体験 vs どーせむり

私は、小さなステップを重ねて、成長して行くプロセスが、人間にとっては大事だと常日頃から思っています。

それは、今の時代が、”どーせ無理”という時代だからです。

先日はFBでこのようなスピーチが回ってきて、強く共感しました。

”どーせ無理”と考えて何も努力しなかったら、”絶対ムリ”になります。

その反対は、何とかなる、ですが、どちらも自分の努力を放棄している点で似ています。

実際は、”何とかなる”のではなく、”何とかする”のが真実です。主体性です。

どーせ無理と考えて、何かをしない言い訳にするのは良くないことだな、という考えを持っています。

何が可能になるか?はやってみるまで分からない。

やりもしないで最初から投げ出す態度では山に行けない、というのが、山が人を育てる一つの面ではないでしょうか?

山というのは、きちんと向き合っていたら、いつも何かしか、答えてくれる、そんなものではないか?と思います。

それが山の良さ、である、と思うのですが、みなさんはいかがですか?



Tuesday, January 27, 2015

山岳会の記事 2005年岳人

■岳人2005年 6月号

ちょっと古い岳人をネット検索した折に、また別の古い岳人を発見した。

その号の特集が

  • 歩きを科学する
  • 補助ロープの活用術
  • マルチピッチのルートに挑戦してみよう
  • 平山ユージ 30の質問

と興味をそそられた上、180円くらいと格安だったので、購入してみたら、中に別の面白い特集があった。

『社会人山岳会の内在的課題に対する一考察』 

と題する記事だ。 ハードフリーという言葉を昔は使っていた、と先輩から聞いていたが、それが使われている様子を初めて見た(笑)。 2005年。今から10年前だ。

ハードフリーは今で言うフリークライミングのことだ。

この記事によると、山岳会の様子は10年間全然進捗していないようだ。今とあまり変わっていないみたいだ。

■ 記事の要約 

この記事を要約するとこうなる。

1)社会人山岳会の制約

  衰退の原因= 閉鎖性、封建制、反進歩性 ⇔ 会員個人の自己実現・ポテンシャリティーに対する制約

 ①二重在籍の禁止
 ②活動の制約 年間計画への強制参加、参加資格の制限、個々人の山行に関する制約

2)山岳会という社会集団

  ・趣味の「山」を通じて、自己満足できる組織
  ・本質的に排他的
  ・アイデンティティ

 今日、細分化された山の一分野で自己のポテンシャリティーをとことん追求するため、山岳会の束縛を嫌う者が増加しているのが現実である。

3)衰退への対策

 ・新人獲得
 ・入会希望者に会のコンセプトとキチンと話す 巧言令色は後で高くつく
 ・会員同士の交流を図る 
 ・年間山行計画の工夫 今日の時代では年間の山行計画は極力少なくして、出来るだけ束縛を軽くした方が時代に対応できる少なくした計画は厳密に実行すべき 最低限必要な仲間としての結束力は確保しなくてはならない

4)会員の自己実現

 組織としてのアイデンティティーの喪失 = 同人化

 同人化 = 他人との競争原理、実績主義、緊張感、= 自己実現全面展開

5)ハードフリーと山岳会

 ・ハードフリーは避けて通れない
 ・ハードフリー = 超個人主義・一人主義的、極度の競技性
 ・どこの組織にも属さないで一人で十分やって行ける
 ・アルパインと違い徒党を組む必要がない
 ・アルパインと異なり、困難ではあるが危険ではないことによる
 ・ルートは短く、支点は強固なので、アルパインと違ってクライマーにとり、ビレイヤーはさほど変わりがない
 ・フリークライマーは100%自分だけの世界に入って行く
 ・天上天下唯我独尊 極度の結果主義、実績主義

6)仲間意識vs超個人意識

 ・フリークライミングの超個人主義にとっては山岳会は不要であり、障害物でさえある。
 ・人と人の競争を回避する体質を破壊するもの

その相克を融和する手段は?

 ・フリークライミング、アルパインクライミングとも社会的には限りなく無価値、無意味な行為であることを強く意識すること
 ・これらの行為はたかがレジャーであり、単なる自己満足である。
 ・山に過大な意味を与えすぎる
 ・謙虚さとつつしみ深さが肝心である

フリークライミングの位置づけ
 ・本チャン、沢、冬壁、アイスなどの手段と位置付けるべき
 ・本人の努力
 ・フリーしかやらない者はハイキングしかやらない者と同様に入会すべきではない

以上、筆者要約。

■ 感想

感想その① 封建的というのはどういうのだったんだろう?

感想その② 半進歩性は良くないですね、常に進歩するほうが良いのになぜ?

感想その③ フリークライミングって超個人主義だったんですね~ 

感想その④ 山はやっぱり自己満足ですよね

感想その⑤ 山は自己満足と行っても、ハイキングしかしない、クライミングしかしないは不可、なんだな~

感想その⑥ これら対策は効果的なのだろうか?

感想その⑦ 会のアイデンティティを表現するのって、集団のアイデンティティの表現は非常にむずかしいのでは?

感想その⑧ フリーは手段に過ぎない 納得。

■ 山行管理は誰のためか?

私と夫は二人で山を始めた。山行の最初から、きちんと登山計画書を出して、登山口でポストに入れていた。

そういう感性からすると、登山計画書を出して、山岳会に山に行きます、という連絡をするのは、特に拘束と感じるほどの束縛ではない。

何しろ最近はメールで「下山しました」と言えばいいだけだからだ。ただついうっかり忘れる、というのは、何度かやらかしたことがあった。パートナーが出来てすぐは二人とも浮かれており、すっかり家についてくつろいでから、”あっ!”という訳だった。

でも、山行管理を嫌う人は多い

山で会って気が合いそうな人を何人か、山岳会にスカウトしてみたけれど、山行管理が嫌だから、入らないと言う。

みんな遭難、怖くないのかな…。

私は遭難を怖がっているので、単独だと小屋があったり、下界との遮断度が低いようなところしか行かない。逆に小屋さえあれば、無雪期も積雪期も単独は平気だ。むしろ歓迎。

以前、ベテラン山ヤに「山梨県境を一周したら?そしたら、みんなが尊敬してくれるよ」というような提案?挑戦状?をされた。とんでもないと一蹴した。

みんなに尊敬してもらうための山は、若き日のアルパインクライマーがやるべき山だ。

「山梨に来ちゃったから」みたいな理由で、趣味で本格的な登山をやろう、といような初心者の女性登山者がやるような山じゃないんでは?

むしろ、そんな危険な山を薦めてくるなんて、非常に無責任だと思った。

■ スキルアップするとリスクヘッジできる

とは言っても、最近は、お腹を空かせた熊がいる時期を外せば、藪山(登山道の無い山)も平気になりつつある。 昨今、熊の気配は濃厚なので、動物リスクは高い。

一方、厳冬期の登山道の無い山に、犯罪者が入ってくる余地は少ない。

つまり、私の登山技術が、犯罪者のそれを上回ってきたということで、私の当初の目的を達しつつある。

つまり「おばちゃんが団体で登ってこない山に登れる自分になる」、「犯罪者が登ってこれない山に登れる自分になる」だ(笑)。

そういう意味では、まっとうな路線に成長中か(ホッ)。

■ 山岳会=実家?!

私は、親の庇護のある家庭に育っていない。なので、親元から自立した時も、結婚した今も、何かがうまく行かなくなったとき、「ワタクシ、里に帰らせていただきます」という選択肢はない。逃げ場がない。

学生で18歳で親元から自立したけれど、自立そのものは容易ではあっても、何が困難か?と言うと、万が一失敗した場合の保険がないこと、だった。失敗は許されない。

自分で住むところを決め、自分で家賃を払い、自活する、そういうのは、何も困難はなかった。

しかし、やりたいことをやろうにも、思い切ったリスクが取れないのが、困難だった。

例えば、創業したばかりの会社のスターティングメンバーなどに誘ってもらったが、景気の悪い時代で、最低保障月収が生活費を下回ると、その仕事を取ることができなかった。(あとで結構大きな会社になった。外資)

チャンスにはリスクが付き物だが、リスクがマスクできていないとチャンスをつかめない。

それで、親元から職場に通う人が羨ましく、失敗した時、頼るあてさえあれば、リスクが高いが、リターンも大きい仕事をどんどん取れるのに…と思っていた。

リスクを取りたいのに取れない…という構造は、山の単独行と同じだ。

山岳会に属すことは実家がある、というのと似ている

会に属しておけば、突発的な問題が起きたときに身を寄せる場がある。

■ 会の束縛

手前味噌になるが、御坂山岳会には、束縛がない。それにはいささか逆に失望するほどだ。

私が、山岳会へ期待した機能の一つは、

Aという一つの山に行っていいかどうか?という判断が、自分では、なかなか難しいという時の判断力を補ってもらう、

ということがあった。

例えば四尾根などは、ルート情報を読み込んだけれども、やはり、今の実力でリスクを回避できる、という保証には感じられなかった。四尾根と間違えて二尾根に迷い込んだ人は遭難ギリギリのようだった。

山を選ぶとき、危険個所の有無は、皆調べると思う。

調べて危険個所がなければいいが、あった場合、どのような危険なのか?ガイドブックの書き方から、自分のスキルと比較して判断するには、行間を読む経験がいる。独特の用語使いがあるからだ。

たとえば、「初心者がいる場合ロープを出す」という用語使い。”アイゼンワークが怪しい人がいると、その人は他の人にとっては、なんでもないところで転ぶかもしれないので、ロープを出すべきで、ロープがないと、転んだら死ぬかもしれない場所がある”という意味だと分かるまでに3年くらいかかった。

私にとっては一般縦走路以上のルートは、未知の世界であり、自分で判断するには限界を感じる。

■ ベテランの方が視野が広いはず

私の師匠は山歴40年のベテランで、そうした人が持っている経験量と山歴5年がもっている経験量では、明らかに違うはずだから、視野は師匠の方が広く、私が見えないリスクが、はっきりと見えるはずだ、と考えるのが論理だと思う。

そういう場合、ダメと言われたら、どの点がどうダメなのか?ということが次の成長につながる。

ダメと言われたときに、いや行ける、という自信の根拠は何になるのだろうか?

