Wednesday, July 16, 2014

登山を通じてポジティブライフ

■夏の始まり

ここ数日、甲府は大変暑いです。今年甲府は7月11日、先週の金曜日から夏日に入りました。

そして私は、その夏日初日にクライミングウォールでノースリーブのタンクトップで壁に張り付いていて、肩をうっかり日焼けし、今もう皮がむけてきています。人工壁で壁にへばりついていたのは、ほんの10分程度だと思うのですが、湿度を含んだ空気を通った紫外線の威力は侮れないみたいです。完全に焼けすぎになっています。日焼けしやすい私は、この週末のクライミングで日焼けし、すっかり”夏休みの子供状態”です。つまり幸せいっぱい!ということですね。

■ 私の山

私は夏は暑いので、涼を求めて沢を歩きたいと思っていました。もうそろそろ涼が欲しくなる季節になりましたが、今年は、北岳バットレスという課題が浮上しました。北岳バットレスは、私という登山者の身の丈以上での山であり、全エネルギーを集中投下しないと実現しない。そのため、今は沢はお預け感が少しあります。

北岳バットレスは、私らしい山か?というと、たぶんそうではないと思いますが、北岳バットレスに行きたくない登山者はいません。登山者なら誰もが行きたい山です。ただ行けるとは思わないから、行かないだけで。私自身、まさか北岳バットレスに行くという可能性が、ほんの指先の先っぽだけでも、浮上してくるとは思ってもいませんでした。

それは、鹿島槍鎌尾根や西穂高沢、あるいは屋根岩2峰や小川山レイバックにしても同じです。まさか、このような山に行ける日が自分に来るとは思っていなかったのです。どの山も名前さえまったく聞いたことのなかった山でした。

考えてみると、これらの山は日ごろの読書や苦手である人工壁でのクライミングを続けている、というような、日常傾けている地味な努力に対しての、ご褒美というような感じですが、実際のところ、これらの山が可能になった事情の半分は、私自身の努力の結果ではなく、ベテランたちにとっても、山の同行者を得るのが大変に難しい、という山岳業界の事情によるものではないか?と思います。

同行者ってそれほど得るのが難しいんですね。 自分の行きたい山に一緒に行ってくれる人がいないって意味です。

まぁ、私は単独大好き派で、ロープのイラナイ山に夫以外の人と行きたいと思ったことはないので、いつでも誰かと行きたい、という気持ちはあまり分かりません。

■ パートナーを育てる

パートナーを見つけるのが難しいので、パートナーを育てる人もいます。 

その場合のメリットは、自分好みの登山者に仕上げることができる、ということです。 

ハイキングにも行ったことがなくてバリエーションに登っている人もいるらしいので、不思議におもったら、そういうことでした。

私にとっては、登山は経験ゼロから積み上げる、発見のプロセスを愉しむものなので、そのような、いきなり感のある成長の仕方もあるということにビックリしました。 

『華絵、山に行く』という本を前に読んだときにもそう思いました。一人では高尾山にも行けないのに、冬の穂高とか行っちゃった女の子の話です。クライミングジムにヘルメットを持って行って笑われるんですよね。

私がそれ以上に驚いたのは、育てる人の側です。 

ハイキングレベルの登山経験もゼロの人を、バリエーションが登れるまでに育てるのは、一言でいえば、すごく困難なことだと思います。体力やクライミング力は、一朝一夕にはつかないので、時間もかかるでしょうし、行き先の選定から、安全配慮まで、全部自分持ち、つまりガイド状態です。相手は何も知らない、知っているはずがないのですから、仕方ありません。それを分かっていて、やらないといけない。相手にモチベーションを与え続けなくてはなりません。

ガイド以上の、まるでサリバン先生か、専属トレーナーのような負担を全部を受け入れてまで、パートナーを育てるなんて、私にはとてもできそうにありません。何しろ自分がしてきた苦労の果実をぜんぶパートナーに注ぎ込む、ということになるからです。

