Tuesday, September 23, 2014

長谷部さんから電話

■ ”イエ電”

珍しく家の電話がなると、長谷部さんからだった。

携帯が普及し、たいていは、個人の携帯番号の方に電話を掛けてくる人ばかりなので、”家電”なる言葉まで出現したくらいで、固定電話で、電話を掛けてくる人は珍しい。で、我が家の場合、家電は、大抵は年老いた義理の父が使うもの。 なので、ドキッとする。訃報とか、そういう、大きな用事が多いからだ。

でも、出てみたら、「今日、立ち寄ってくれたのに来客中でごめんね」って内容だった。

私は双葉のスマートインターを利用するときは、大抵、山の帰りに、長谷部さんのところに立ち寄ることにしている。パンだけパッパッと買って、お店の人に「よろしくって言っといてください」と、5分で帰ることもあるし、20分も30分も、山の報告をする時もある。時には、知人や友人を連れていく。連れて行かれた方は「?」となるみたいだけど、そういう時はコーヒーを出してくれたりする。私は長谷部さんを慕って、店に通っている。

最近の若い人は、こういう感覚は分からないみたいだ。仲良しの年長の友達、ってことなんだけど…。

■ 年代を超えた年上の友人

私は、父を知らない。両親は私がまだ幼いころに離別した。母親は、子供たち3人が父を慕うのを嫌った。まぁ、分からないでもない。女手一つで、3人もの子供を抱えたら、そりゃ誰が考えたって、生活は大変だ。その元凶は、ぱっと見には、稼がない夫、飲んだくれの夫、浮気性の夫に見える。(でも、真実はどうなんだろうか?と子供のころから思っていた。)

片親の子供に限らず、すべての子供にとって、母親の機嫌というものは、子供自身の幸福に、絶対的な支配力を持っている。だから、どんな小さな子供でも、母親の機嫌を損なわないよう、細心の注意を払って生きている。ある子は母親の機嫌が悪いのは、良い子でなかったせいだ、と思うし、ある子は、可愛くないといけない、と思う。ある子は母のために戦おうとする。発現の仕方は違うが、どの子も母親の愛情の獲得を巡って、しのぎを削っているという点では同じ土俵の上だ。

我が家の場合、数年に一回くらいの頻度で、ごくたまに父親に会う機会があったりしても、母の手前、何ともバツが悪い。一度なんてクリスマスのプレゼントを受け取っただけで、泣き出してしまったのだ。ただもらうだけでもダメか…。

父親側にしても、何年も会っていなくて、クリスマスなのにプレゼントなしで会うわけにもいかないだろうし。持って行かなくても負け、持って行っても負けの戦だ。子供側にすると、くれたら、もらわなくてはならないし。そういうわけで、父親にとっても子供たちにとっても、面白くない。

そういう事情で、私たち子供3人にとって、親の離婚というのは、離婚したこと、そのものではなく、それをめぐる母親の心理劇に、否応なしに参加させられるのが非常に面倒な、いうなれば、迷惑なことがらだった。

■ 独習の仲間

こういう事情があったので、私は、とりあえず、”なついても、めんどうなことがなく、無難な学校の先生”に、よくなついていた。

先生たちは、えこひいきはいけない、と思っていると思う。けど、やっぱり、えこひいきしてもらったような気がする。本を借りたり、先生の家に他の子と遊びに行ったりしたし、高校進学は、小学校で世話になった恩師の母校、という理由で選んだ学校だった。

特に理科の先生には、なついていた。理科の先生は担任がない。私は小学校で、中学受験をしなくてはならなかったのだが(母の意向で)、もちろん塾などに行くことは考えられないので、結局、小遣いを貯め、参考書を買ってきて、コツコツ問題を解くしかない。

受験している人は知っていると思うが、お受験レベルの勉強なんて、学習進度が1年先くらいの話に過ぎない。つまり6年生なら、中学1年生の知識レベルがあれば、誰でもすぐ解ける。ただ、そんなことは、当然、子供は知らないので、知識を授けられていないと、四苦八苦する羽目になる。一度なんて、三角関数が必要な課題を公式ナシで解こうとして、百科事典の数学のところを血眼になって読んだ。