私の会では、基本的に誰と山に行ってもいいし、どこに行くか?も、任せられており、逆に、行ってはいけない山(当人の実力以上の山)にも特に拘束がないので、それは逆に不安を感じる要因だ。

その不安は、個人的に先輩や、師匠に相談に乗ってもらって解決している。

いくつか相談に乗ってもらえる先をもっているということは資産だとかんじている。

■ 責任

ある会では、新人は一年間は破線ルートはダメ、ということになっているそうだった。

入会前にそれが束縛に感じるかもしれないよ、というアドバイスをもらったことがある。(実際はその会には入会していない。残念だったような、そうでないような・・・)

でも、その会は新人に対して責任感のある対応をしている、ちゃんとした会なんだな、とその時、思った。

一方で、入会前から破線を歩けるような人には来てもらいたくない、という意味かもしれないとも思った。

■ 知識を授ける側のむずかしさ

レベル分けと言うのはどこでも悩ましい。

アメリカに行った時、最初アダルトスクール(英語学校)に入ったが、入学するときのレベル分けがある。101~109まであるのだが、108で入った。日本人で、106より下に入る人はいない。

登山でも、バラバラな実力の人が、一つのカリキュラムに入るのは、難しすぎる人と易しすぎる人の差が出てしまうだろう。

また覚えるスピードと言うのがある。ロープワークは50歳を超えると覚えるのが大変のようで、おことわりの掲示をしている登山学校の参加資格をみたことがある。しかし、結び目の練習こそ、一人でも、できる分野だともいえる。

本格的な登山をするときに知っておかねばならないこと(知識)は、一定なので、教える内容は一定だから、レベルが違っても、同じ内容で問題がないはずだ。雪崩れ講習の内容が、ベテランと初心者で違うことはなく、繰り返し学んで身に着けることが大事だ。それに同じことを学んでも身に付く度合いの多い・少ないはある。

■ ベンチマークは読図とクライミング

本格的な登山と一般登山、登山とハイキングを分ける境界線の第一番目は、読図だ。次がクライミング。

だから、

 読図をヤル気がない人、
 クライミングをヤル気がない人

は、山岳会ではお呼びでないんだな~と上記の記事を見て思った。

だから優れた山ヤは読図が皆きちんとできるし、クライミング力もバッチリだ。

■ アイデンティティ

私がもっぱらわからないのは、自分の会のアイデンティティ。

私自身は自分のアイデンティティをできるだけ明確に出すようにしている。ときどき、批判ももらうので、至らない点は修正して行きたいと思っているが、アイデンティティはきちんと出しておかないと、求めるものが違うと結局はうまく行かない。

しかし、そうすると必然的に、的が絞られてしまうので、広く浅くという訳にはいかない。

最近は、山に行く機会が減っても、自分の山をする方が良いと考え始めている。単独のリスクを自分の読図力でカバーできるようになってきたからだ。

■ どの程度、共有するか?

山を単独で歩いていると、色々な人に声を掛けてもらえる。単独で歩いている方が同行者ができる。心配はありがたいものだ。

私も山梨で出来た知り合いのほとんどが、山で会って、一緒に山を歩いた人だ。

そういう風に山で出会いがあるので、一度会っただけで次からいきなりテント泊山行や、ソロテント二つ、というのは、当人たちにとっては、あまり突拍子もないことではないのかもしれない。

私も初めて一緒に行く人とは、ソロテント二つの方が二人きりでテントの中に入るより安心できる。

登山口集合は、所在地がバラバラな集団にとっては、普通だし、ガイド登山では、本来はピックアップはガイド山行の行程に含まれていないが、現状は、慣行に流されてサービスで皆やっていることだ。都会のお客さんは車がないことが普通だからだ。

だから、登山口集合でない山を山岳会に入ってやるようになり、交通費が節約できることに、初めて気が付いた(笑)。

■ 成長の障害

2005年の山岳会の不人気の分析によると、要するに

個人の成長が犠牲になる

ということらしい。山岳会が、行きたい山に行ってはいけないと制止する事態が、若い山やにとっては煩わしいということなのだろう。

私も、個人の成長が集団の足並みそろえのために犠牲になるのは、ちょっと窮屈だなぁと思うタイプなので、なんとなく分からないでもない。

正直、土日は限られており、限られた個人の貴重な時間を、自分は得るものが少ない山行に費やすのは、ボランティアだ。

だから、成長したい人が成長でいないインキュベータ(保育器)は、インキュベータと言えない。

同行してもらった方が安全が高まらないパートナーはパートナーと言えないのと同じだ。

やはり、相手にとっても得るものがあり、自分にとっても得るものがある、というWIN:WINの関係を短いスパンでも、長いスパンでも維持して行くのが大事なのではないだろうか?

どちらかがWIN:LOSEだと考えていると関係はどんなことにしろ、うまく行かない。

Monday, January 26, 2015

スノーバー買いました

■ 阿弥陀北陵

来週は阿弥陀北陵に行くことになったので、念のため、

スノーバー 65cm

を買いました。サイズが3種類あったのですが、長いほう・・・65cmにしました。雪が深いところで基本的に使うものだからなぁ・・・ 

でも、阿弥陀北陵って、八ヶ岳なので、スノーバーの長さに足るほどの雪があるのかなぁ・・・

どちらかというと、デッドマンのほうが良いのかなぁ・・・なんて思いながらですが、一応買ってきました。

後は、フィフィ用のテープスリング、捨て縄用の6mm細引き。 ワイヤーゲートのカラビナ1個。

■ 初級のバリエーション

私の初期の計画では、私は、バリエーションでも初心者向けの場所を目指しています。

登攀系
 無雪期: 前穂北尾根
 積雪期: 爺ヶ岳東尾根

縦走系
 無雪期: とくになし
 積雪期: 八ヶ岳全山縦走

なので、阿弥陀北陵、というのは、ちょうど入門レベルで良いです。

ここから初級レベルに行けば、あとはそんなに深入りしないでいいかな~。

しばらくは、入門初級レベルの、あまり人に知られていないルートをつまみ食いしながら、自分の山を充実させて行こう!と思っています。

登山をしていて、ロープが出る山を否定すると、どうしても対象とする山の範囲が狭くなってしまいます。

山岳会に入らないとできない山がない・・・昨日の女山は、山岳会の先輩が見つけてきた山なので、そういう意味で、山岳会に入らなければできない山です。

普通の人は、人が行った記録を見つけて行こうとするもの・・・私は、単純にあそこ歩けそう!と思ったところを歩こうとしています。

■ 負けず嫌い・・・

赤本で、クライミングルートのグレードを駆け上がることだけを目指すと、やっぱり、自分との競争ではなく、他人との競争になりそうです。

もちろん、登攀史に名を残す、と決めている方たちはぜひ、『チャレンジアルパイン』に乗っているルートをしらみつぶしにつぶすようなことはせず、さっさと大きな山、大きな目標に向けて、邁進してもらいたいな~と思うのですが・・・。そう奥付にも書いてありますしね!

所詮、既成のルートと言うのは 経験値を上げるため、のルートです。

最近は、むしろ、そういったチャレンジに向かうべき若者が、無雪期の北アなどのテント泊縦走で、ラクラクテント泊を満喫して、ちょっとそれは老後にでも取っておいたらいいんではないか?などと思える、ゆとり登山具合です。

チャレンジがあんまりにも足りないというか、癒し過ぎるというか・・・ 若者なのに大志を抱いていないというか・・・。

■ 先を急ぐ世界

一方で、生き急ぐ世界もあるようです。

他の人から自分は見くびられている、と考えている人にとっては、どんどん山のサイズを大きく、どんどん難易度を上げていく・・・のは、どうも他の人に自分の力を証明したい!という思いのようです。

それは分からない気持ちではない・・・のは、私は仕事で男性並みに評価され、男性並みの収入を得ることで、自分を証明したい!という思いを過去に持っていたからです。でも、その思いって、目標達成したら、あっという間にしぼんだんですよね~

一体誰に自分を証明しようとしていたのか?自分の能力を証明したい!という気持ちは、なんとなく、親に向けてリベンジしたがっていたような気がします。 母は私が男の子だったらよかったのに、と思っていたと思うんですよね・・・それが私は男性並みに稼げるようになりたかった理由だったのかも?

そういう風に回顧するので、負けず嫌い、という現象をみると、大丈夫、そのままのあなたで素敵なんだよ!と言ってあげたい気持ちになります。

他者に自分を証明することに時間を使うより、人生そのものを愉しんだほうがいいですから。
 
■ フリークライミングの学び方・・・悩み中

今日は久しぶりに小瀬でクライミング練習をしてきました。

私はフリークライミングがクライミングの基礎だ、というのは分かるのですが、今一番心惹かれているのは、どちらかというと、

 「沢でクライミングの基礎を身に着けた人は、フリーでも強い」

というセリフです。 

まぁ、自分のしたいことと合致するので、苦手の人工壁をしないですませようと、都合が良いように解釈している、というのは否めませんね~(笑)

でも、昔の人は人工壁なかったのに、なんであんなに上手なんですかね???

昔の人が人工壁なしで上手になったんだったら、私も、人工壁なしで上手になれないのかしら???

別に面白くないとは思わないんですが、何が気に食わないって、お金がかかる点です。 まぁ今日は390円しか払っていないんですけど・・・

■ にわかパートナー

この前の記事で、即席パーティの弊害が色々と指摘されているにも関わらず、なんですが・・・

実はこのクライミング練習は、遠方から冬山を楽しむために来た、パートナーとのお見合いの会でした。

だって、どんな人とだって初めて、はありますしね。まずは互いにビレイし合い、体重を預け合うところから、信頼関係を築くべきかと・・・。

私より、一歩か2歩先を行っている方のようにお見受けしました。

ルートに行くなら、リードフォローをやらないといけないと思い、今日は相方が終了点に着いてから、「セルフ取って、セカンドのビレイして~」とお願い。

すると、「けど・・・ギアがない」というお返事。

「じゃ、終了点にクローブヒッチして」とお願いしました。 クローブヒッチを支点2か所に取れば、冗長性のある支点になります。

セカンドの確保には、通常のオートビレイ機能を使うと、カラビナが一つ余計に必要ですが、折り返しビレイなら、別に普通のビレイと同じにできます。

なんなら、人工壁の終了点はしっかりしているので、そこでいきなりムンターでも平気です。

ワンピッチだけ、リードフォローしてから下降。

今日は女の子二人だけ。 二人だけで人工壁に張り付いているのも、なんだか新鮮でした。

ヤル気が出る感じ! 女性だけのクライミングってなんだかいいですね~ 男性に対して遠慮がいらなくて・・・。男性を立てなくちゃ!などと気を使わずに済みます。

バリエーションルートの攻略には、

・クライミング力
・プロテクション作成能力
・ルートファインディング
・体力
・気象判断

などの山の総合力が必要です。 私はバリエーションを経験してみて、バリエーションルートの何が気に入ったのかと言うと、まずは、ルートファインディングの面白さです。

既存のバリエーションルートを次々落としていくのもいいのかもしれないけれど、まずはルートを見る目を養い、適切なプロテクションを作れるようになりたいと思っています。

クライミング力は自分を守るものなので、ぼちぼち並行してやっていかなければ、とは思うのですが、あんまりそればっかりを成長させるのもなぁ・・・と言う感じです。

まずは沢かなぁ・・・ 今は冬なので、とりあえず、アイス頑張りたいです。アイスのルートって意味のアイスですね。





Sunday, January 25, 2015

女山 北北西尾根

■ No Bullshit!

今日はなかなか会心の登山だった。

登山はスタイルが重要だ。

フリークライミングの流儀のように明確だ。ただ今は登山のスタイルについての重要性は、忘れ去られて、すでに長い期間が経っているようだ。

今回はさしづめ英語で言うなら、No bullshit とでも言うところ。

■ 山に登ったら山を見る

山に赴くにあたって、

 どれだけ山に礼を尽くしたか?

