Tuesday, February 12, 2013

平賀文男


先日は平賀文男さんの足跡をたどる講演会にちょっと出てきたんですが…昔は”初登” つまり一番乗りに価値があったわけですね。

つまり、一番乗り=エライ! が時代的価値観だったわけです。

でも、この方、北岳の積雪期の初登をしようとしたら、たったの6日遅れで誰かに先に登られてしまう。

当時は実は情報がないので、だれが先に登っているか、自分ではよく分からないらしいんですね。

たった6日。 タッチの差で”初登”という栄冠を惜しくも取り損ねたってわけ。

で実はその北岳の帰りに立ち寄った、甲斐駒ケ岳が積雪期としては初登になったんだそうです…(汗)本人もアレ?って感じでしょうね。 ま、とりあえず一番乗り。

ついでに言うと、槍ヶ岳の小槍も、3日の差で第二登…。

でも、名誉にあずかれなくても、2番でもほとんど一番乗りと苦労は変わりませんよねぇ??? 

こういう風に栄誉や名誉に預かり損ねたこと…ってどんな意味があるんでしょうね?

本人は悔しい~!と思ったのか? 

■ 注目を浴びたいのが人情?

今、北岳の積雪期の第一登者がだれか?なんて知っている登山者いるでしょうか?いないよなー。

というか、そもそも、日本のように歴史の古い、狭い国の国土の中にいて、初登って意味あったのかな?そもそも??? ないよなー。

それはその当時からそうなのですが、みんなが浮かれていて、意味ないなーってことには気が付かなかったんでしょうねぇ。

昔は登山は今と違って、大いに冒険で北岳くらいで、新聞記事を賑わあせたものだったらしいです… 当時は娯楽が少なく、話題にするニュースが少なかったんでしょうね。

今では新聞を取る人も少なく、新聞のメディアとしての地位は下がる一方です。ネットもある、TVもある、そういう中での新聞ではなく、唯一の大衆的メディアとして、新聞のメディア力は強かったんですよね。

そりゃどんな形であれ、たくさんの注目を浴びればうれしいのが人情ですね。

つまり初登争いの話は、当時は初登ということが、たくさんの注目を浴びましたっていう、いわば空虚な話なわけですね。

2番目だと世間から”惜しいっ!”と思われてしまう(笑)?

今では、少し本格的な登山をする人であれば、さほどの高難易度でもなく、登れる北岳。北岳にのぼったひとなんざ数えきれないくらいいるはずです。

■ 自尊心の問題

注目を浴びたいという心理の話なら、自尊心の話ですよね。 

注目を浴びたいのは昔から自尊心が低い人と相場は決まっています

でも、この平賀文男さんは、特に記録を熱心にはつけていなかったようで、その点からは、注目を浴びたい!という心理はうかがえません。

今は知られることもなく埋もれた偉人って感じですけど・・・ 別に埋もれて結構と本人はおもってたんでしょうね。なんかかっこよくない?

人生はその本人が十分生きたかどうかで評価されるもので、後世の人たちが先達の業績の価値をあーだこーだと言うのは、ご本人の人生の本質と全く関係がないと思うので・・・

この方のそうした自分のうちだけに秘める姿勢はむしろ自分の山と向き合い自尊心の問題を抱えていなかったということを意味して、むしろ好感が持てますね。

■ 時代的共感

この方は実際は、自身は世間から「惜しい」という目で見られることについて、どう感じていたのかなぁ?

それがちょっと知りたいですが、基本的に、特に自らの足跡を声高にアピールすることがなかった、ようですが。

そのメンタリティは、「どうだ俺ってすごいだろ!」っていうタイプ人よりは、渋くてかっこいい!と思うのですがどうでしょうかね?

山は今も昔も、山と個人が1対1で向き合うもののような気がします。

価値があるのは、ある人が山と向き合って得た発見だったり、気づきだったりするのだと思うのですが・・・

つまり”感動”というのは、受信側の人間の、心の持ちようですから、山に行ったこと、そのものに価値があるのではなくて、山に行って受け取った心持ち、感動の内容が時代的共感をたくさん得たかどうか?

そこんところが大事だと思うのですが・・・

結局は、山に登った人自身がどれだけ時代人として生きたか? そこが書いたものに現れるんでしょうね。

それは残念ながら初登がかっこいい!という価値観からは指の間からすり抜けたようだけれど、
別にそれで自分が向き合った山の価値が損なわれるでなし、後世、有名にならなくても問題ないかな~と思うのですが・・・みなさんはいかがでしょうか(笑)?


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