Tuesday, March 17, 2015

クライミングと似た人生体験

クライミングというか、登山の何が気に入ったのか?ということを考えるときに、いつも思いだす人生体験がある。

私の大学進学だ。その時の精神的なステイタスと、クライミングは似ている。うまく言えないが、似ている。

そこで、それがどう似ているのか、なんとか表現してみようと思う。

■ 進学のこと

私の高校は県内トップスクールだった。しかし、入学した途端に後悔した。

「〇ページ、読めば分かる。△ページ読めば分かる。×ページ…これは、ちょっと説明しようか」という具合に授業が進み、予習を前提にしていた。

私はこれまで、勉強では”現場主義”を貫いていて、学校の勉強のために予習などしたことがなく、全身全霊で授業中に先生の言葉を聞くことで、勉強には対処していた。宿題は授業時間中か、もしくは休み時間に済ませた。これは高校では通用しなかった。

高校の級友たちは、この授業スタイルには平気だった。聞くと予備校に皆行っていて、その予備校の進度が学校より早いってだけのことだったらしい。

高校受験は快挙と言われた合格だったが、受かって手を抜くことが許される、と思っているのは、私に掃除・洗濯・夕食作りの家事をしてもらいたいと思っている家族だけだった。

高校受験より大学受験がもっと過酷なことは明瞭だった。入学はゴールではなく、より過激な競争のスタート地点だということは、一日目で明らかだった。

一緒に進学した親友の男子生徒は、中学ですでに、半年先を勉強していた。塾が教えるものだった。つまり、私は塾を知らなかったので、単純にそうした情報が来なかったのだ。独学だったから。

わたしにとって最悪だったのは、家族が私よりもそうした世間に疎い、つまり状況の認識が甘い、ことだった。つまり、わたしのパーティは、お気楽無謀登山者と同じで、危険に対する状況認識力がなかった。

母は予備校など行かなくても大学に受かると考えていたが、そんなに甘い世界ではなかった。中学時代とは違い、今度は各中学でトップ1~3名というような、”上澄み”ばかりが寄り集められた精鋭ぞろいの学校だった。

しかし、母に仮に理解があったとしても、我が家に私の予備校代を払う経済的ゆとりはないのは、明らかだった。ので、どっちみち同じだ。そもそも、山行企画がまずかったのだ。しかし、もう登り出した山だった。

私の状況がどれだけ深刻だったか?というと、一学年500人なのに、私が最初に受けた高校の一斉テストで順位は487番だった(笑)。先生に「君は高校で終わりかね?」と質問を受けた。

私は下山をしたいと思い、退学と翌年の高専の入学を提案したが却下された。敗退はなし、か。

しかし、私にはパーティ、つまり家族からの助力は期待できない。どうするか?

考えてみると、”見れば分かる”式の授業は単なる時間の無駄だった。それで授業時間には自分で勝手に自分の勉強をすることにした。先生はもちろん気持ち良くないようだったが無視した。

幸いなのは高校が規則ゼロという校風だったことだ。パーマをかけ化粧をしている人もいた。教科書は、最初の半年で終わってしまい、授業をさぼることも黙認され、大人が囲い込んで勉強を無理強いする他校とは大きな違いだった。大人扱いしてくれるのだ。

高校3年分の学習内容は2年で終ってしまい、最後の一年は授業は参加したい人だけが参加する校風だった。3年は学校自体に行かない人もいたくらいだ。それで私も、学校へは行くが、図書館にこもって勉強することにした。おかげで出勤時間が楽になった。

この学校は変わっていて、テストは100点ではなく50点満点なのだが、平均点で35点、私は15,6点というありさま。それでも48点とかの天才がいた。何人か、どうみても常人とは違う、という雰囲気の学生がいた。マッドサイエンティスト的な空気を醸し出す別世界の人々だ。