が大事だ。

山に行くのに地図を携帯して行かないなんて、山に対して礼を欠いている。

人の足元ばかり見て、分岐を見落とすようなら、山の姿を見ていない。だから山に礼を欠いている。

金魚の糞登山は、山にいて、山を主役にしていない。だから山に対して礼を欠いている。

大勢で押しかける略奪的登山も同じだ。居酒屋まがいの小屋での宴会もだ。そういう登山は、山も夕陽も朝日も見ることがない。だから、山に対して礼を欠いている。

酔っ払い登山も同じ。酔いたければ居酒屋が適している。

自分では荷を担がずに人に担がせて、Vサインも、山に対して礼を欠いている。山が登山者に要求したものを受け入れていないからだ。それは山に登るための協力とは違う。

雨量120mmの雨の稜線を、制止も聞かずに出発して1時間後、滑落して一人死亡、一人重傷者を出した事故を小屋入り4日後に見た。これも、山が来ないでくれと言っているのに出向いて、山に対して礼を欠いたからだと私は思っている。

山を見ない山は、皆山に対して礼を欠いている。

じゃあ、何を見ているんだろうね、って話だ。

■ できてあたりまえ、やってあたりまえ

今回は私のリーダーシップでの月例山行だった。

だから、

 ・山行に参加したいかどうか?は各自が自分で判断すること (自己責任の原則)

 ・地図を持ってこない人がいた時点で集合口敗退とすること (リスク管理の原則)

は、徹底してもらった。難しかった。でも、くじけずにやってよかったと思っている。

≪私の側の努力≫
・地図読みの伝達講習する
・地図読みの本を差し上げる
・参加する人のレベルにあった山行内容にその人のために変更する
・自分ではなく、その人のレベルに合わせた山のサイズ、地図読みの難易度の山を選ぶ
・準備の敷居を下げるため、地図のリンクを差し上げる
・判断の敷居を下げるため、標高差と距離の情報を差し上げる
・協力者に助力をお願いする


■ 山が要求することを受け入れる

自己決定というのは、覚悟と自信につながる。山は覚悟を要求する遊びだ。山に行くには、当然だが、リスクを引き受けなくてはいけない。

山のリスクは、他人に引き受けさせようと思っても、本質的に出来ない。人生と同じだ。環境のせい、世間のせい、人にせいにしても、コストを払うのは常に自分だ。

以前、ガイド登山(デナリ)で凍傷になった人が指を失って、ガイドを訴えていたが、いくら訴えたり大金を要求することができても、失った指は帰ってはこない。代償を支払うのは自分なのだ。それを引き受けることを覚悟という。リスクテイキングは覚悟を要求する。

自ら、覚悟して、リスクを引き受けてこなかった人は、どんなに大きな山を経験しても、それが自信につながらない。自信につながらないから他人を頼る。

何回山行を積み重ねても自信につながらない、という事実が、”自分でリスク管理して山に登っていない”という真実を暴いてしまう。

自信がないから日和見主義になる。自分のことなのに人に決めてもらおうとする。ブランドに頼る。

安易と安直と見た目の豪華主義は、自信の欠如に端を欲する。

第七級でメスナーも言っていたが、自分で登ったⅣ級の方が人に登らせてもらったⅤ級より価値があるのだ。だから、どんなに小さくてもいいから、自分の山を登らなくてはいけない。

小さくても自分の山を登る。それはスタイルの一つだ。

そうして得た自信だけが、真の、自信、自己肯定感、そして幸福を作る。

■ 山を冒とくしない

登山道の無い山に行くと分かっていて(登山道がある山であってもだが)、地図を不携帯で来る人は、山を舐めている。

そのような姿勢では、必ず道迷い遭難につながる。当人も分かっているから、その人は事故を起こさない代わりに、通称”頼りになる人”と一緒でしか、山に行かない。

この場合、”頼りになる人”というのは、”山岳会の先輩”、”パートナー”の名を借りた、実質のところ”ガイド”である。つまりガイド対価を払わないガイド登山だ。そのことに気が付いていない分だけ、質が悪いともいえる。連れて行ってもらうのに、一緒に行ってあげる気分でいるからだ。

■ 過剰な要求とは何か?

山に行くときは地図を持って行く。

これは何も過剰な要求でもなんでもない。誰でもやっていることだ。難しくもなんともない。

地図を持っていないし、持ってくる気もないし、地図を読む気もないけれど、山には行きたい。

これは、過剰な要求だ。

それは、ビレイを勉強する気もないし、支点の作り方を覚える気もないし、宙吊り登り返し練習も、懸垂下降の練習もしたくないが、岩には登りたい、というのと同じくらい、過剰な要求だ。

■ 礼を尽くして山に入る

今回は

 山に対して最低限の礼を尽くしてから、山に入ること

という私のスタイルを貫くことができた。これは協力者あって、実ったことだった。

なので、まずは協力者のお2人と風邪を押して参加してくれた夫に感謝したい。

夫は今回、風邪気味で(それも私が移した風邪・・・^^;)で、参加を見合わせる予定だったのだが、私の願いを聞き入れてくれて、参加してくれた。

予想どおり、山行では夫が一番弱く、下山も遅れがちで、疲れたようで彼には悪かった。

夫は読図は上手で、以前林道で脱輪した車がいたときは、脱出が一番上手にできた人だったし、私が前進に夢中の時、進路を補正してくれることが多い。いつも私が困って振り返ったら、そこにいる人は大体夫だ。

私は夫と二人だけで行く山が、やっぱり一番好きだ。私は女性なので、恋人と行く山が一番楽しいのは当然か。

年末年始は夫と山に行く予定が、機会がなく、今回は夫と二人だけで行く機会としたかったのだが、会山行ではリーダーだったので、抜けるわけにも行かなかった。

それに世話になっている先輩に夫が面識がある、というのが一番大事だと思っている。

私は命がかかるかもしれない山もしている。命がかかる山にしないようにして、しているが、それでも命がかかってしまう可能性があるのが山だ。

そのとき一体誰が何を知っているべきか?というと、夫が私がしていることを理解し、仲間を知っているのは大事だと思っている。

■ 女山

女山は会の先輩が少々のエリア研究をして開拓した山だった。フリークライミングの聖地?小川山がある川上村。

私自身もエリア研究している場所がそのエリアのちょうど表となるところにある(奥昇仙峡)。自分の山と一度バッティングしてしまって行けなかった先輩の山だった。

川上村には男山もある。男山の方が有名で、登った人もいるんではないかと思う。たしかにクライミングの帰りに運転しながらみる男山は、キリッと突出して、いかにも男らしい山だ。

奥昇仙峡には、男和尚、女和尚という岩があって、ちょうど凸凹になっているので、男山と女山もそういう意味かと思っていた。

だが、川上村の女山は違うらしい。女山は、おっぱいの形だそうだ。それで、つまりツインピークスなのかと思ったら、それも違うらしい…・

では何か?というと、おっぱいの上に乳首が付いている形が、おっぱいなのだそうだ(笑)。

今日のトレースはピストンなので、山の形を正確に表しているわけではないが、往復でこういう形になった。

■ 快適な雪山

この山はこの辺ではよく見る快適な唐松、小楢、ブナの疎林だった。手入れがされている山なので、尾根は夏でも歩けそうに見えた。

ただ山梨の冬の快適さは、このような里山の雪の上にあると思う。北面だが明るく、快適な無名雪尾根ハイキングとなった。

この山の素晴らしさは、一体何にあるのか?

それは、第一番目には、パーティ全体の力量にあっていたということがある。登り3時間下り2時間という山のサイズは、高齢者女性2名を含むパーティの体力にあっていた。

次に、まったく記録の無い尾根を、地図読み山行するということで、これは本格的な登山、の範疇に入る山だ。 同じサイズであっても、例えば高尾山などの手あかが付いた山にいくのとは違う。
自分自身で地図を見て、ルートを設定しなくては歩けない。

第三に、その読図の範疇では、初級 だった。これも、読図が必要な山をする、初めての人に向けて、かなり敷居を下げている。 尾根は林道終点から始まり、林道を使うことで、アプローチ核心になりがちなこうした山のアプローチの不安をなくし、なおかつ、尾根に乗ったあとも一本の尾根で分岐で曲がる予定はなく、明瞭。勾配が高いほうに行けば基本的に間違える、ということがない。さらに到達しようというピークが尾根の途中から顕著に見えている。

第四にご褒美があること。展望。

第五に、まったく誰にも踏まれていない雪の上に自分の足跡をつける楽しさが、ラッセルの大変さを補ってあまりあること。

第6に、快晴の天候のチャンスを最大に生かしたこと。

冬の尾根は、樹冠から葉が落ち、冬の一番の脅威である風から樹林帯で守られているにも関わらず、展望がある、という点がお得なのだ。そして、それは人間が手を加えたのではなく、単純に、季節と雪と言う自然物の利点を利用した、という人間の知性が自然のままの自然と組み合わさった結果なのだ。

そして、最後に、会山行は、得るものがある山行であるべきだ、ということ。パーティの中で、弱い人に合わせて歩いても良いのだ、ということ。山はどんな山だって得るものがある。私はそうした山をしたいのだ。

入れるギリギリまで、車で入る。

スタートは8:50 しばらく雪の林道を行く。

本日快晴。

 林道からは、下部が緩やかな尾根で、ルートファインディングしづらいが、しばらくすると、このように明瞭な尾根を行く。

岩の上を歩いた箇所一か所。

この尾根は明瞭で見やすい。

隣の北尾根よりも、展望が良い。

 最後の急な登り。

ワカンを付けた。

山頂12:00

休憩30分。

下山開始12:30.

下山は早い。

時間にもゆとりがあるので

長靴で、雪山のボルダリング・・・

登ってしまえるところがエライ!


下山完了、14:30.

”良い子の山時間”。

≪関連記事≫
あぶないクライマーとは
会心の登山 女山

Saturday, January 24, 2015

古い岳人記事: 小川山ステップアップ

■古い岳人礼賛

今日は図書館で 古い岳人を借りてきた。

私は時々、古い岳人を借りるのだが、岳人の編集が現代の物とは、

 視野の広さ

という点で大違いなのを時々感じる。

しばらく前の記事で、

  • 八ヶ岳のステップアップが廣川健太郎さんに指南され、
  • 冬山のステップアップが菊池敏之さんに指南されていた

件は記事にした

今の岳人、また、山と渓谷には、

  山上駅から始まる山

という特集や

  ソロ登山特集

あるいは

  山ごはん特集

という特集があったとしても、(何も食当特集が役立たないとは言わないが・・・)

  • ワンシーズンを単位として、どう登山者がステップアップして行けばよいか?
  • 1年を単位として、どう登山者がステップアップして行けばよいか?
  • そのステップを上がったら、次はどこへ行けばよいか?

