Friday, May 22, 2015

読了 『死を悼む動物たち』

■ 死を知っていること

アダムとイブは、禁断の実…それを食べると知恵が開くという…を食べ、楽園を追われた。動物と人間を分ける知識…知恵の実、に当たるものは、死の知識だ。動物界の中で、人間だけが自分は死ぬということを知っている

動物はいつか自分が死ぬ運命にあるとは知らないが、仲間の死を目にしたとき、動物によっては、死を悼むようなそぶりをすると言うのが、この本の訴える内容だ。

つまり、動物は死を知らないが、喪失の痛みは知っているようだ。つまり、仲間が死ねば、それが分かる。仲間の死を悼むように思える動作…死骸をつついたり、しばらくそこに佇んだり、などの行動をする。それは、死を理解しよう、受け入れようとする行為に思える。

動物が相手の死を悼んでいるとは言えなくても、

 死という事実を受け入れるのに、時間がかかるということは人間と同じ

ということだ。それは人間と全く同じだ。

弟が死んだとき、葬式と言うものは死者の為ではなく、残された遺族がその死を受け入れるためにあるものなのだ、と理解した。

死とは受け入れるには時間がかかる事実なのだ。特に、突然死の場合は。

■ 愛とは一緒にいること

動物も一生を生き抜くのに、コンパニオンを必要とする。

ある猫の姉妹は、生まれたときから一緒に暮らしていたのだそうだ。ある日、片方が死んでしまうと、これまでのように餌も食べれなくなって、衰弱してしまう。そこで、別の猫を連れてくると、亡くなった妹猫の代替えとはならないまでも、また食事も戻り、日常をやって行けるようになる姉猫。

人が一人きりで生きていけないように、にゃんこも一人きりでは生きていけないんだなぁと思った。

猫や犬などの動物にとって、愛情の表現はすごく単純で、

 一緒にいる

ということだ。

それは人間にとっても当然至極のことで、子供たちが親に要求しているのは、実際ただそれだけのことだ。子供はおいしい食事をくれとか、高い衣服を買ってくれ、良い学校に行かせてくれとか、親に要求しない。そういうものは、親の方が勝手に子供に押し付けるものだ。そのような、言ってみれば2次的なもののために、結局、大抵の場合、親は子供と十分な時間を過ごすというほうを選ばない。

経済的豊かさと子供と過ごす時間では、経済的豊かさを選ぶ人がほとんどで、例えば一家の大黒柱である父親の立場のように、やむを得ない場合でさえも、子供が必要とする愛情の確認を十分与えることをしない。

人は自分がされたようにしか次世代を扱うことができないので、親のせいではないが、結局、愛情不全状態の再生産に陥っているようにさえ見える。

一方で、人は孤独に恐れおののき、ペットに救いを求める。ペットは最後の砦なのだ。

■ 理想郷の住人

私はいつも欧米の人たちは動物との接し方が上手いし、動物と適切な関係を築いていると思う。

飼い犬は甘やかされておらず、猫は猫で、猫かわいがりはされていない。動物のありのままの”さが”を受け入れ、愛していて、素晴らしい態度だなぁといつも思わさせられる。犬にはご主人様が必要だし、猫には自由が必要だ。動物にも感情があることを当然と受け止めている。

動物に対する特別な愛… 馬への敬愛とか、猛獣への恐怖を伴う憧れ、一夫一婦制を守る野生動物の観察など、動物とともに暮らした民族なのだと感じることができる。

それは、熊や鹿などにに対する日本人の感情の持ち方とはまったく異質で、共感をベースにしているような気がする。日本人の場合は、鹿の力強く唸る筋肉を見てうっとりした、というようなことはないだろうし、熊だってその勇猛な姿に畏怖を感じた、ということはないだろう。これが海外のサラブレッドに対する感傷的な想いや、バイソンに対しての畏怖ならば、意味が通りスッキリする。

西洋の人たちは、ある意味、野生動物に理想郷の住人として、あこがれを抱いているようだ。

■ 死

自分が死ぬことを知っているため、人間は理想郷には生きていない。

死の認識が人間にどう働くか?というと、誰もが思いつくのが恐れだ。

人は死を恐れるがために子孫を残すのだろうか?

自分の遺伝子が後世に残ったことで安心するというのは、いぜん誰かから聞かされた。昔から洋の東西を問わず世継ぎ問題は大問題だ。しかし、自分の遺伝子をこの世に残すことができたとしても、自分の死が回避できたわけではない。

死は予想できず、回避もできないので、結局人ができることは、唯一、今の時間をよりよく過ごすことだけなのだけれど、それがどういうことなのか?理解するのが難しく、理解できた頃には、すでにそれを生きる時間が残されておらず、死を目前にしている、ということに世間の相場は大体決まっているように見える。

充分に生きるとはどういうことなのだろうか?それは動物の生き方に観察することができるのではないだろうか?

この本は、久しぶりに読む良書だった。

良書である理由は、巻末に観察の根拠となる論文リストが載っていること。つまり、すべて学術的な観察を基にした推論や考察であって、きめ細かく、決めつけや誤謬、認識違いを避けていることだ。

是非一読をおススメする。

類書としては、テンプル・グランディンの本があり、こちらも非常に良い本だった。



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