そういう人は授業がつまらないので、部室や美術室、図書館などにしけこんでいた。授業が無駄なのは、落ちこぼれの私も同じだった。ので、同じく部室などで勉強していた。これができたのは、先例があったからだ。

そういうわけで、学業成績的窮地と、経済的窮地に立っていた。学業の成否より大きな問題、つまり核心・・・だったのは、費用をどうするか?だ。つまり、母子家庭なので、進学費用がない。

卒業後就職という道は、この学校では閉ざされれていた。実績がゼロなのだった。

どうするか? ピンチだ。進退窮まるとは、このことだった。それも私の判断ではなく、他の人の判断ミスだった。天候の判断ミスと同じようなものだ。

私の考えでは、そもそもこの学校に進学すべきでなかった。私は高専にも行けたので、私自身は高専という選択肢を中学で先生に話したことがあった。しかし、普通高校へ進むよう言われたのは、たぶん学校が進学実績を作りたかっただけだ。つまり、中学の見栄のために、私は犠牲になったのだった。

さて、大学進学だ。行けるところに何が何でも入らないといけない。しばらく解決策が見えず、暗澹とした気持ちで悩んだ。

とりあえず、金がないことには何も始まらない。中学時代なら奨学金をもらえる学業成績だったが、高校ではピンキリではキリに近い。ダメだ。勉強に注力することは今の状況の優位性を高めない

しかし、この状況で何ができるか?

当時、私の家は、その日の食べ物にも欠くような経済状況だった。昼ごはん代さえもない。それで、朝6時からバイトし始めた。学校ではバイトは禁止だったが、要るものは要るものだからだ。

母は私の授業料も途中から払っていない。わずか7000円少しのことだが、母の財布にそれがないのは分かっていたので、自分のバイト代から出した。言っても仕方ないことだ。弟も妹もいるのだから。

バイト先はパン屋だったので、古いパンをランチ用にもらって帰ることが出来て助かった。友人たちにもありがたがられた。

とりあえず目先のことで出来ることは何でもした。ルート探しだ。

勉強は得意科目を徹底的に伸ばした。私は論文に強みがあった。学校では定期テストの他、抜き打ちのテストがあった。それで一度、国語で3番を取った。学校では上位50位内と下位50位内が張り出される。普段下位50位にいるのだが、いきなり3位に躍り出て、それまでいぶかっていた周囲にも、私が一体何をやっているのか理解され、ほっとした。

皆は私が捨て鉢で、人生を捨てていると思っていたのだ。捨てたのは数学で、その時間で得意科目を磨き、他の時間はバイトしていた。選択と集中だ。時間と言う資源は限られている。自分に優位性がない活動はしない。

結局、3年の時点で、当時の成績のセットで行けそうな大学は、論文入学の京大か、横浜国立大学、神戸大学、東京外国語大学、大阪外国語大学などだった。文系学部しか科目の関係で入れない。私は実学の経済学部にしたかったが、競争率の関係上リスクを冒したくなかった。人気があまりない文学部や語学系のほうがまだ安全だった。京大は学科試験がなかったが、後期日程だった。学科成績ではとても届かない。論文での一発勝負でリスクが高い。

その選択肢から、進路指導の先生に相談すると、総合大学では、のちの優位性が低いと言う。それで単科大学を選んだ。単科大学となると語学系しかなくなる。東京か大阪か?という話になり、高校時代のクラスメートの8割が首都圏へ進学するというので、大阪にした。私はマイナー好みだったし、落ちこぼれとして過ごした高校時代を大学に入って引きずるのは嫌だった。

道が見えた瞬間だった。これは生き残りをかけたサバイバル、脱出路だった。退路を断っていたので登るしかないのだ。

受験日程の関係から受かったところに行く作戦にした。受験したのは二校だが、進学できれば、どこでもよかったので、受かったところに行った。

それより問題は受験費用だった。高校も3年になると模試代もかかる。模試は自分の客観的な実力を見るためのものなので、外せない。これも自分のバイト代で出した。しかし、3回受けるところを1回にするなどした。勉強する時間もバイトする時間と同様大事だったからだ。使えるギアは限られており、ロープは50mいっぱいまでしか伸びない。