を指南する記事は非常に少ない。平たく言うと視野が狭い

雑誌を連載する編集者の視野が狭くなったのか、それとも寄稿を寄せる人たちの質が落ちたのか知らないが、基本的に、

 一時的で刹那的な喜びや勝利を語った記事

しか見ないので、そういう雑誌に率いられる登山者も、いきおい、そうなるのだろう。

■ソロが一番安全

まだ登山1、2年の頃、つまり山岳会も想像だにせず、クライミングもたしなむ程度、ギアも持たず、講習会も視野に入らない頃、どういう登山スタイルが最も安全だろうか?と山のベテランと議論して、それは

単独か夫と行く山

ではないだろうか?という結論が出たことがあった。

依存的な人と行けば、こちらの負担が増える。高齢者と行けば、救急箱替わり。初心者と行けば、ガイド代わり。弱い人と行けば、シェルパ代わり。

一般的な登山が可能な、健康で、なおかつ体力と判断力が健全な人にとっては、

 誰かと行くほうが安全になるとはあまり言えない、という結論

だった。

そのことを示しているような、2015年2月号の各山雑誌の特集だと思った。

■ 山にはその人の生き方が現れる

そういう風潮の中で、初心者の時期から、古い雑誌に出会え、八ヶ岳研究に出会え、北八つ彷徨を読むことができたのはラッキーだ。

でも良く考えると、私は特別な幸運に出会えたわけではない。多くの人が私と同じ機会を得ても、それを素通りしただろう・・・と思う。実際その現場を目撃したことすらある。

私が古い山の本を読むことになったのは、古老の岳人との出会いが元だ。

八ヶ岳研究を読むようになったのは、ピッケルの使い方を学ぼうとした人が渡してくれたからだ。

岩場で老練なクライマーに会ったら敬意を表するべきだ。

岩でも山でも、心ある人は皆が互いの安全を心配してくれている。

私は私が持ったのと同じ出会いを素通りしている人を何人か見ている。

最近思うのだが、その人がどんな登山をしているかを見れば、その人の生き方が見える。

依存して生きてきた人は何年たっても依存的な山をし、コツコツとした努力で積み上げることで成功を勝ち得てきた人は、その成功哲学と生き方が山に反映されている。

自分を過大に評価してきた人は、やはりどんな内容の山をしても、自分のことを顧みないし、山そのものは見ていない。

ブランド主義の人はブランド主義者のままで、日和見主義な人は、都合の良いパートナーシップを求める。

生き方が現れるの山だ。 山にはそういう側面があるのだから、恥じない山を続けていくことがより一層大事だと思う。

≪参考 岳人629号≫
「フリークライミングの故郷 小川山の味わい方」と題する、菊池敏之さんの記事がある。初心者からステップアップする小川山のルート名が記されている。

 特集はロープウェーで登れる山。

Friday, January 23, 2015

トレジャーハンティング

師匠が、つい最近発見した氷瀑を評価してくれたので気をよくしています♪

これ♪



この日、装備がアイス装備でなく、長靴で行ったので、当然、登れませんでしたが、登ろうと思えば登れることは確実な滝でした。

混んでるゲレンデより、空いてる無名滝かなぁ・・・。

金ヶ窪沢は山梨の山岳会だけの場所かと思っていたら、そうでもないらしい。遠くからも来ていてビックリ。

この辺は雪が少ない割に寒く、道路の染み出しがいつも凍っています。なので、登れる滝が実はいくつもあるんではないか・・・と思っているんですが・・・。


わざわざ降りて見に行った、堰堤の氷・・・。

なんか登れそう、けど下がね~。靴が濡れるのはなー。もう少し寒いと氷結もよいのか?


こういう風になってくれたらいいのにな~ それでも完全氷結ではないので、濡れそうでやだけど。

アイスの可能性のあるところを見つけるのは、なかなか難しい。

1)北面の沢
2)直瀑 ナメでないところ
3)水量がそう多くないこと

が3大条件か?

北面じゃないと凍らない、とは限らないのだが、南沢小滝も大滝も、金ヶ窪沢も北面だ。やはりあたりが多そうなのは北面か・・・

そして直瀑でないと、流れがあると凍らない。

その次に水量。水量が多くても、直瀑であれば、端っこは凍るみたいだ。

それにしても、夏は南沢大滝はどうなっているのだろうか?アイスの時期にしかのぼれないのではないだろうか?

醤油樽の滝は、無雪期にも遡行記録があって、無雪期も登られていて、それなりに楽しそうだった。

夏の沢歩きでは、北面の沢かどうか、なんて気にして歩かない。それに直上しないといけない長い滝はパスして、巻くことがほとんどだ。滝はプロテクションがとれないから、長いのは危なくて登れない。落ちても軽傷で済むような、小滝が連続するようなところが楽しい・・・それでどうしても、冬のアイスに適したような滝がある沢と夏に遡行に適した沢は違ってきてしまうのだ。

私の中では、ココと、ココも、もしかしていいのかなぁ?なんて思っている場所なんだが・・・。

 北むきだし、登山道で遡行できそう。
この沢の下部には滝があった。不動滝。
北向きの滝。でも傾斜が緩すぎるかなぁ~

大滝はどうなんだろう?

山と正面から向き合えば・・・

■ ダーリンも風邪

昨夜は夫がなんと夕方の6時に家に帰ってきた…帰ってきた途端にベッドに入って、眼鏡もかけたまま、ぐっすりお休み…沈没です。

私たち夫婦はいまだに一緒のベッドで寝ている。世の中にはそうでない夫婦もいるらしく、そんなことは私には想像もつかないことだった。たぶん、それは私の方が一般から、かけ離れた感性をしているらしい…と、結婚して10年以上たってから、友人に教えてもらった。

…というわけで、夫は昨日、私に風邪を移され、彼の方が重傷、なんと熱まで…。晩御飯も食べないで伸びていた…。

同じベッドで寝るという代償は、風邪を引くリスク倍増。高くつくわけだ(笑)。

■ 山の死

昨日は一日、ベッドの中で、終日『登山の文化史』を読んでいた。

私は登山歴まだ5年しかない。

山の死は悲しい…。 

どう位置付けて良いか分からないので、いつも動揺する。

自分も死の可能性があるからだ。それは知っている。だがそれは一般登山者も同じことだ。山は危険が一杯なので、いつでもその可能性はある。

山の死をすでに何例か知っている。実際に会って話をしたことがある、知っている人が亡くなった例も既にある。

■ リスクを引き受ける精神

登山は趣味にしようと決めたもの、だ。職業を選ぶのと同じだ。やると決めたから、やっている。

登山を始めたとき、私は、自分をアルパイン志向だと思ったことはなかった。

ただ山は危険であり、その山に登るからには、最低限のことを知り、備えを持つべきだ、と思って、普通に安全対策を実施して来た。

今振り返ると、それこそが、アルパインの精神だ。リスクを引き受ける精神。

自然の脅威は、相手がハイカーだろうが、本格的登山者だろうが、山である限りは同じ自然だ。
雨は誰の上にも雨なのだ。 ハイカーの上だけ雨が振らない、なんてない。

どの登山の指南書を見ても、天気に注意せよ、計画をきちんと立てろ、地図を持て、地形をよめ、山の機嫌を感じろ、装備は細心に、無理はするな、と書いていある。

■ アルパイン=向上心

しかし、ただ一つ、本に書いてなくて、”本格的な登山”と”お気楽ハイカー”を分けるのは、向上心、ではないだろうか?

山のために、自己を向上させよう、とするか、しないか?

当然ながら山の世界では山仕様の度合いの強い人が、そうでない人より上だ。

より山に順応しているほうが山に順応していない(つまり下界の価値観を山に持ち込んでいる)人よりも、上級者にランクインする。

■ コストを払う

つまり、登山者とハイカーを分かつのは、どこまで山仕様に自分を変える覚悟があるか?だ。

登山の文化史にはこうある。

「ハイカーが山で死ぬほどバカげたものはない」

ーーーーーーーーーーーーーーーー
ハイキングと登山を峻別するべきだと思う。ハイキングは良き娯楽であるが、要するに人の通った道を指導票によって歩くものである。おのずと歩きは上手になるが、これを重ねて登山になるのではない。

そこには登山におけるごとき、敢闘の精神、またそれを可能ならしめるための普段の技術の鍛錬ということがない。ここで登山は初めて娯楽と区別され、スポーツに数えられる。

ただ一般に登山家と数えられる人々のうちには、実はハイカーにすぎぬものが案外多いのであって(日本アルプスにもハイキングはありうる)山に対するなんらの正しい、知識訓練もなくして、山へ登って死ぬ人がいる。これはハイカーが山で死んだのである。

登山家と言われるためには、地図の見方はもとより、雪崩れの知識、山スキー、岩登り等を心得ていなくてはならない。
ーーーーーーーーーーーーー登山の文化史 P52 より引用

■ 上は一つだから誰もが同じところを通る 

どんなことでも同じだが、上を目指す人…は、山でも、山でなくても、自己を向上させようとしている人だ。

アルピニズムは、西洋の価値観なので、登山しつつ、”上”をめざし、自己研鑽に励む。その”上”は技術と言う意味の、”上”でもあるし、山のサイズと言う意味の”上”でもある。

誰にとっても山をしていれば、”上”へ行く道のりは、必然的に地図読みへつながり、地図読みの後は、ロープワーク、そして、クライミングにつながり、アイスや沢につながる。

ハイキングの人は自己を向上させようとは思っていないので、”上”につながらない。彼らが行く山は同じ山でも、内容的に自分で登ったとさえいえない。

山ヤの体系の中で、”上”を目指す以上、技術を避けることはできない。山をよく知ろうという道のりにある人であれば、誰もが同じところを通る。

それは尾根を歩いてさえいれば、やがて森林限界が出てきて、ハイ松エリアになるのと同じようなことで、最初に出てくる技術は地図読みなので、地図読みをすっ飛ばして、その先はない。いつどこで、どんな登山をしていても、山が少しずつでも、向上して行けば、必ず、同じ場所を通る。

だから、山ヤの先輩は、時代が違っても、普遍的に後輩の成長段階を知ることができるし、アドバイスを与えることができる。

■ 自分との戦い

食べることに事欠かない人にとって(つまり大方の日本人)、仕事は何のためにするのか?

それは昨日より良い自分になるためだ。先月より、今月、去年より今年、よりベターな自己を目指して頑張る。つまり自己実現のためだ。そのことを理解できない人は仕事で踏ん張れない。これはより初歩的な段階では、他者との競争でスタートする。

けれども、結局、高度化すると、自己との戦いになる。

己れとの戦いに転換できるか否か?が一つの分かれ目だし、それが生きることの本質だ。

生きることと言うのは、結局は自分を実現して行くことだ。

自分を生きること、そのものが、未知への冒険行だ。

西洋的アルピニズムは山を通じた自己との戦いだが、日本には、もともと近代登山はなかった。あったのは修験道の山だ。

だから、登山を自己との対話、それも自分の限界をプッシュする活動、と、とらえる心的ニーズは、個人差が大きいのかもしれない。

私にとっては、登山は初めは、禊的な意味があった。

■ 試練がなければ、価値は形成されない

山は誰しにも試練を与える。

 雪上訓練をしなくてはならない、というコストを上回っても、〇〇山に行きたいか? Yes/No

私の場合、冬のタカマタギに出かけたときに一つの境界線があった。あれは現地へ行くだけでも大変な山で、時間と労力と経済的負担、の三拍子だった。

 そのコストを払ってまでも雪山に行きたいか?Yes/ No

問いは人によって違う。

 雪道運転をマスターしてでも雪の山に行きたいか? Yes/No

 苦手の地図読みを乗り越えてでも、山に行きたいか? Yes/No

単独では、甘えは一切許されない。つまり、苦手を誰かに頼ることはできない。だから、単独行者は非常に強い動機を持っていると言える。単独行では、小さなハードルのすべてを自分の力で越えなくてはならない。

 林道が心細くても行きたいか? Yesの人だけが単独でも山に行く。
 オジサンに襲われるかもしれなくても行くか? Yesの人だけが単独でも山に行く。

登山初年度、夫が一緒に行ってくれない日曜日、冬の大菩薩に出かけた。

 冬に行く大菩薩は初めてで、心細かった。それでも行きたいか? Yes/No

 林道を冬タイヤで走るのは、初めてだ。それでも行きたいか? Yes/No

 ひとりで行くか? Yes/No

 寒いよ、それでも行くの? Yes/No

こうした小さな葛藤のすべてに Yesと答えられる人だけが単独行を選択する…

だから、分かっている人はソロ登山に注目する。ソロであってもなお、そのリスクを冒してまで、行きたいか?という問いに全部Yesが出た、という意味だからだ。

つまり、試練を経ていないで、得た山行より、試練を経てなお行った山行の方が価値が高い。

それだけ強く行きたいという気持ちに貫かれている、ということだ。 岳人の凄さは、山の大小だけではなく、貫きたい意思の強さで計られる面がある。昨今は、”行けるから行っただけ”の山が増えているので余計にそうだ。