たとえば、去年、ハイキングレベルの登山者をアイスクライミングに誘い、クライミングを楽しんでもらったことがありましたが、ハードシェルも冬靴もヘルメットもハーネスもクランポンも私が貸出しでした。その上、ビレイはさせられない、というかしてもらえないのです。つまり連れて行くと、自分は登れず相手を登らせてあげるだけです。さらに言えば、もしガイドに頼めば、2万円近くの出費になるということも、初心者なので当然知っているはずがなく、ありがとう、という一言でさえも期待はできません。逆に危険な目に合わせてひどい、と言われないか、びくびくしないといけません。その上、ビレイしてもらえるようになってもらおうとおもったら、練習用のジム代も自分持ちです。

具体的に言えば、そのような負担があるんです。私がそのような負担を背負ってまで、一緒に行きたいのは正直、恋人である夫だけです。

私の師匠は、若き日の自分が注ぎ込んだ登山の情熱と苦労の価値を理解でき、ありがたいと思ってくれる人にだけ、分け与えたいとおもっているのではないか?と思います。

勉強熱心な初心者が愛される理由は、そこです。熟達者の苦労と価値が分かるということです。

しかし、一般に、一般登山者がそこを理解できるか?というとそれは非常に難しいです。

これを書いている私自身、いまだ想像の域を出ません。

■ 現在地

そういうわけで、私は、一般登山者以上クライマー未満、というような段階にいます。

平たく言えば、初心者です。しかし、一般登山道で言えば、もう一般登山道はどこでも歩けます。

しかし、2年前は、観光客以上一般登山者未満、というような段階にいました。

■ ポジティブな変化

私は正直、かつて仕事に傾けていたのと同じ情熱を、趣味の登山に傾けていると思います。ボスがいないだけです。逆に言えば、ボス不要の自律性を身に着けたからこそ、そのスキルを使って趣味を推進させていると思います。私が仕事で身に着けたスキル・能力は、全部登山に向けて活用されています。

私の現在の職業はヨガのインストラクターなので、ヨガにそのような情熱を傾けるべきだという心の声も聞こえてこないわけではありませんが、ヨガは都会のもので、山梨の地の利を生かした活動ではありませんし、また私自身が置かれた現在の状況的にも、追い風とは言い難く、総合的に判断すると、今、取るべき戦略とは思えません。

改めて、趣味の成功とは何か?と言うことを考えると、これは職業上の成功(おそらくほとんどの人にとって金銭的成功でしょう)とは、また別の尺度で、図られるべきであろうと思います。

もちろん趣味ですから、楽しく充実感がないと続けること自体が困難であると思います。それはあたりまえとして、何が趣味の成否を決めるのか?ということになりますが、これは日常生活が、その趣味をもたなかった場合より、円滑に流れていく、ということが一つの傍証ではないか?と思います。

私の現在の生活はすごくシンプルで、献立に悩まされたり、行き届いていない掃除に罪悪感を感じたり、退屈しのぎにファッションに資金を投じたり、あるいは、ステータスを表現するためのバッグや指輪などの有力なサポートが必要だったりしません。

私は私のありのままで問題なく存在できます。そうしたことは、精神的に充足してこそだと思います。

私は仕事においても、そうした精神的充足を求めてきましたが、仕事では登山と同じように取り組んでいても、同じような充足を得ることができなかったのです。

が、それは、私自身に原因があるのではなく、社会の側にあったのだろう、ということが登山を通して最近、理解できるようになりました。

仕事においては、私はスーツで身を固め、パスポートにある出国数スタンプの競争に参加し、名刺にある名前ではなく、会社名で存在を認識されなければなりませんでした。

日本は女性に対してクローズドな社会です。が、成人するまでのプロセスを通じて、私はそれを学びそこねたようで、さらに20代の早い時代に自立を勝ち取り、アメリカに渡って、性差ではなく能力で判断させる社会を経験したせいでしょうか…、また学生時代を通じて男性と比べ、自分が劣ると思える事態は起らなかったため、社会に出た私は、自分が男性並みに能力があると言うことが、なぜ受け入れられないのか、ということを理解するのに長い時間を費やした気がします。

それは私の側の問題ではなく、社会の側の問題であったのだ、ということが最近登山を通じて理解できました。

要するに私が敗北だと思っていたことは敗北ではなかったのです…

そうしたことが理解できただけでも、登山はやる価値があった活動だと思います。



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