受験費用は、国立なのでそう多額でもなく、バイト代から出そうだった。でないのは入学金と遠征費だ。大阪までの旅費や宿泊費。知らなかったが、受験生のために旅行会社が用意したホテルは、ボッタクリ価格だった。なんと梅田の真ん中で16000円もするホテルに2泊。今思えば、一体どこの重役なんだい?っていう高級滞在先だ。

だが、私は高校生で無知だったので、言われたままを払うしかなかった。親戚縁者もいなかったし、母以外の大人も知らなかったし、母とて私より世間に無知だった。これは勇気を振り絞って、父に請求した。父親と話すのは10年ぶりだった。しぶしぶ出してくれた。

大阪まで出るのは、受験での一回コッキリなので、前日に当日の電車を間違えないよう偵察に学校まで行った。受験当日は、終了後大学の生協へ行って、4月からのバイト募集にその場で応募した。受験が済んで帰った翌日からバイトしていた。何とかザイルをのばさなくてはならない。

入学金などの大きな金は、母が銀行から50万円借り、そのうちの17万円を私にくれた。残りは家計に行った。だから私は17万円で親元から自立したのだ。それにバイト代を足して、30万円以上あったが、入学金、引っ越し費用、旅費を出したらいくらも残らなかった。

引っ越しは簡素で、段ボール3個分。宅急便で学生寮に送った。一つだけ贅沢をして、子供時代に弟が何度もおねしょした布団はもっていかず、新しいお布団セットをダイエーで1万円こっきりで買った。テントで飲む日本酒みたいなものですね。

17万円は、一人の人間が親元から自立して進学する資金とするには、心細く、お金はすべてなくなり、入寮した日には財布にはほとんど何も残っていなかった。ザイル一杯一杯。登攀力ギリギリ。

学校は4月の初旬からだったが、入寮は4月1日から可能だったので、1日に入寮した。学校はまだスタートしていなかったので、寮には上級生もいなかった。寒々としたコンクリートの床に鉄のベッドと机、デスクライトがあるだけの部屋で段ボール3つがスタート。清々しい勝利だった。今思うと、ビバーク地点についた!という感じだ。もう安心だ。あとはセルフをとらなければ。

まだ完全に安心はできない。翌2日から大学生協でバイトした。生協以外にも、夜になると、近くの本屋でバイトした。食器も何もない。生活用具はゼロだったが、バイト先のおばちゃんらが、お椀やらお茶椀やらをくれたり、お歳暮のタオルをくれたりした。もらえるものは、なんでも、もらった。何にも持っていないから、何でも役立ったのだ。

私は一日の生活に必要な額を計算し、つねにそれより多くバイト料が入るように働くことにした。一日500円で生きられれば、一日5000円稼げば、大丈夫のはずだった。入学式はバイトでパス。バイト先へは歩いて出かけた。急にお金が必要な時は、当日払いの日雇いバイトに出かけた。つまり、その時代は、核心部で、だいぶランナウトしているような、悪い場所にあたっているようなものだった。

私は後ろは決して振り向かなかった。実家に学生たちが帰り始めても、そのお金がもったいなかった。生活費、食費、授業料、ありとあらゆるものを自分が働いたお金で払うのだから。ただ正直に言うと、その方が生活が楽だった。先を考えると、実家に戻るのは、ただのお金の無駄だった。パーティは足手まといだったのだ。フリーソロを選んだのだった。

その頃、大学図書館へ出向き、図書館でバイトしたいと言った。たまたま受け付けてくれた女の人は、どうして?と聞いてきたので、本が好きだから、と答えた。それで、欠員ができたときに採用になった。その図書館には、その後4年ずっとお世話になった。やっと一般道に戻ってきたのだった。

■ 核心は何か?