■ 諦観というか覚悟と言うか

私の、二つ目の試練は、経済的なものだった。昨今山を学ぶにはお金がかかる。大町の講習会に出ると決めたときは、一つの諦観があった。

だって、山に行きたいんだもの、講習会にお金を払うのは仕方がない・・・そういう諦観だ。

まぁ経験から、経済的負担と言うのは乗り越えるのが比較的易しいタイプの試練だ。働けば済むことだからだ。実際、小屋に働きに出て解消した。

その後、歩荷散歩も試練だった。無いものはつけないことにはしかたない。

山岳会に属すことも気に入らないが、仕方ない、とあきらめた。

そういう諦観は、やってみると別に大したことでないことが多い。

逃げてばかりいないで、正面から取り組んでみることだ。

中はこんなことになっているんです・・・
■ 山バカ

次々と出てくる試練を甘受して、どのようなハードルが出てきても、山へ行く、という方を選ぶようになると、これはもう病気である(笑)。

しかし、この病気の基礎はどこで築かれたのか?いうと、前の趣味バレエにある。バレエをやっている人は等しく、バレエ馬鹿である。寝ても覚めてもアンドゥオールしようとしている…(アンドゥオールと言うのはバレエの基礎で足を外旋(ターンアウト)すること)。

バレエをする人は、趣味だろうがプロだろうがバレエに生きてしまう。

山はそれと似ている。


今日の御坂方面

Thursday, January 22, 2015

夢踊る2月の八ヶ岳

■ 岳人 2004年2月号

私の八ヶ岳通いは、この1冊の岳人から始まった。

現代と違って地味な表紙の本だが、ヒロケンこと、廣川健太郎さんが、

「魅力いっぱいの八ヶ岳」

として、八ヶ岳の各ルートのグレード表を、初級、中級、クライミング、としてアップしている。

この本を得たとき、私と夫はすでに初級上☆☆にランクインされている、北横岳~高見石は行っていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
初級 雪上歩行の基本、キックステップ、アイゼン歩行に慣れる
    初級 ☆ Or ★
    初級上 ☆☆

中級 雪山ステップアップ ラッセル、岩場の登下降に慣れる
    中級 ☆★~☆☆☆
    中級上 ☆☆★

上級 ロープを使ったクライミング  
    ライトバリエーション    ☆★★
    バリエーション    ★★★

★は☆の1.5倍ランク上。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ちなみに ☆の数を数値に換算して、載っているルートを一部紹介すると 

 蓼科山              ☆  1
 赤岳 文三郎道~地蔵尾根 ☆☆ 2
 稲子~天狗~硫黄       ☆☆☆ 3
 川俣尾根~権現        ☆☆★ 3.5
 阿弥陀中央稜          ☆★★ 4
 中山尾根             ★★★ 4.5

となる。★★★には、旭岳東稜も入っているのだが、ホントに★三つくらいでいいのだろうか?

ライトバリエーションとバリエーションは、だいぶ違うのではないか?という気がするが・・・。

☆☆の中級クラスには、天狗岳西尾根や、阿弥陀御小屋尾根と一緒に、県界尾根、ツルネ東稜も入っていて、私はツルネ東稜は、歩いているのだが、その実感からしても、ホントに一緒でいいのかしら?と思う。

県界尾根と真教寺尾根は私にとっては長く体力が必要な上級ルートのイメージなのだが・・・。まだ行っていないから、規模が分かっていないだけなのか?

ともかく、この特集から、私と夫の山が始まった。

■ 〇〇に登るためには、何をしなくてはならないか? 山の因数分解

夫は、言いだしっぺで、赤岳に登りたいと言っていたのだが、結局、登っていない。

赤岳に登るには、雪上訓練を受けて、キックステップをマスターしないといけない。 

しかし、彼は雪上訓練を受けて、キックステップをマスターする、というほどの努力を山に傾ける気持ち時間もなかったので、結局、赤岳に登ることができる、十分な下地が作られず、冬の赤岳は今のところ棚上げだ。

そんな彼でも行くだけなら行くことはできる。が、その場合、一か八かはないわけだから、ガイドをつけないといけないので、4~5万円の登山になる。同じ4~5万円なら、セックンにかける4~5万円の方が価値がある、というのが私の考え方だ。 魚を与えるのではなく、魚釣りの方法を与えるべきだ。

■ 普通の人が言い出す、無謀な山

考えてみれば、夫が言い出す山はいつも、いきなりデカい。

夏山だが、彼が、初心者の初めての穂高で、奥穂を白出沢から提案したとき、私は思案して、1泊二日の岳沢からの前穂に変更した。

11月の西穂丸山は彼の山。でも独評から先へ行きたいと言っていたのは、どこへやら・・・。その先にいくために、支払わなければならない努力…が分かると、彼の行きたい!は、潮が引くように引いて行った。

以前は、甲斐駒に登りたがっていたが、今では話題にも上がらない・・・(笑)。

彼はいつも、力量以上の山、派手で、誰もが知っている山、を提案してきていた。きっと単純に、それしか知らなかったんだろう。

それを私が思案して、自分たちの力量で行ける山に仕立て直ししていた。

そのまま行っていたら、二人で遭難だ。

彼の山の選択は、無知がゆえに、山を舐めていたのだろう。

■ フツーの人の無謀な山

もちろん、彼は山を舐めるという言葉が連想させるような、傲慢な、イケイケタイプには到底見えない、むしろ、わたしなんかより、常識人を連想させ、弱気に見えるくらいの人だ。

山を舐めているつもりは毛頭なかったに違いない。それでも、出てくるルートは、赤岳行きたい、奥穂行きたい、西穂行きたい、それがスタート。

ハッキリ言って、山を舐めている。それは否めない事実だ。

フンフンと鼻息荒い暴れ馬ではなくても、止めてくれる人がいなければ、とんでもないところに、スキルゼロで行ってしまうのだ・・・、無知な人ってものは。

だから、初心者の場合、一番怖いのは無知だと思う。

■ スキルアップ

この岳人2004年2月号の凄いのは、菊池敏之さんの寄稿で、

  「1月からGWまでの過ごし方」

が指南されていることだ。それも初心者と中級者の2パターンで。

例えば、初心者は
              テーマ
1月 丹沢表尾根  冬山とはなんぞや?を知る
2月 北八つ     雪がいかに夏道を消してしまうかを知る
3月 金峰山     ペース配分を知る
4月 天神尾根    ピッケルアイゼン入門
5月 八方尾根    雪山に自信を持つ

となっていて、翌年の中級者へつながるように出来ている。 その月その月で何をテーマに登ったらよいかも分かる。

つまり、山の性格、金峰山はペース配分の重要性を理解するために行く山だ、と狙いも分かる。

行った先々で何を学んで来ればよいのか?も、きっちりと理解ができるように、5ヶ月間が組まれているのだ。

私は、この特集で、そうした考え方も学んだと思う。

どの月に何をテーマにすれば、トータルで山力が付くのか?そういうステップアップ方法が分かれば、あとは山を変えても、同じ性格のを持って来ればよいだけだ。

■ 暫定パートナー

ところで、ここのところ、クライミングしていないのはパートナーがいないためだ。

誰か雪山に一緒に行くひとがいないかしらとと思っていたら、現れた。 

神様は、心の声が聞こえるらしい。

しかし、現れたその人は、女性なのに、単独 北岳~農取を今年の正月に縦走して来たそうだ(汗)

■ チャンスの女神の前髪

このところ、体力が落ちているな~、山を歩きたいな~と思っていたので、突然のこれは焦る。 

ちゃんと日ごろから、爪を研いでおかないと、チャンスが来た時にチャンスの女神の前髪をつかみ損ねる。

追い風でない環境にいるから・・・と、自分を甘やかしてはいけないってことだ。 反省、反省。

■ 積雪期北岳

しかし、北岳・農取を積雪期に単独とはすごい・・・

私も、せっかく山梨にいるからには、積雪期の北岳くらいには行きたいと思った。

でも、暗いトンネルを一人で寂しく歩くのなんてヤダし、厳冬期は単独は無謀だ。

ガイド登山?ガイド登山で行くくらいなら、行かないでいい。

去年はバットレスのアプローチの下見も兼ねつつ、無雪期にテント泊で池山吊尾根から北岳に登って、冬の登路もついでに偵察をしよう!と、偵察山行を、何人か、大体同じくらいのスキルの人で、北岳に行きたいと日ごろ漏らしている人たちに声を掛けた。

ところが、偵察山行は実現しなかった。

みな、いきなり行きたがるんだなあ・・・どうしてなんだろう?

休みが少ないことを上げる人もいるけど、休みは人工壁に消えたりして、人工壁に消えるくらいの休みなら、本番の偵察のほうがより目標に近づけるに決まっている。

その辺の感覚は、私には謎だ。夏に冬の山の下見をする、というくらいのことは、常識だと思っていた。

北岳は長い長い林道歩きがあるので、ベテランには人気がない。

初めて行くか、ガイドとして対価がもらえるから、耐えられる場所だ(笑)。だから、先輩の同行は、期待できず、行くなら初見同士で行くしかない。

先輩と言うものは、疲れる山はもうしないのだ。もっとご褒美が大きい山を知ってしまっているのだ。

初対面の人と初対面の雪山に行くって言うのは、私にはないー。

しかし、この女性、すごすぎるので、私の周辺のワタシより体力がありそうな人、何人かに声を掛けたのだが、みな彼女がすごすぎて引いてしまう・・・ 

わたし自身も、体力的に一人ではもたなさそうなので、どうしよう・・・(汗)、と言う感じだ。

半ば、うれしい悲鳴?というところ。

早く風邪を治さねば! もう鼻水が緑色になってきたのでもうすぐだ。


Wednesday, January 21, 2015

八ヶ岳のバリエーションルート

八ヶ岳のバレエ―ションルートのバイブルは


『八ヶ岳研究(上・下)』 独標登高会

です。 

しかし、いまどきの人は、この本を知らないみたいです。実際、私も教えてもらって知りました。

教えてもらっているので、同じですが、同じでないのは、読んだか読まないか?かもしれません(笑)

大体の若い人は、基本的に雑誌に依存しているようです。

だから雑誌が特集したところだけに、人が偏ります。 

そして、最近はネットの情報が依存先らしい・・・金ヶ窪沢は小さなゲレンデなのに、人でいっぱいでした(汗)。

逆にベテランは、情報がないところほど価値が高い、という価値観で動いています。初登と同じですね。

雑誌だと、最近では岳人に『ハイグレード八ヶ岳』という特集がありました。

また、赤本、『チャレンジ!アルパイン』でも、八ヶ岳のバリエーションルートが取り上げられています。

≪信用度ランキング≫

低い ←ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー→高い
     ネット       雑誌       本     行ったことがある人      

