Thursday, October 23, 2014

山岳会の新人に必要なちから

■ 判断力を学ぶ

一般的に、山岳会の新人というものは、入会したら、憧れのカッコいいルートにバンバン行ける!
と思って、無垢な気持ちで、ルート集をウルウルした目で眺めているものだと思う…

「白馬主稜行きたいんですぅ~」 みたいな…

そうすると、会の先輩としては、

「そりゃ行きたいだろうけど、行きたいのと行けるのとは違うんだよなー、困ったな~」

というような、嬉しいけど、参ったな的な微妙な気分だろう…。

会の新人の実力は、よく分からない。一般的傾向として、(行きたい気持ち)>(実力)

その溝をどうやって自覚させるか? この辺は、なかなか、さじ加減が難しい。

あんまり連れて行かないと、「入会したのに連れて行ってくれない」と拗ねてしまうかもしれないし…
連れて行ってくれないのは、自分の実力が足りないため、だとは、新人はつゆほどにも思っていないのだ(笑)。

それは、当人側から見ると、当然で、いまどき過去の遺産と化しつつある山岳会に、わざわざ入会しよう、というような奇特な人は、一般登山者の枠に入りきらないから、それを本人も分かっていて、来ていたりするんである。

つまり、ありていに言えば、ちょっと天狗になっている。実際、そう言葉に出して言う訳じゃないが、「ガイドブックにあるような山なんて、楽勝じゃん」そう思っていると思う。たとえば「赤岳楽勝」。

それは、情状酌量の余地がないではない。昨今のガイドブックは、あまりに、大衆化しすぎ、実力が、低くなりすぎた登山者像に合わせてある。それは、北ア周辺のエアリアの地図の、標準コースタイムに現れている(笑)。

私自身もガイドブックがあまりに脅すので、「そうか」と思って、素直に万全の態勢で臨むと、「あれ…意外に何ともないんだけど」と肩の力が抜けることがあった…。

だから、真面目な人でも、なんだか自分の実力の位置が、定規のどこの位置を指すのか?だんだん、良く分からなくなってしまうのだ。

■ 異なる、ものさし

山岳会が使用する、登山者の実力を測る ”ものさし”は、一般登山のガイドブックに書いてある”ものさし”とは全く違う。

一例で言うと、一般登山者の”ものさし”は、”行動時間10時間以上=上級 体力度5” だ。

山岳会の物差しは、”行動時間10時間=ごく普通” だ。

標準コースタイムなんて、コース自体が存在していない山では、全く意味をなさない。

歩荷力も同じだ。以前、温泉で会った、山おばちゃんが、「12kg以上は背負えない」と話していて、「へぇそうなのか・・・」とザックの重さを計ってみたことがない私は思った。それで、私の中では、12kg=大変、と思ったが、やってみたら15kgとか16kgは、最初から私には負担にならない。

一般に山ヤさんは、ザックの重さなんて計らない。重ければ、重いものを担ぐだけだ。それはどっちにしろ、必要で削れないものしか入っていないのだから。

■ 判断力

登山者に必要な実力は、体力だけではない。それより、むしろ、もっとも重要なのが、判断力だ。

一例で言うと、ヒマラヤにおけるポーターとガイドの差だ。ヒマラヤトレッキングのポイントは、ガイドとポーターの違いを知ることだそうだ。

つまり、

ポーター:荷物運び。判断力を期待することはできない。むしろ、ポーターがきちんと水を飲んでいるか、寒ければ服を着ているか、ちゃんと見てやる責任は、雇い主のあなたにある。ポーターが動けなくなったら、あなたの責任だ。ポーターは道も知らない。

ガイド:あなたの安全確保まで、責任を持ってやってくれる。判断がつかない困難なケースに的確に判断がつくはずだ。

つまりガイドの実力の要諦は、判断力、というもの。

昨今のガイド登山では、ガイド氏はなぜかポーターも兼ねているので、負担倍増みたいだが。

たぶん、ガイドにとって、体力はただの前提で、実力を分けるセールスポイントは、判断力、のはずだ。ガイドを雇う人は彼の判断力を買う。

しかし、自力登山の人は、自分で自分の判断力が、どこまで確実なのか、誰からも評価された経験がない。

アブナイ判断をする登山者なのか?それとも保守的な判断をする登山者なのか? 外からは判別がつかない。

それにいくらすごい山にいくつ登ってきても、それが自らの判断に基づく山なのか?誰か他から判断力と言うサポートをもらっている登山なのか? 外からは判断がつかない。

道迷いの経験、予定外のビバークをした経験、滑落した経験、ヘッデン下山になった経験、それらは、みな、”判断の失敗”経験であり、、もしその登山者がそこから何かを学び取っていない、とすれば、”危険な判断をする可能性がある登山者”であることを示すにすぎない。

そこのところをわかっていない人はどういうことをするか?

それは、失敗談を吹聴するのである。一時間の雨量100ミリとか120ミリなのに歩いて平気だったとか、、雷が鳴っている稜線を歩いた、とか、と自慢して回る。それが自分の実力の高さを示す、と誤解しているのだ。

だから、熟練の山の達人達は、そうした「自分は馬鹿です」と自ら吹聴して回る方たちを、ただ黙って避ける。

それを吹聴している時点で、素人丸わかりだし、そうした人に付き合って、危険登山に巻き込まれるのは、犬死だからだ。

■ 新人に必要な力

そうこう考えると、登山者が成長することに最も必要な力は、

 自覚力

であり、

 自分を客観視できる力

であり、

 自分の目ではなく、先輩の目から想像できる力

かもしれない。相手の立場に立つ、ということ。

先輩たちが教えなくても、態度から盗んでくれる、

 観察力

も、そうかもしれない。そういう意味では登山は知的な活動なのだ。

それは先輩たちは教えたいと思っていても、「あなたは客観視できていないよ」とは、言えないものだし、なかなか教えられないのだろう、と思う。

誰だって、新人には楽しく山に登って、成長して行ってほしいのだから。

何しろ、新人を初めてのルートに連れて行くときなんて、先輩は命がけだ。

先輩が、「あなたには、まだこのルートは早いのではないかと思う」と言ったら、それは、なんらかの意味合いで、足手まといになる、ということだ。

それは、率直に登山者の実力としての、

・体力
・判断力
・生活力
・ルートファインディング力
・精神力

等のどれかかもしれないし、分類できない、ささいな、単純な、ちょっとしたことかもしれない。 

たとえば、山に行くのに、「トイレがないとできない」なんて、いちいちめんどくさいことをピーピー言っている山ガールが来たら、トイレを探すのに時間がかかって、山行自体が成立できないかもしれない。

先輩は、きっと山ヤの勘で、

「コイツはパッキングが遅くて、それを自覚していない」 とか
「後続のことを考えず、一人で歩いて行ってしまう」 とか
「なんでこんな危険地帯で休憩してるんだ」 とか
「食当、上手だね~」

とか、色々見ているものなのである。それはどういう時に見ているか?というと、たぶん、ごく普通の山行の時に、見ているのである。

だから、ごく普通の山行を「一人でも行けるから」と馬鹿にして一緒に行かないと、一生連れて行ってほしい山にも連れて行ってももらえない。

それは、先輩達が「キミのこと知りたいよー」と言っているのに、単純に返事をしていないってことなのだ。

会の親睦山行っていうのは、そういう意味なのだ。

 

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