この経験で、核心は何か?つまりボトルネックを考えることや戦略を学んだ。

それに、人に指図されるのではなく、自分の意思で、何が正解か?ということを自分の頭で考える、こと。

中学の時、高専に行かなかったのは間違いだった。「あなたのだめだから」は嘘で、中学は進学実績が欲しかっただけだ。

大人は子供のことを考えてはいない。自分のことは自分で考え、自分で道を切り開かないと、誰も解決してくれない。

それが自己責任と言うことだ。代わりに判断してあげる、という人を信頼してはならない。裏があるのだ。

日本では、特に考えなくても、ただ何もしないだけで、周囲が勝手に状況を運んで行ってくれるのが普通だ。それは窮地に立たされていない場合だけだ。つまり、窮地でなければ、人任せでもなんとでもなるのだ。

クライミングでは、皆、窮地に立っている。支点があやふやだったら、それは支点構築を相手に任せた自分にも、落ち度がある。

弟はスポーツに専心したので成績が悪く、高校は私学しか進めなかった。スポーツ優待もなかった。彼も高校では土方のバイトをしていた。身入りは良いがすごく大変そうだった。ルートを見誤ったのだ。私も人のことは言えないが。

妹は、誰かが彼女を助けに来るまで待つことにしていた。子供の頃のIQは子供3人のうちで一番高く、小中一貫教育を受け、私が行った高校には、何の苦も無くエスカレーター式で入れるはずだったが、入れず私学へ行った。

高校では彼女はただ普通に高校生活をエンジョイしただけで、私の生き方は、妹から批判を受けた。妹が言うには大人に任せればいい、もっと人を頼ってよい、という話だった。

私はその話は買わない。妹が頼ってくるのは、結局いつも私だからだ。私が妹に頼ったことはない。妹の話は、頼れる相手がいる人の話だ。わたしにはバックアップはなかったのだ。懸垂のトップみたいなものだ。下で引けば停止するから大丈夫、なんて言えない。

妹はその考え方を実践した結果、短大に行き、親があっせんした会社に入社し、母と弟と暮らし、弟が突然死で亡くなり、母が追いつめられると、妹は主たる家計の担い手として、追い詰められ、結局、薬を大量に飲んで、ICUに入ることにした。生きる意志を失ったのだ。

母は妹を引き取って、しばらく養うことができなかった。妹が身を寄せたのは、勤労学生の地位から脱して間もない、私の家で、就職3年目。ゼロからスタートして10年目だ。大学は7年かかった。家族を養えるような財力はなかった。彼女は身を寄せている間、当然のように一銭も出しておらず、わたしから餞別をもらって出て行った。大阪で働くことを提案したが、肌に合わないのだそうだった。

妹との違いは、ただ4歳の差と、自立しようとした強い意思だけだ。

彼女は、人が敷いたレールの上を歩くことを選んだ。道があるところを歩こうとしたのだ。一般ルートの山のように、みなと同じ道を歩けば、安心だと思っていたのだった。ところがどっこい、雨も降れば、崖もあるのだ。

妹はリスクを見ていなかった。私に言わせれば、私たち兄弟3人の最大のリスクは、母だった。母には、戦略がなく、どう物事を解決するつもりか、一切考えがなかった。それは母のために周りがレールを敷いてくれる人生を生きてきた人だからだ。

母の試練は、子供を3人も持って、若くして夫と別れたことで、それさえ考えなしにやったことだろうとうかがえた。試練を乗り越える作戦が全くなかった。美しい人だったから、再婚のチャンスは、私が大人になって振り返ると、いくらかはあったようだった。

進学したのち、シングルマザーの先輩に出会った。わたしより10歳年上の28歳で3歳の子持ち。昼間は働き、子供は施設に預けていたが、別にかわいそうということもなく、子供は健全に育っていた。

子供は大人の感傷で考えるような、軟な生き物ではない。母は、子供たちが、かわいそうと言って、兄弟が父側と母側に別れたり、施設に預けられたり、彼女自身が再婚して継父ができたりすることを拒んだのだった。拒むのはいいが、だからと言って他にどうすればいいのだ?代案は?