以下、それらの本からルート名の抜粋です。

■ ハイグレード八ヶ岳

阿弥陀北西稜
阿弥陀南陵 ☆
広河原沢3ルンゼ 3級下 V級マイナス 新雪期
広河原沢中央稜 ★
キレット越え
石尊稜
中山尾根
赤岳西壁主稜
小同心クラック ☆
三叉峰ルンゼ
峰の松目沢 ☆
権現岳東稜
朝日岳東稜

■ 『チャレンジ!アルパイン』

ジョウゴ沢 2級 V級+
大同心ルンゼ 3級 Ⅴ級+
南沢小滝・大滝 Ⅳ級~Ⅴ級

阿弥陀北陵 1級上 Ⅲ 
阿弥陀北西稜 2級上 Ⅳ級 Aゼロ
広河原沢左俣 3級 Ⅳ+
広河原沢3ルンゼ 3級 Ⅳ級+ 
広河原沢右俣 2級上 Ⅲ級+~Ⅳ+

赤岳天狗尾根 1級 Ⅲ+
権現東稜 2級 Ⅳ級
上ノ権現沢 2級 Ⅳ級
権現沢右俣・左俣 3級 Ⅳ級~Ⅴ級-

※ルートグレードとピッチグレードは違います 


■ 『八ヶ岳研究』 (下) 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・阿弥陀北面
 北陵 最も容易
 北壁 登攀ルート
 北西稜 すっきりとした岩稜登攀が味わえる代表的リッジ
 西稜 登行少ない 静かなルート
 中尾根 樹林に包まれた尾根
 南陵 ほとんどバリエーションの面影がない

・広河原沢
 第一ルンゼ、第二ルンゼ、第三ルンゼ 第二ルンゼが本谷の本流
 正面壁ルンゼ
 左股 手頃な小滝が連続
 右股 つめが頂上に達していない

・立場川奥壁
 龍頭峰Aリッジ
     Bリッジ
 左ルンゼ
 中央ルンゼ
 右ルンゼ
 右尾根
 
・立場川
 本谷    もっともポピュラー 無雪期初心者可 積雪量が多いので初冬向き
 がま滝沢  入る人が少ない
 のろし場沢 入る人が少ない

・地獄谷
 本谷 初心者向き
 赤岳沢 中級者向き
 天狗尾根 初心者向き
 上ノ権現沢 中級者向き
 旭岳東稜 上級者向き
 権現沢 上級者向き

・積雪期の一般コース

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 


山行計画を立てる

■風邪

昨日は歯医者に1ヶ月ぶりに行ったら、なんと風邪菌を植えつけられて帰ってきてしまった(汗)

喉に風邪菌が着床?した瞬間が分かるほど、風邪を引いた時点が分かる…ので、今日は強制的にベッドに釘づけ。熱はないが、何が何でも風邪は治したい…。風邪は寝ている以外、直す方法がない。

■山行企画 

山行企画を立てるのは好きだ。地図を見るとワクワクする。

山行企画を立てるとき、まず考えるのは、季節柄。山には、適期、というものがある。

■ 季節柄

アイスクライミングは、もちろん夏は企画できない。そんなのは当然だ!と思う人がいるかもしれないが、世間を見ていると意外にそうでもない。

例えば、ハイキングは、別に冬でなくても行ける。冬にしか行けない固く締ったアイスが行ける日に、ハイキングに行かなくても、ハイキングはハイキングで適期がある。ハイキングはやはり花や新緑、紅葉だろう。

これは岩も同じく。岩は別のシーズンでもできるが、アイス適期は非常に短い。雪で埋もれてしまうとアイスはできない。岩の適期はハイキングの適期と似ており、山の気候がマイルドな時期だ。

そういう意味では、ハイキングは、山の気候の良さ、環境の良さを味わう山行と言うことができる。

同じことで、雪山ラッセル山行も適期が短い。特に新雪ラッセルを愉しみたいとなると、さらに短く、天気図とのにらめっこだ。雪が降った翌日に、それいけ!と出かけなくてはならない。

雪は一日寒暖差を経験すると、固く閉まり始め、快適なラッセル山行にならない。とは言っても、ふかふかサラサラの新雪ラッセルが、快適か?と言うと、正直、快適さとは程遠く、サラサラすぎるので、前にはなかなか進めない。

進みたいなら、数日待てば雪が締る。そういう意味で、雪が降った翌日、2日目、3日目、4日目と雪の状態が変わる。ので、一言ラッセル山行、と言っても、全然内容は違う。

雪の上を歩ける山なら、結構距離が稼げる。本当の新雪だとスノーシューでもワカンでも、5分の距離に30分かかる。まぁ勾配のきつさにもよるが、平らでないほど、雪の支持力が期待できない雪だと全然前進できない。

■ 天気

次に考慮するのは、当日の天気。晴れか、曇りか、は適した場所が違う。

快晴で遠望が利く、真冬に、薄暗い沢でウジウジしているのは、お天気快晴!に対する冒涜だ(笑)。お天気が良い日ははピークを目指したい。別に沢から目指したっていいのだから、ピークが踏める山が良い。

要するに、アイスだ、岩だ、という、本チャンとの反対語と言う意味での、ゲレンデ山行は、曇りの日向き。練習は曇りの日。晴れは本番。

■ 日数

次に考慮するのは、使える日数。 日数は山のサイズと関係がある。

3連休なのに、日帰りはないだろう。連日晴れと分かっていたら、ぜひそういうチャンスを生かした、大きな山をしたい。機会は尊い。快適な縦走をできるチャンスはそうないのだ。

昨今は、使える休日が限られている、という点で、特に機会の尊さが大きい。

■ 時間

次は使える時間

当然ながら、夏より冬は日が短い。使える時間は夏より2時間は少ない。そして、時間は、体力の兼ね合いがある。体力があれば使える時間は長いが、無ければ短い。

一般には標高差300mを一時間で上がれる体力があればOK。時間もそれで計算する。

■ メンバー

最後にメンバー

ビレイができるメンバーがいないと、クライミング山行は当然だが企画できない。

アイゼン歩行と滑落停止訓練をやっていなければ、すってんころりん600mの可能性が少しでもある山はパス。山に、一か八かはない。

岩場での自己レスキューが出来ていなければ、少しでも墜落が予想できるルートはパス。

地図読みができなければ、雪尾根は歩けない。

逆に言うと、クライミング力で突破力があるメンバーがいれば、難しいルートにチャレンジできる。

体力があるメンバーがいれば、ラッセル山行で時短を期待できる。

歩荷力のあるメンバーがいればテント泊山行ができる。

判断力の優れたメンバーがいれば、山小屋という保険がなくてもマイナールートが狙える。

ロープワークができるメンバーがいれば、まさかの際のレスキューの保険になる。

さらに救急救命法をやっているメンバーは、突然の人身事故に備えることができる。

車が四駆であれば、雪道走行が可能なわけで、冬のアプローチで時短できる、などなど。

■ リソースと負債のバランス

これらは、資源と負債という切り口を与えると、すっきり理解できる。

山行の成功に対して、どうかかわってくるか?だ。プラス要因になれば、資源。マイナス要因になれば負債。 少なくとも、プラマイゼロでありたい。

端的には、単独で行くより、一緒に行く方がリスクが上がる人=負債。 

新人は普通は負債だ。だから、何が何でも負債額を減らすように頑張らなければならない(笑)。

一般的な傾向では、基本的に若さは、歩荷力・突破力、つまり攻めの力を期待されている。
年の功は、安全管理、つまり防御力を期待されている。

≪まとめ: 山行計画立案のポイント≫

  1. 登山適期
  2. お天気
  3. 時間
  4. 体力
  5. メンバー構成


  • 若さ=攻める力
  • 年の功=守りの力

■ なんで呼ばれたのか?

師匠はよく

「ったくもう~。なんで呼ばれたのか考えないの~」

なんてよく言っていた(笑)。 自分がなんで呼ばれたのか? 可愛いから? まさか!

ゲレンデクライミングでは、2人より3人の方が良い。3人だと一人ビレイが怪しい人がいても、下でもう一人が監督できる。それに2人だとビレイ中になるので、写真が撮れない。

というわけで、クライミングに呼ばれたら、ちゃんとカメラ持参のこと(笑) 安全管理にはどんな立場であっても注意を払う責任がある。誰かが何かを間違っていたら、指摘してやらなければ、メンバーシップを発揮したことにはならない。

4人だと、2パーティ、ロープ2本。ロープを持っていない人は、”お客さん”状態だと自覚のこと。

トップロープを張ってもらっているのは、暫定的状況であると認識のこと。何年も山岳会にいて、自分のロープも持たず、トップロープを張ってもらって当然と考えるのは、恥ずかしいことだ。少なくとも申し訳ないと考えていないといけない。

一般山行では、2人より3人がより安全になるが、ベスト人数は4人。4人いれば、一人がねん挫で行動不能になった時、一人がついて、二人が救助要請に走れる。3人だと救助要請はひとりになってしまう。

人数は、人数が増えれば増えるほど良いわけではなく、困難な山になればなるほど、4人がベストだ。

理由は、増えると意思決定が困難になるから。

中に弱いメンバーが一人でもいれば、リーダーの目が届かないリスクが増える。

4人のベテランがいれば、2人の新人を連れて行ける。この場合は、暗黙に1人について2人が監視の目を向けている。特にクライミング要素がある場所、アイゼン歩行が出てくる場所、滑落の可能性がある場所は、一人の初心者に付き、2人監視が必要になる。

≪まとめ≫
・クライミングは2人<3人
・3人目はカメラ持参
・互いに安全管理をし合う 
・トップロープを張ってくれる人は神様です
・ロープは持っているのが普通のこと

・一般登山では4人がベスト
・自分が他のメンバーの保険であることも自覚すること


■ リスクを増やすメンバーになってはいけない

以前、甲斐駒に誘われたことがあった。登山3年目で、憧れの積雪期黒戸尾根だった。

一緒に行く予定の人が、一般的な冬枯れの里山でも歩きが安定していない人だった。しかも、山頂でお酒を飲みすぎて転び、滑落寸前まで行った。お酒を飲んでいない間にもザックに着けたサーモス(ザックにサーモスをつけると落とすということは良く言われている)を落とした。つまり注意力散漫だった。さらに言えば、体重が重く、私にはとてもレスキュー不可能な人だった。

その人と三人での黒戸尾根。リスクは、何が考えられるか?

