Thursday, September 18, 2014

地図を愉しむ

■紙上ディベート? マイルールの愉しみ

私の師匠はとっても愉しい人です。道迷いの愉しみを知っています。

登山というのは、マイルールを作ってしまえるところに、そもそも楽しみがあります。

私はときどき、適当にルートを外して歩きます。正直、言って、自分が、山域の、どことどこの範囲にいるか、分かっている時は、地図なんて、見なくてオッケーです(笑) 

地図もコンパスもGPSも持っていますケド、一般ルートでは、私は高度計しか見ません。それで十分、今どこか分かるからです。

今年6月に富士山に行った時ですが、山頂からの下りで、濃霧とヒョウで、ホワイトアウトしてしまい、下っていたら、少し左側に偏差して、全然違うな~ってところに出ましたけど、それとて、GPSを
活用して、軌道修正した理由は、歩く距離が増えるとウザいから…(笑)です。道迷い遭難の懸念があるためではありません。下れば間違いなく、登山道に出るのであれば、ルートを外したって道迷いではないのです。

半分わざと外しているんです。でも、自由にやりすぎると、歩くの増えて嫌だからGPS見ます(笑)。

■ 山の迷子=道迷い遭難

でも、それは遭難とは違いますね… 迷子なんです、道迷い遭難は。平たく言うと。迷子になった人は、楽しんで迷子になっているわけではないんですよね。

もう頭真っ白、景色も真っ白、どうして良いか、文字通り、右も左も分からなくなって、パニクッてむやみやたらと歩きまわり、「ここ、どこ?」お手上げ~状態なワケです。

これは、別に山でなくても起こります。単純に迷子です。お手上げになっても、街では道を人に聞いたり、交番に行ったり、最悪タクシーに乗ってしまえば、家に帰れます。訪問先に電話して聞くこともできる。これらが山ではできないのです。

町でも山でも、迷子になる人は、空間認知において、視野が狭いからなるのです。鳥瞰図ってヤツです。

大体、今北を向いているか、南を向いているか考えていれば、あんまり迷子にはならないです。間違って、一つ手前を曲がるっていうのは、迷子ではなく、まだ試行錯誤しているだけです。

ですから、迷子になる人は、梅田でも迷う。新宿や地下街は、迷わない人にとっても、自在に闊歩するのは、かなり上級編だと思われます(笑)が、迷子になる人が一般的な傾向で、自立していない、ということは言えます。

一人で歩いていたら、迷子になっちゃうんだったら、一人で歩けないのですから、自立しているとは言えませんね。

たぶん、今ある山の遭難問題は、街でも里でも、ごく単純に、普通に一人で、見知らぬ土地に旅行することができない人が、その自覚もなく、山に行ってしまうことです。

それは巷の地図読み講習で、地図が北を上に書くものだ、ということさえ知らない人がいたり、そもそも尾根と谷も意味が分かっていないことから、うかがえます。

恥ずかしい無知を、恥ずかしいとさえ思えないほど、知的なレベルが低下しています。これは、10年の単位で山を歩いている人も同じです。地図読みの本の一冊さえ、もしかしたら、手に取ったことがないのかもしれません。尾根と谷で、山が成り立っていることも、おそらく知らないかもしれません。

それより問題なのは、それがおかしい、という感性がまったく失われていることです。

≪関連記事≫
去年の7月25日の記事

山の濃霧では、5m先も見えない。ので、地図がなければ、実は小屋が10m先にあっても、その場でビバークしたりしてしまいます。私も、あれ?もう小屋?っていう経験があります。見えなかったから、気が付かなかったんですね。でも、地図で分かっていたら、もう少しで小屋に出るはず、と思うでしょう。

道なき道を地図とコンパスで進むのは、結構コツがありますが、一般ルートでの現在地確認は、そういうコツの話ではありません。

地図読みの山の時は、あらかじめ、自分が歩こうとするルートを頭に入れています。たいていは、尾根か沢か、どちらかを歩きます。どこの尾根を歩く予定か、どの沢を遡行するつもりか、地図を読み込んでから、出発するので、間違っても、その間違いさえ、想定の中です。

まったく右も左も分からない状況というのは、かなり想像ししづらく、「さっきここでコンパスを当てたときに、北西の尾根に入るつもりが北の尾根に入ってしまったのだろう」とか、「ここで右岸に枝沢が入るはずだったが、顕著でなかったので、見落としたのだろう。たぶん、今は本来入っているべき沢の一つ先に入ってしまったのだろう」などと、間違いの修正に予想ができます。気の合った人となら、一緒に知恵を出し合ったりして、そういうルート外しでさえ、楽しい旅の思い出として、共有できること請け合い♪

私が指摘しているのは、そういうステージにいる人々ではなく、一般登山者のレベルの人々のことです。つまり、道がないと一歩も歩けない人たちや、もしくは、まったく危険予知せず、適当に歩いてしまう人のことです。

たとえば、遭難が怖いから、と水を9リットルも担ぎ上げてしまうような。

夏山の登山者のレベル低下は目を覆うほどです。イマドキの登山者の方は、踏み跡があっても、高山植物の保護の緑のロープが張られていても、そこを直登して通ってくる登山者たちです。結果としては踏み荒らされます。嘘ではありません。私は1か月の間、毎日小屋から10分の小さなピークに立って、登山者が登山道を無視して登ってくるのを目撃したのです。

この手の人たちは、ゆとり教育の世代ではありません。ゆとり世代は、山ガール向けの講習会に出るので、むしろ勉強熱心な人たちです。そうではなく、困った登山者像の代表格は、60代の立派な大人の方たちがメインの世代です。弾丸世代と名付けましょう(笑)。

しかし、その人たちは、ただ、登山の愉しみを知らないだけなのです。

山に登る前の晩に、2万5千の地図を印刷し、そこに書いてある登山道に赤い線を引く。ワクワクとした遠足の前の日。

山から帰ったら、その地図と実際に歩いたGPS軌跡を照らし合わせ、「百曲がりって、登山道がつけ代わっているじゃないか!」と発見する楽しみ。

そして、地図の上に取ってきた写真を撮影時間と照らし合わせて、マッピングし、標高何メートルから、リンドウが咲き、どんな条件の道にシラヒゲソウが多かったのかを照らし合わせる愉しみ。

自分の歩いた実感と無味乾燥な2万5千の地図の特徴を比較するのは、登山のデザートとでも言ったらいいでしょうか…、すごく楽しい作業です。

私はGoogle検索する量が、行く前より、行った後で、1:2くらいで、行った後が多いです。

ほとんどの登山者の人は、地図を見ません。

コンパスも持ちません。理由はコンパスを持っても使えないから。

高度計も持ちません。現在地なんて知らなくても、前に人がいるか、道をただ歩けば小屋につくから。

地図を持たないのは、誰かの後をついていくだけだから。どうせ踏み跡があるから。

でもね…しかし、ある一つの要素だけを取り出して、それだけが登山だ!と思いこむのは、登山という”総合芸術”をして、もったいなさすぎる。

それでは、全然登山を100%楽しんだってことにはならないのです。

でも、だから、ルートコレクターになってしまうんでしょうね。

こんなに付け替えになっている百曲がり


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