母は、すべてにNoと言い続ければ、誰かが解決案を持ってくると思っていたのだろうか?結局は誰かがなんとかしなくてはいけない。その誰かは、子供たち、おのおのであって、母自身ではなかった。実際、母は子供三人が自立し、自分だけの世話をすればよいようになっても自立できていない。

後でアメリカに渡って、友人にこの話をすると、みな、現実的にリスク認識力があるのは、この家族構成では私だけだったし、このピンチをうまく切り抜けたと賞賛してくれる。日本では逆で、与えられた道、レールの上を歩んでいない私は、世間では肩身が狭い。

私は、高校生の少女の時、道があるところを歩いたのではなく、道を切り開いたのだった。それも崖っぷちのスレスレを。ビレイなしで。

この時は、真の人生を生きている、という感じがした。 

幼稚園、小学校、中学校、高校と、私は私なりに真摯に生きて、大人に言われたとおりにした。でも、大人に言われたとおりにした結果は、まずかった。

幼稚園受験、小学校受験、中学受験、高校受験、それに大学受験、全部やった。受験勉強に子供時代の貴重な時間を割いてしまったので、私の本来好きだったことを実現するために、自分の能力を開花させることはできなかった。

私は家庭では家事労働者で、学校では委員会や生徒会を担当し、人のために生きていた。学校の”係り”は2つも3つも掛け持ちしていた。キャプテンや部長、生徒会、委員長・・・、用事は忙しい人に頼め、という。それを実践していたのは私ではなく、他者の方だった。

皆のニーズを満たすのが先で、自分のニーズについては、何が自分なのかさえ分からなくなっていた。

アメリカに渡って、”if you don't know what you want, the other people will take you”と言われた。

つまり、バイトのシフトを出すにも、自分の要求を出さないと、9時から1時間、3時から2時間、8時から4時間とか、とんでもないモノが回ってくる。それで悪いと思わないのがアメリカだ。

アメリカ社会では、自分が何をしたいかを言えない人は、居場所がない。皆に小突かれて終わりだ。日本でも同じだが、日本社会のいやらしく、巧妙なことは、そうした人には、名誉は与えられていることだ。飴だ。騙されてはいけない。

アメリカで、レズビアンの家庭に間借りしていとき、その家の子供は14歳で、ヒドイ絵を描いていた。その子は長じてデザイナーになった。私は絵が得意な子供だった。入賞も多かったし、クラスでは一番上手だった。一体誰が才能がないと決めるのだろう?

道がないように見えるのは見ないから、なのだ。一般道に慣れた目には、より困難なバリエーションルートは、踏み跡どころか、導かれ感くらいしかない。道はない。地図と言う仮説を見て、自分でルートを設定するのだ。

この人生経験は、わたしには、クライミングや登山と、とても近く感じられる。

気持ちの在り方が同じだ。心のありようが。 

自分で自分の行く道は決める。

リスクは取るが危険は冒さない。

プロテクションは必ず取るが、ときにはランナウトも仕方ない。

スレスレでもしっかりスタンスに立ち込めていたら、大丈夫。

ビレイがなければ、フリーソロであっても切り抜けるしかない。

雨は大丈夫か?風は大丈夫か?1ピッチ、もう1ピッチ、ザイルを伸ばす。ギリギリだ。

ビバーク点にきた、ホッとする・・・でも、まだ気は抜けない。一般道に出るまでは。

精神力、強い決意だけでなく、観察力、戦略立案力が必要だ。

前に道はない。歩いた後に道が出来ているのだ。




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