スキルの関係上、彼がセカンド、私がサード、トップはベテラン。いくらベテランがいても、アンザイレンして(黒戸尾根はアンザイレンが必要な個所が8合目の台地付近にある)、セカンドが落ちれば、サードは巻き添えを食うだろう。前提は、タイトローピングであり、スタカットではなかった。

というわけで、お金を払って死の危険を買うことはできないので、この山行は最初から断った。

この人が山行に参加していなければ、参加した。つまり3人より2人が安全だったのだ。

つまりこのようにメンバーには、

  • リソースであるメンバー
  • 負債であるメンバー


がいる。何が何でも負債にならないようにしないといけない。

Sunday, January 18, 2015

座礁

■ 酒席

昨日は山岳会の新年会だった。 

前の転勤地福岡では商社にしばらくいた。異業種交流会などの出席が仕事で、酒飲み力は鍛えられた。仕事で夜の酒席にもだいぶ出たから、お酒が飲める機会がうれしい・・・という期待感はもうない。

お酒は嫌いではないが、個人的に私はいつも少数の人と深い付き合いを好む。友達は少なく、付き合いは深い。新年会というような大きな会は実はめんどくさい。正直なところ、公務と化している。

■ 組織

会の長老たちには敬意を感じる。登らないのに在籍しているという点で、だ。組織への愛着と言うのは、私には分からない世界だ。

集団に属すことを誇りに思ったことはあまりなく、海外にいたときも”日本人として”というより、どちらかというと”日本人らしくない”個人の特徴が勝っていたし、”女性として”といよりも、個人の特徴が勝っている。県民性というのを発揮したこともない。母校らしさを漂わせたこともないようだし(英語科なのにソフトウェアエンジニアだった)、会社に属すというより、開発部に属しており、開発部に属しているというより、師匠に個人的に弟子入りしていた。私は人につく生き物だ。

しかし、私は企画力が強みで、自分が企画し組織した集団が、一人歩きを始める(例:起業)という活動に不思議さを感じる感性については、なんとなく、わかるようになった。

自分が発起人であっても、組織は思惑とは違う方向に成長し、多くの人を引き寄せるようになる・・・生き物としての組織は不思議だ。感慨深い、という気持ちはわかる。

山岳会もそういうものかもしれない。今の時代、山岳会は御坂に限らず、社会一般で、あまり栄えているという局面にはいない。

登山にも、時代の流れというものがある。が、山岳会の衰退は、短絡に、古くから在籍した人たちが時代遅れで悪い、というわけではない。むしろ、山行は今はやらないのに退会しないでいてくれるありがたい人たちだ。

■ 山人の魅力

そういう人たちにとって、新しい人である私は、ただ新しい人というだけで価値がある、となる。

ただそれは、正しい新人の魅力のあり方ではないし、私がそうでありたいと思う魅力のあり方でもない。

女性だからという理由で一緒に登りたいと思われても、私がそうでありたいと思う魅力ではないし、若いから、という理由もそうではない。

しっかり者だから、というのも不可。実は全然しっかりはしていないし、私はむしろ、山で普段のしっかり者を脱ぎ捨てたいと思っている。

山わずらいを癒してあげたいと思ってもらうのも、ありがたいが魅力ではない。山わずらいは自分でしか癒せない。

では、山人が山人として、他の山人を惹きつけるべき魅力とはなんだろうか?

私にとって一緒に出掛けたい人は、リスクコントロールのしっかりした人だ。自分自身が不安を呼び起こされ、アラートされるような不安を呼び起こす人は疲れる。

■ 極相

こうしたものは相対的なものかもしれない。

AさんはBさんと行くとリスクが高まる。Aさんにとってはストレスだが、Bさんにとってはストレスではない。BさんはCさんと行くとリスクが高まる。すると、BさんはCさんと行くより、Aさんと行きたい。この構図が定着すると万年セカンドになる。

最近は逆に万年トップは、もしかして万年トップが単純に楽だからそうしているのかもしれないと思うようになった。自分のしたい山をするためには自分がトップでいれる方が楽で心地よい。

そうして、二つの事情は互いに合目的し、安定した極相に入る。森林の変遷と同じだ。極相、クライマックスの安定状態。一般に森林が更新されるには、局所的な破壊が必要だ。

■ 登山教室

山岳会全盛の時代は終わり、山の登り方は変わったらしい。 

山岳会に新人の教育を求めてはいけないのではないか?と入会以前から考えている。

最近立ち読みした、岩崎元朗さんの著作にも、「今、先輩後輩システムは、縦のギブ&テイクが存在しないため、難しい。新人は登山教室で対価を払って教わるべきだ」とあった。

正直なところ、昔の山岳会が、確保器の使い方を教えていたのか? 

否、らしい。 確保器の使い方なんてものは、取説を自分で読めば分かることだ。だから誰も教えない。それでも読んでこないような人は、お呼びでない。ただそれだけ。

だから、今の山岳会のレベル低下は、そのまま、何もかもを教わろうとする新人の、レベル低下、という話に過ぎないのかもしれない。先輩が教えてくれないのではなく、そんなことは出来て当然だったのだ。

私はプルージックでのぼり返しを教わったのではない。ただ自分で本を読み、やっておかなくてはと思い、その機会を作っただけだ。自分で講習会を主催した際に講師を求めた。それは教わったというのとは違うような気がする。空中脱出は大町の講習会でもやっていない。

■ 登山学校?

では、今、山をやる人はどこに教えを請うべきなのだろうか? 

岩崎さんによれば、”登山学校”ということになる。登山学校を主催している岩崎さんがそういえば、多少我田引水の感は否めないが、一方で、

教える側の人材の不足、と、
教える側の休日の不足、

の2点から、山岳会は新人が育つところではなく、育った人が行くところだ、というのは否めない。

が、

教育的山行、講習会的山行、は、新人と新人が同じレベルの知識を共有する場、

として優れている。

講習会に出た者同士は一致した技術への見解を持っていると言えるからだ。パーティで知識レベルがバラバラだと統率がとれない。

■ 講習会

ともに育つ仲間が欲しいと思い、山岳会の戸をたたいた。

しかし、母数がそもそも少ないので、ともに育つ仲間を得る場としては山岳会はどこも限定的だ。

したがって、山岳会は仲間を求める場としては向いていない。向くのは、多くの人と交流できる講習会やイベントだ。

■遭難に至らない道

多くの人は、結果を求め、プロセスを求めない。つまり、山に落とし込むと、〇〇というルートが登れれば良く、そこへ至るまでのプロセスで成長していく自分に楽しみを見出すことがない。

出来なかったことができるようになればうれしい。

出来なかったことができるようになった結果としての山であれば、それは当然うれしい。

が、単純にガイド登山で登られている山だから、自分も行けるだろう、という予測で行き、ラッキーで行けちゃった山はタノシクナイ。

それは単純に時限爆弾を抱えるだけだからだ。いつかは遭難へ至る道だ。時間が早いか、遅いかに過ぎない。

遭難に至らない道を模索していると、困難を感じる。技術的困難と言うより、環境的困難だ。

もし、技術を求めず、遭難に至ることのない道を選ぶなら、一般登山者レベルの冬山で、すでにそのレベルには達してしまっている。つまり冬の八ヶ岳レベルだ。

若かろうが年を取ろうが、天狗・硫黄程度に登っていればよろしいという話になってしまう。それであれば、登山1年目ですでにマスター済みだ。フリーの岩に行っていれば良く、夏は一般道を縦走していればよい。沢なんぞは行かないでよろしい。アイスはゲレンデでよろしい。つまり、皆がそのような所に落ち着いているのが今の時代だ。

最近はそうした意味で、すべての段階、すべての世代で、レベルダウンしており、そのレベルダウンが、山での死をも誘発している。

行けちゃったから行った山をつなぎ、ラッキーで生き残る、あるときに滑落して死ぬ、あるときにルーファイをミスり死ぬ、山を舐めていました、そんな登山ばかりだ。

そのようなあやうげな登山ではない登山を示してくれる世界はないのか?

そこが私が模索して、座礁に乗り上げている点なのかもしれない。 

安定した正しい道を歩いているという確信がこのところ薄い。


今日の金ヶ窪沢アイス


Saturday, January 17, 2015

山の思い出を形に♪ リース作り

■ 山の空気

山歩きが好きな人は誰でも、山の空気のおいしさを実感していると思います☆

森林浴、という言葉をわざわざ持ちださなくても、森の中は気持ちいい!

八ヶ岳、南アルプス、森のいい匂いがしてきますね~(冬はいい匂いはあまりしません、無臭です)

その匂いの正体は?

だいたい モミの木です。

モミの木は、トウヒやシラビソとそっくりですが、葉から芳香が出ているか出ていないか?が、違います。

歩いていても、見分けがつかない人が多いのではないでしょうか?葉を触れてみると分かります。

モミの木の香りのエアーフレッシュナーは、ホワイトリカーさえあれば、ごく簡単に作れます。

作り方≫ 

■ リースにしてみた♪

今日は、八ヶ岳で拾ったモミの枝でリースを作りました♪ 山の思い出を形に♪

これは、途中です。まだ実を全部つけていないので、ボリュームが貧弱かな~と思い、さらに追加。



モミの枝は、先輩と八ヶ岳の権現に行った時に、倒木から採取したものです。≪材木尾根

しかし、ゆめゆめ、生きている木から採取しよう、などと、なさらないよう、お願いします。

葉っぱ、2、3枚を拾って個人が自宅で使う分には、何も問題はありませんが、言っておかないと、程度をわきまえない人が多く、時に大量に略奪が起きたりします。 山で取っていいのは、写真だけ。


こちらが完成図。 モミ以外は、自宅の駐車場の傍で落ちていた松ぼっくりです。松ぼっくり、健康的で良い形のが落ちていた♪ 大きいのは目立つし、色合いもきれいでしょう。

さらに、沢でひろったトチの実、2~3個。 公園で拾った小さな松ぼっくり。古くなって色が灰色に変色した松ぼっくり・・・と3~4種類のサイズ違いの松ぼっくりです。≪ズミ沢

全体にモミの枝が渋いカラーだったので、落ち着いた仕上がりになりました。 

ただ私はモダンテイストが好きなのですが、クラシックな感じに仕上がりました・・・うーん・・・。


フラワーアレンジメントの技は、まだまだです。少しアクセントになるようなカラーが欲しいと思ったのですが、スモーキーなグリーンにマッチする、他のパーツがないんですよね~。

しかも、枝が足りないな~ サイドから見ると、土台が見えてしまいますね・・・(^^;) 

枝は、たっぷり必要ですね。ま、自宅で楽しむものなので問題なし。




元はこれくらいのブーケでした。 しばらくベッドサイドにおいていましたが、ふと、思いついて、リースに・・・。

↓ これは、神田で買ってきた世界の木の実たちです。 今の時代は、ちょっと目先が利いていれば、なんでもネット通販できます。 世界の木の実のお兄さん、商売うまく行っているかな~。なんでもジャム屋さんだったそうなのですが・・・。

この籠に、拾ってきた形のよいものは何でも入れて、鑑賞しています☆

モミの葉っぱで作っている枕を売る店を発見! さぞ気持ち良い寝心地だろうな~。 

欲しくなりました。 

≪モミの葉っぱの枕≫





Friday, January 16, 2015

技術があれば冬の富士山に登れるのか?

■ 海外トレッキングの本

私は海外にいたときにバッグパッカーを羨ましいと思いました。なので、いつかは海外のトレッキングに行って、その夢をかなえるべきですね。

それには、海外のトレッキング用語に、今のうちから、時々接して、慣れておいた方が良い。

で、FBでは海外の雑誌をフィードしています。便利な世の中ですね~。

たまたま来た情報で、アパラチアントレイルを女性初スルーハイクしたおばあちゃんの本を今日は発見しました!

そのついでで、今日は、日本の山々を海外に紹介しているGaryさんのサイトも発見しました☆



■ リバークランポン?

年末、雇い主が、11月のお給金を渡すのを忘れていたみたいで(笑)、先週になって、11月と12月と2か月分来てしまいました(笑)。

おまけに、明日、新年会で、今年のレインジャーの出動分の支払いがあります♪ 

となると、おもわぬボーナス?!(普通のお給料だけど ^^;)
ということで、昨日からパタゴニアのウェブサイトで、何を買おうかな~と、首っ引きなのですが、こういう時に限ってセール品が貧弱!買いたいのがない!

リバークランポンという製品がパタゴニアにはあり、河原歩きには最強、というふれこみなのですが、どうなのでしょうか?