ちょっと話がズレたが、塾に行かないという選択肢のおかげで、私は学校の担任の先生のところに、分からない問題を聞きに行く。すると、先生は色々と忙しいので、「理科の先生が数学が得意だから行っておいで」と言われることになる。それで理科室に行くと、先生は問題を見てくれるが、先生も考えないと分からないと言う。それで、先生が問題を考えてくれている間、しばらく遊んでいていいことになる。そこで理科の実験の道具の余ったので、色々と遊ばせてもらっていた。

そうしていると、それを見つけた他の子が参加する。最後は、ビーカーにアルコールランプで紅茶を沸かし、ぶどう糖を入れて、みんなで一杯(笑)。

みんなで、というのは、なぜか一緒に数学の問題を解いてくれる友達が、いつのまにかいたからだ。けいちゃん。公文式の数学をやっていて、常に数学での成績トップの男の子だ。ちょっと、ふっくらしている太めの子だ。それで多少いじめにあっている。いつも、私はとりあえず、けいちゃんに数学の分からない問題は、聞きに行く。プライドに掛けて、解いてくれるからだ。けいちゃんも分からないと、先生に聞きに行く。わたしとけいちゃんの同盟は、そういう同盟だった。算数仲間ってところだ。

■ 教えてもらう資質

中学になると、もう少し高度化し、先生たちから、本を貸してもらえることになった。

中学では、私には、すごく頭のいい親友ができた。サー君。学年で常にトップ。運動も5とすごい。

数学の先生なんて、先生が教えずに、私と彼に授業中に、課題を解かせる具合だった。私とサー君が、異なるタイプの解法で答えを出す。それに先生がコメントする。先生は手抜きなんだけど、実は、素晴らしい授業だったんじゃないかって気がする。

高校では、得意を伸ばそうと、論文に力を入れていたので、女性の英語の先生の家に遊びに行っていた。私が総合大学の一分野としての英語科ではなく、語学専門の大学の英語科に進学したのは、そのためだ。

というわけで、私は主に学習を通じて、年長の先輩に教えを乞うて、成長してきた。

いわゆる学習塾や家庭教師、予備校の類に行ったことがない、という意味で独学と言っているが、なにもかも、自力で成長したというのは傲慢だ。

だが、一方で、自ら勉強したいという気持ちが見えない人に、助力したい、という人もいない。

私は自分の参考書は、おこづかいを貯めて買っていたし、ラジオ英会話を何年も続けて聞き続けた。

聞きに行く、質問を用意すると言うのは教わる側でやるべきことだ。

教わる人は、少なくとも何が分からないのか分からないといけないのだ。でないと、教えようがないじゃないか。

■ ドイツ料理 ルーヴェ

長谷部さんと出会ったのは、たまたま私がおいしいランチを食べに、ドイツレストランルーヴェに行ったからだった。化学調味料や保存料の添加物がないソーセージの、おいしいランチセット。

その時、そのレストランの建築物が、あまりに素敵で、ハイカラとかモダンとか形容できそうな、お金も、手間も、十分かけた良いものだと分かったので、建築物の話を色々したのだった。

ルーヴェは、ドイツ人の建築家に頼んでできた建物で、とっても愛らしく、『白雪姫と七人の小人』の小人たちが住んでいそうだ。メルヘンと童話が似合う。ずいぶん、前に立てたようで、すっかり使い込まれてはいるが、しっかりした作りと素材の良さがにじみ出ている。

私は、その頃は、よく北八ヶ岳に通っていたので、北八つの帰りに、またパンを買いに寄る。ここのパンは、酵母から起こしたパンで、とってもおいしい。

「また行ってきたの?!」

「ハイ♪」

というわけで、北八つが好きなら、良い本を貸してあげよう、ということで、『北八つ彷徨』を貸してくださった。

それが事の発端だ。それ以後、ご自身が30年以上前に寄稿された、ツルネ東稜の古い記事だとか、色々な本を貸してくださり、それは次々と私自身の山行になって、結実して行った。

