Thursday, July 10, 2014

死の恐怖、未知の恐怖

■ クライミング

昨日は、小瀬のクライミングウォールに早めに出かけ、みんなが来る前に懸垂のセットをいろいろ試そう!と思っていたら、雨だったため、早くから来ている人が多く、壁を独占はちょっとできませんでした。

で、結局、クライミングスキルアップの日になりました。

私はパンプしたまま、登って、大墜落!やってはいけない墜落、その1の、手繰り墜ちです(^^;)。
終了点のハンガー、すごい固くて、かけづらいんですよね。もうパンプしていたので、硬いのが開けられず、落ちてしまいました・・・(^^;) 結構な距離を落ちました(汗) 

私は落ちるのも、レストするのも、練習しないといけないのですが、まだ怖くて落ちれていませんし(が墜落の経験が増えつつあります)、レストするとレストした分、腕力貯金が尽きてしまうんです(><)

≪課題≫
・レスト
・上手な墜落

■ 恐怖心について

最近、登山には二つの恐怖心があると気が付き始めました。

 危険への恐怖心 と
 未知への恐怖心

です。

フリークライミングをする人たちは、おそらく危険への恐怖心を乗り越えること=精神鍛錬、と理解しているのではないでしょうか? 

危険が怖い。 けど、危険にじりじり近づいて行く。己の肉体の能力だけで。道具を使わない美学です。

でも、実際のところは、ゲレンデでのフリークライミングはあまり危険ではありません。支点が整備されているので。

一方、アルパインクライミングを志向する人たちは、未知へのチャンレンジをワクワクする冒険と感じているのではないでしょうか? 未知が怖い。が、「知りたい」が勝つ。

でも、実際は、アルパインでのクライミングは、死の危険と隣り合わせです。整備されていない自然環境の中では、天候のリスクや落石などがあるからです。

登山というものをこの2つの恐怖心と言うことから言うと、

 危険への恐怖 = 最小化
 未知への恐怖 = 出来るだけ乗り越えていく・・・・という活動

と言えるかもしれません。 なので、未知という要素がなくなれば、登山は楽しくなくなってしまうのかも?

私は、といえば、完全に冒険派です。 子供の頃も学校の帰りに冒険していました。空家にこっそり忍び込んだりです(笑)

■ 好奇心

この二つの恐怖心は質が違う。 

私は危険に対する恐怖心は非常に強いほうだと思います。ただ未知に対する恐怖心は強くないです。

危険への恐怖心に強いクライマーでも、未知への恐怖心のほうは弱いまま、の人がいるのには、時々驚かされます。

それはある山の知り合いが、スゴいクライマーなのに、人生ではやったことがないことを習得する、ということについてなかなか重い腰を上げられず保守的で、あれ?不思議だなぁと思ったからです。

私は職歴上も開発部とか新規開拓とか、そういう新しもの好きな仕事が多く、業務上未知のことがないような、保守的な仕事は性に合っていません。

やったことがないことを勉強してどんどん吸収し、上手く行くか行かないか試さないと分からないようなことを試す、というような活動が合っているのです。でないとマンネリに陥って、人生灰色化します。

だから登山についても、登山という、私にとって未知の分野を吸収しよう!としているわけで、これは仕事をしていたときとまったく同じです。知らないことを恥ずかしいとは全く思っていません。

■ ロープを使わない登山には、まったく魅力を感じない・・・

ただ、ロープを使うような登山を行うに当たって、別の適性が不足していることに気が付かされました。

つまり、死の恐怖に立ち向かう、というようなことです。そこに、適性があるとはとても思えません。

そこがアルパインからフリーに逃げ込みたくなる時なのですが、でもアルパインのほうが未知の対象に対する好奇心を満足させてくれます。

最近、ロープを使わない登山には、まったく魅力を感じないようになってしまいました・・・いったいどうしたことでしょう???

ホントに山が好きだったのかしら?

同じことを相方も言っていて、すごく共感しました。 なんだかギアが入れ替わってしまったみたいです(汗)

でも、死の危険に近づいて行く、ということは、私が登山でやりたいこととは違うので、ちょっと戸惑っています。


■ 雨量120ミリの雨で出かける団体ツアー

この2つの恐怖心については、無謀と勇敢の差があるところかもしれません。

私は去年の今頃、小屋バイトを始めました。

そして、その4日後には、滑落事故で中高年の女性が死亡し、男性が大けがをしました。

そして、そのパーティは38人もの大きな団体ツアーで、なおかつ、雨であり、小屋の支配人が出発しないよう、アドバイスした日でした。

女性は山頂直下の岩場で滑落して即死、男性は大けがでしたが、そのような悪天候なので、ヘリも飛ばず遺体は、しばらく山中に置かれ、屈強な山岳警備隊が驚くような短いコースタイムで山を登ってきて、一般登山者の目に触れない時間帯に遺体を担ぎ下ろしたそうです。

こんな雨で出かけるなんて、無謀もいいところなのは、誰もが分かる。でも行くのです。団体は。

また、後日、別のパーティです、同じく雨量120ミリの日で雷が鳴っている日に歩いて小屋に来た20人くらいのパーティがいました。

が、そのパーティは何しろ、自慢げ でした。ホッとするのではなく、自慢げ。軽い興奮状態です。

私たち小屋の人は直感で、こうしたパーティには何も言いません。 が、本物の山小屋のおやじなら、一喝しそうですね。今ではそういう本物は見かけなくなりましたが・・・。

つまり、これらのパーティ2つとも

 死への恐怖心 

がマヒしているのです。 麻痺している、というのは、大丈夫だ、死なない、という論理的裏付けが一切ないからです。

団体ということが死への危険への恐怖心を麻痺させる、ということかもしれません。

■ 命知らずの若い男性の場合

以前、ラインホルト・メスナーの『第七級』を読んだとき、彼の単独行が安全を追求した結果であることにびっくりしました。

いわゆる登山家の場合、死の危険を自分のスキルアップで低めて行く、というのが、登山の本質的な活動のようです。

絶対死なないと自分の中で分かっている一歩を積み重ねていく、ということですね。

そうして、一か八かという要素をギリギリまで、低めていく。

だから、実際、危険なことをしているかのようであっても、実は彼の中では安全が増えて行っていたのです。

つまり主観的安全ですね。

他の人がどう思おうと、彼の主観では絶対に落ちないと分かっていたのです。パートナーがいるほうが不確定要素が増えます。なのでパートナーがいないほうが安全。

主観というのが山との対話、ということになります。山との対話は実は自分との対話です。だから山は自分との闘いです。

なので、自分との戦いに勝っていない人(たとえばガイド登山参加者)が山でピースサインなどをすると、ちょっと?な感じを否めません。

■ 主観的安全を増やしていくのが登山

私自身は、とても若いクライマーのようなわけにはいきません。

が、登山とは、人の思いのままにならない自然の中で、主観的安全を増やしていく活動、でありたいなと思います。



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