私は沢はフェルトですが、ときどき、河原でバランスを崩して、ひやっとしましたし、河原歩きは苦手なので試してみたい気がしますが…1.5万円かぁ…。

フェルトシューズは靴底が柔らかいので、このクランポンをつけたら足が痛いかもしれない…。

以前柔らかいアプローチシューズにチェーンアイゼンをつけて雪渓を歩いたら、足が痛かった…

■ 技術がないと山に登ってはいけないのか?

私は登山は、核心部=リスクを中心に計画組み立てると安全登山につながると思いますが、技術がないと、山に行ってはいけないとは言っていません。が、どうもそういう誤解が多いようです。

技術に100%確実がない以上、技術を身に着けなければ行ってはいけないのであれば、行ける山はゼロになります。

でも、セックンしないで、冬山に入りますか?ピッケルの使い方も学ばないでピッケル持ちますか?

たぶん、どの程度、どんな技術をつけたら、どのようなルートに行っていいのか?むしろ、そんな議論をしないといけないんでしょうね。建設的に議論するには。

ビレイできないのにクライミング行って、その人にビレイしてもらっても、無事クライミング出来て、帰ってこられるのが9割でしょう。

しかし、それって時限爆弾ですよね。

技術をないがしろにしたまま、(要するにビレイをマスターしようと思うことなく)、登り続ければ、いつかクライマーが落ちる日が来ます。で、ビレイをマスターしなくてはという意識がない人が、その日には、ビレイの技術が身についている可能性は?ゼロです…。

多少拙い技術でも、出かけて行ってしまう方が良いというのは、私はどちらかというと、賛成ですが、そこから学ぶ人限定です。

例えば、私と夫は権現に登るスキルは、冬山1年目はなかったので、ずっと三ツ頭止まり(笑)

やっと登れたときは成長したなあぁと思いました(笑)

初めて四尾根に行くときに15時間かかって、次に行った時に14時間かかって、その次に行った時に13時間かかって、・・・となって行けば、成長を実感するでしょう。

でも、基本的に例えば、4尾根だと、何が出来ていないと、四尾根に行ってはいけないのか?

つまり、核心が何か?を真摯に理解しようとし、その核心を乗り越えようとする、くらいの努力は必要だと思います。

そうでないと、”行ってみたら行けちゃった登山”の連続にしかなりません。

行って見ていけちゃった山からは人は全然学びません…。

それだけならいいけど、天狗になる。

富士山で亡くなった人がいますが、その人は滑落後、遭難したそうなので、端的には技術のミスです。

技術があれば、冬の富士山に行っていいのか? 私には全然わかりません。

でも、行く限りは死を覚悟して行ったでしょう。

富士山での滑落なんて、技術で防げるものなんだろうか?

強風で煽られたら、ひとたまりもありません。転がり落ちたら、手足がバラバラになるくらいの斜面です。

去年アイスクライミングに行った時に、中が空洞のこんなアイスを登って、スタンスが外れ、ビレイがあったので、ホッとしました。

が、こんなのクライミングの上手下手の問題なんだろうか?

上手でも外れるときは外れるのでは?

というわけで、これだって、死の覚悟がないと行けないと思います。みんなそんなことは考えずに行っていて、私もこのルートに行った時は、ただ脳天気について行っただけです。

でも、やっぱりアイスは落ちたら死にますよねぇ・・・

このリンクのサイトはとっても良いサイトですが、作者が亡くなっています。それもご近所です・・・


Thursday, January 15, 2015

核心とリスクテイキング

■ うれしい雪?

今日は午後から雪が降ってきました。昨日ブドウ畑に行って、「明日は雪ですよ!」なんて豪語してしまったので(笑)、ちゃんと?雪が降ってうれしいです。雪明りで外が明るい!

いつもは午後に出かける買い物も、今日は午前中に済ませてしまい、もう出かける用事はないので、のんびり、冬の雪の日を愉しんでいます。

昨日は、畑の用事は、家の中の用事と同じだな~と思いました。やり出すときりがない(笑)。

今日は、パンを焼いたので、パンが焼けている、かぐわしい香りが漂って、もうすっかりリラックス。家の中で過ごす日も良いものです。

■ 核心はクリティカル

英語には、たまに日本語にしづらいな~と言う言葉があります。クリティカル、という言葉もそうです。Criticalな〇〇という表現が多いです。

クリティカル、という英語に対し、日本語でぴったりするものは、”核心”ではないだろうかと最近、思いました。登山で”核心”と言えば、もっとも難しい箇所のことを言います。

例えば・・・

 時間核心 → 時間通りに登って帰ってくることが難しい、時間の管理が難しい。
           登山道に危険があるのではなく、のんびりすることに危険があるという意味。

 アプローチ核心 → ルートそのものではなくて、そこへ行くまでが大変と言う意味です。
              岩登りで良くあります(笑)。


■ 核心が重要

 核心が何か?

を中心に考えると、リスク中心の考え方ができるのではないか?と思います。

核心がなぜ重要なのか?というと、そこ一番難しい点なので、

 核心を理解しているか?いないか?

が、登山の成否を分けるからです。 

■ 計画で核心を見つける

山行計画を立てる人は、深く考えていなくても、ごく自然に、

 今回の山行の核心は何か?

を発想の中心にしています。 行動の指針をそれ中心に打ち立てるからです。

たとえば、道に迷いやすいという評判のルートであれば、道迷いの可能性がありそうな箇所を念入りに、事前チェックしてから望むでしょうし、時間が核心であれば、何時に折り返すべきか、それでも山頂に届かないときは何時まで許容できるか?というターニングポイントを考えている、と思います。

ただ、核心は何か?は行ってから、分かったりもします。たとえば、山自体は楽だったとしても、林道が降雪で埋まり、アプローチが核心だったと後で分かったりします。冬山では良くあります。

■ 共有が大事

核心が何か?を共有していないと、パーティに不協和音が響きます。 

時間が核心の時に、のんびりしている人がいると、その人の、のんびりさが足を引っ張ることになります。

時間の管理では、生活技術が問題になることが多いです。 スピードが核心のときに、なぜか余分な荷物を持ってきたいたりすると・・・ちょっとねー。

普通の登山にハイキングの価値観を持ちこんでいます。

そういう核心を見分けるには、おおよそのパターンがあります。

定着山行 → 重いモノを担ぐのは幕営地までにして、後は空荷でスピーディに行動。
          ライト&ファーストを意識していることが分かる。
          つまり、幕営してからが核心。
  
ヤドカリ方式 → 終始、衣食住全般を担ぐので、スロー&ヘビー。荷物が重いので、
           重さに耐えつつ、どこまで転滑落リスクに耐え、スピードが出るかが核心。
           下手に急いで滑落すると台無しなので、急がず急ぐのが核心。

こうした核心が何か?という考え方は、一般に自分で計画を立て、それを実行する経験が長いと、他の人が立てた山行計画に対しても、核心が何か?がよく分かるようになって来ます。

人の計画に乗っているばかりだと、「分かっていないね~」ということに陥りがちです。

■ 核心を共有することが大事

例えば、危険な所ではロープを出さないといけません。が、問題はどこが危険な所か?という共有の認識がなかなか難しいということです。

それを作っていくのも一つの登山活動です。背が高い人には易しいところが、低い人には難しかったりするのは普通です。

危険なところでロープを出すというのは、めんどくさがりには難しく、また、本当に何でもないところで、ロープを出すわけにも行かないので、加減は非常に難しいです。

私が最近、目安にしているのは

 前穂北尾根 5,6のコルから全部出す → 一般登山者(ガイド登山者)レベル
 前穂北尾根 3峰からしか出さない    → 山岳会レベル

です。ガイド登山では、ほんの少しでも滑落の危険があればロープを出し、そのスキルがないガイドは、ガイド失格です。

山岳会では、ガイド登山ではないので、ガイド登山でロープがでるところでロープを出さなくてもOKです。

が、より易しいところでロープが安全確実に出せるようにならないと、さらに難しいところでは切羽詰まっているので出せません。

ですから、出せないから出さない、というのはダメです。

という事情から、ロープ無で行ける!と思っても、最初のうちはロープを出す練習と思って、できるだけリスクを取らない精神が必要です。ロープはどちらにしても保険にすぎませんから。

保険を掛けておいて、アブナイ橋を渡り、慣れてくれば、ロープを出さなくても、自信をもって危ない橋を渡れるようになります。

滑落停止訓練と同じです。あれは使わない保険です。でも保険があることで、自信ができ、余裕を持って行動でき、さらに行動の安全性を高めます。

■ リスクは人に内在する

最近思うのですが、山のリスクに対し、大きな誤解があるのかもしれません。

例えば、穂高で滑落があったとしましょう。人は穂高がアブナイ、と思います。しかし、同じ穂高でも何人もの人が無事通過します。ということは、穂高と言う場所がアブナイのではなくて、人がアブナイのでは?もっと言えば、リスクの取り方の判断に誤りがあるのでは?

 場所がアブナイ → ×
  人がアブナイ → 〇

例えば、悪天候で行く、と判断する人と、行かないと判断する人がいます。 行くと判断した人は、霧に巻かれてルートファインディングを誤るかもしれません。

その際、

 A、悪天候で行くと判断した、判断そのものが悪いのか?

それとも、

 B、霧に巻かれてルーファイをミスした技術が不足していたのか?

議論が分かれます。

霧が出る、というのは不確定要因で、悪天候でも霧が濃くない場合もありますから、Aのリーダーを強いリーダーと称賛する人もいるでしょう。

結果、無事帰ってくれば、判断はOKだったということになってしまいます。が結果論にすぎません。つまりラッキーにすぎません。

Bの時点でルートファインディングと言う技術が不足している、と考えることもできます。ルーファイは、基本的な登山技術なので、リーダーだけが責任を持つのではなく、メンバー全員が進路には注意を払っているべきですが、メンバーの中に、「この道は間違っているのでは?」と気が付く人がいない時点で、力量不足の指摘は免れ得ません。たまたま気が付く人が誰もいなかっただけだと確率の話になってしまいます。

普段の何でもない山行で、仲間のミスに気が付いてやれなかった、と反省する心が大事です。気が付いてやれたか、やれなかったか?は、山行の振り返りで分かることです。なので振り返りは、山行が問題なくても大事。

そういった、

 ・ラッキーをラッキーと分かっているか?
 ・反省をするかしないか?

というような、ことも含め、全員の力量です。

本来は山岳会において、どの程度のリスクを取るか?とう落としどころは、この力量ならココ、あの力量なこれくらい、と、伝統的に受け継がれてきたものではないか?と思います。

それは一つの会だけではなく、おそらく、日本中の山岳会で、なんとなく共有されている、落としどころがあったのではないかなぁと思ったりしますが、実際はどうなのでしょうか・・・?

もちろん、各会にはレベルというものがあるので、社会人山岳会レベル、大学山岳部レベル、ワンゲルレベル、山の会レベル、と色々とあったと思います。

同じ山でもリスクをどこまで許容するか?判断においてどれだけ、先鋭化できるか?は、技術や体力だけでなく、精神的な成熟度の問題なのではないか?と最近考えます。 

精神面で充実していないと、リスクは取れません。リスクを取るとずるずると失敗の連鎖にハマっていくからです。

平たく言えば、普段の山行から、いつも考えていないと、リスクはどんどん上がるだけです。

ということは、リスク許容の範囲と言うのは、どれだけ考えられているか?に寄るのかもしれません。