それで、借りた本の返却もあるし、報告することは、これはもう、ほとんど義務だと思って、色々報告に行く。

そういう好循環がつながって、今まで来ている。

■ 大衆化が進行する登山の世界

つい最近は、鳳凰三山の帰りに先輩を連れて行ったら、先輩たちが、古い山雑誌のアルプを見て、喜んでくれて、うれしかった。今、ルーヴェでは、アルプが読める。

アルプは古い山の雑誌で、いまどきアルプなんて知っている人はあんまりいない。歴史を知ろうという人にしか、アルプは目に入らない。が、一時代を築いたといえる雑誌だ。

雑誌と言えば、最近、『岳人』がほとんど廃刊に追い込まれているような事態になって悲しい…。モンベルに買収されて、モンベルの機関紙みたいになってしまったら、一体誰が買うのだろうか?

最近、本屋に立ち寄ってみたら、山と言うか、アウトドア系の雑誌は花盛りだった。そんな中で、硬派の『岳人』が後退しているということは、登山界の世の中の流れをよく表している。

雑誌はよくも悪くも、トレンドを表現している。では、雑誌を見れば、現在のトレンドが分かる、ということも言えるわけだ。

では、今の登山界のトレンドとは、一体どういうことになっているのだろうか?独断と偏見でまとめてみた。

リンクは雑誌のバックナンバーにつながっているので、検証に使ってほしい。

ピークス → 入門の山とソロテント泊縦走 ギアに凝る以外の発展性は乏しく、もうネタ切れ予兆あり。
ワンダーフォーゲル → ガチ化進行中。なわりに低い想定顧客層の実力。
ビーパル → 憧れ系アウトドア。アウトドアズメン、であって山男ではなく、テント泊ではなくキャンプ。擬似アウトドアズメンから、リアルアウトドアズメンへの脱皮を期待したい。
山と渓谷 → 大衆化の劣化
ランドネ → 山ガール御用達本陳腐化進行中。ブームはすでに去っているので…。落穂ひろい。

山の雑誌は、こうしてみると、わざわざ購入する価値がある情報が掲載されているようなものがない。どの雑誌も、北アの一般ルートに、ちょこちょこ他の山域の代表的なルートを付け足したくらいで、お終いだ。つまり進化が入門者止まりだ。

登山は、さらなる大衆化が進行中だ。というのは、登山人口を増やしている主力は、もはや登山雑誌ではないと思われる。

ごく普通の、「ポパイ」だの、「ターザン」、「クロワッサン」、「大人のOFF」といった、登山と関係ない雑誌が、山登りの特集を出していたりする・・・つまり、社会は全体的に自然回帰へと、流れてはいる。

が、その回帰しようとしている、自然への自然観は、まだ幼稚で、別荘地で自然破壊しながら、自然っていいね、って言っているようなレベルに過ぎないってわけだ。

さらに言えば、広告で製作費をねん出している、雑誌の宿命として、モノ中心主義=消費中心主義、から、抜け出せない。

たとえば、山に持って行く、My箸の使い勝手比較とか・・・。箸なんて、割箸がベストなんである。よほどの暇人でない限り、箸の吟味に使う時間は、次の山行のために地図をにらみつける時間に使うべきなんである。

そして、何を買うか?という消費を中心とした生活スタイル自体が、今の時代、もう時代遅れ感満点なんである。

今はもう、何も買わないで過ごすには、どうしたらいいか?な時代なのだ。

ただ、こうして概観してみると、高山のバリエーションに行くようなガチな人が見て、価値がある、と感じるような雑誌は、市場から、姿を消してしまった・・・。

おっと、全然違う話題になってしまったが、長谷部さんから電話があったって話でした☆


No comments:

Post a Comment